ドイツのエクスペリメンタル・ロック:60年~70年代に活躍したバンドたち

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クラフトワークがシンセポップ、ヒップホップ、そしてその後に続く一連のダンス・ミュージックに与えた膨大な影響のお陰で、ドイツの音楽はその昔から持たれていたステレオタイプ的な根拠のない良からぬ先入観を覆すことができた。とは言うものの、ある方面によっては現在でも、全てを一括りに扱うひどく困惑するような傾向が残っている。例えば、スコーピオンズとファウストの共通点はどう考えても僅かなのに括って紹介されることがまだある。そして見下した呼び方“クラウトロック”は、スタイルの多様性を許容させるような期待感をもたせるには殆ど役立たなかった。(ファウストは1973年アルバム『Faust IV』収録の皮肉っぽく偏執的なナンバー「Krautrock」で、その表現を陽気に打ち負かしている)。

1967年から1976年までの間、変わりゆく文化の窓口にいた多くのドイツ人ミュージシャン達は、共通の目標を持っていたといっても良いだろう。困難な状況の中、その多くは相互に孤立した状態で活動していたが、それでも彼等は、着実に前進しながら新たな表現方法や手段を試しては、それに伴う全く新しい環境を確立したいという衝動に駆られ、ひとつにまとまっていった。その際に、それまで支配していたアメリカとイギリスのロック、ポップ、そしてソウルの原型から、少しずつ離脱していったのだ。

とは言うものの、ドイツの新しい音楽の発展に直接大きな影響を与え。崇拝の対象となったイギリス人やアメリカ人は存在した。ピンク・フロイドの厳粛で壮大な電子音は、ドイツの大空に響き渡った。ジミ・ヘンドリックスの燃えるような煌びやかさは、変化のない低音がベースのミニマリズムの中では足掛かりを掴むことはあまりなかったが、その大胆な音は革命の到来を告げた。そしてフランク・ザッパの痛烈な皮肉は、当時広がりを見せていた学生動乱と調和した(当の本人は嫌悪感を抱いていたが)。

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アモン・デュール

1968年9月、エッセンで開催された“Internationales Essener Songtage”に、フランク・ザッパ&ザ・マザーズ・オブ・インヴェンションと共に出演したのは、極めて重要なドイツの新人バンド3組、アモン・デュール、タンジェリン・ドリーム、そしてグル・グルだった。1組目のアモン・デュールは、ミュンヘンの家で共同生活を送りながら断続的に楽器を打ち続ける緩い集団だった。その変わり易く流動的なラインナップの中には、比較的熟達したプレイヤーもいたが演奏者としては明らかに能力が劣っていて、政治的或いは芸術的意思表示をする為に参加していたような者もいた。その結果、グループはやむを得ず派閥ごとに分かれることになる。

エッセンのイベントには、グループに分かれて登場し、その結果、ギタリストのクリス・カラー率いる、表面上はより音楽的なグループ、アモン・デュールIIが派生した。オリジナルのアモン・デュールの『Psychedelic Underground』(1969年)、『Collapsing Singvögel Rückwärts & Co』(1969年)、それから『Disaster 』(1972年)の快活で気ままなパーカッション・ジャム(どれも1968年のセッションより)がアナーキーな意志を示したものだとしたら、1971年に発表された『Paradieswarts Düül』は比較的幸福に満ちたアシッド・フォーク・インタールードと言えよう(特に長さ17分の“Love Is Peace”は)。

アモン・デュール

その一方で、アモン・デュールIIの最初のアルバム3枚、『Phallus Dei』(1969年)、『Yeti』(1970年)、そして『Tanz Der Lemminge(1971年)は、鮮やかで好戦的な作品であり(特に『Yeti』はこの種類としては騒々しい逸品)、「Eye Shaking King」、「Archangel Thunderbird」、「Soap Shop Rock」はタフで不思議で魅惑的だ。

 

グル・グル

2組目のグル・グルもまたアモン・デュールII同様、ノイズの溜り場に浸かり興奮状態に陥る傾向にあったが、それでも僅かにロックと理解できるような開放的なサウンドを生み出していた。ドラマーのマニ・ノイマイヤーが舵を握るグル・グルは、共同生活を送りながら、当時の過激な論争に全身全霊で関わっていた。明らかに政治的な関心が強く、しばしばハイになりながら、彼等は1971年のデビュー・アルバム『UFO』と1972年の『Känguru』で、その陽気な無秩序を強烈に伝えている。

 

タンジェリン・ドリーム

そして3組目のタンジェリン・ドリームだが、彼等がトランス・ミュージック、そして図らずも結果として生まれた、ニューエイジ・ムーヴメントに与え続けた影響に関しては議論の余地はないが、彼等の初期のアルバムは今日で記憶されているよりもディープでダークだ。タンジェリン・ドリームはエドガー・フローゼによって1967年に結成され、当初のラインナップ(エドガー・フローゼ、ドラマーのクラウス・シュルツェ、そしてチェロとタイプライターで挑む非凡なアンチ・ミュージシャンのコンラッド・シュニッツラーをフィーチャー)は、ベルリンの温室のような場所ゾディアック・アーツ・ラボで、決然たる態度でフリー・フォームの道を進んで行った。

しかしタンジェリン・ドリームが名目上“クラシックな”シンセ・トリオの段階に入ったのは、クラウスとコンラッドの2人が去り、ペーター・バウマンとクリストファー・フランケが加入してからだった。当時としては新しいレーベルのヴァージン・レコードと契約して1974年にリリースされたのは、それまでの流れを変えるようなアルバム『Phaedra』、そして1972年リリースの『Zeit』は、共に究極の傑作と評されており、後者ではその時空世界が荘厳なだけでなく、寂しく恐ろしく、自動力がないことも丁寧に描かれている。

 

クラウス・シュルツェとコンラッド・シュニッツラー

タンジェリン・ドリームを去ったメンバーのクラウス・シュルツェとコンラッド・シュニッツラーもまた限界を押し広げていった。最初にアシュ・ラ・テンペルへ加入した後、クラウス・シュルツェは長きに渡り多くの作品を残すこととなるソロ・キャリアに着手し、まずは原始的で極めて倒錯したエレクトロニック処理が施された『Irrlicht』(1972年)を制作した。一方のコンラッド・シュニッツラーはその後、目も眩むほど多くの混沌とした挑戦的な限定盤を発表し、アヴァンギャルドの原理に忠実であり続けた。その代表的なものがファウストの『Faust IV』の収録曲と同じく「Krautrock」という曲タイトルで音質的に対立する20分のトラック収録の1973年作品『Rot』だ。

またコンラッド・シュニッツラーは、ゾディアック・アーツ・ラボの創設者ハンス・ヨアヒム・レデリウスとディーター・メビウスと共に、新しいユニットであるクラスターの誕生に協力した。トリオは完全にインプロヴァイズドされたアブストラクトなアルバムを3枚リリース(『Zwei-Osterei』、『Klopfzeichen』、そして『Eruption』。最初の2枚はシュールなことに、クリスチャン・レーベルのシュワンから登場)。その後ハンス・ヨアヒム・レデリウスとディーター・メビウスは、コンラッド・シュニッツラーと袂を分かち、クラスターよりもソフトなサウンドを追求することになる。1971年の『Cluster』とその翌年の『Cluster II』は、エレクトロニック・サウンドを感動的なまでに遠く厳しい荒野へ、想像の限界まで誘った一方、1974年の『Zuckerzeit』はメロディアスでおどけた、プロト・シンセ・ポップの満足感に満ち、二人がが暮らしていたニーダーザクセン州の村フォルストのコミュニティの穏やかな環境が感じ取れる作品だ。

 

ノイ!

1973年、コミュニティを訪れた重要人物と言えば、当時ドラマー兼扇動者だったクラウス・ディンガ-と一緒にノイ!を組んでいたクラフトワークの元メンバーのミヒャエル・ローターだ。二人は、限りなく対極的な性格の持ち主で、ミヒャエルは穏やかで落ち着いている一方、クラウスは衝動的で外交的だったが、ノイ!において二人のコンビネーションはアルバム3枚を通して魅惑的でむき出しで催眠的反復音楽を生み続けた(『NEU!』、『NEU! II』、そして『NEU!’75』)。しかしクラウス・ディンガ―の情け容赦ないハンマー・ビートに関しては、その創造者いわく“無限の直線、長い道や路地を運転しているような感じ”と表現している。

 

ハルモニア

ブランデンブルク州フォルストに到着したミヒャエル・ローターは、ディーター・メビウスとハンス・ヨアヒム・レデリウスとのコラボレーションに着手し、これをハルモニアと命名。『Musik Von Harmonia』(1974年)が、無作為に生み出されたギターとエレクトロニカを合わせた魅惑的なスナップショットである一方、その翌年の『Deluxe』は堂々とした、威厳のあるシンセポップの繊細な感性を発していた。

更にアルバム『Tracks & Traces』は、酔いしれるブライアン・イーノと1976年にレコーディングされ、1997年にハルモニア76の名義でリリースされた(クラウス・ディンガ―は舞台の中央へと移動し、目の眩むような魅惑的で洒落たラ・デュッセルドルフを1975年に結成、弟トーマスがドラマー、ハンス・ランペがエレクトロニクスを担当した)。

 

クラフトワーク

クラフトワークのブランド・アイデンティティは、地位を確立しして名も知られ皆に敬愛されている今とは違い、当時はメンバーを臨時で雇うなど人の入れ替わりが激しかったため、ミヒャエル・ローターとディンガ―・メビウスが短期間参加していた時と今のクラフトワークを対比するのは困難だろう。

エコープレックスを使ったフルートと比較的プリミティヴなエレクトロニクスが印象的な『Kraftwerk』(1970年)、『Kraftwerk 2』(1972年)と『Ralf Und Florian』(1973年)では、1974年の『Autobahn』の定型化した完璧さはまだ全く感じられない(穏やかで流線型なタイトル・トラックはアメリカでトップ30入りを果たし、イギリスでトップ10にあと少しで届くところまで上昇した)。

後に続く世代は、当時のクラフトワークの音と外見が人々にどれだけの衝撃を与えたか、それを完全に理解することは出来ないかも知れない。結成メンバーのラルフ・ヒュッターとフローリアン・シュナイダーに、新参者のカール・バルトスとヴォルフガング・フリューアが加わり、ギターやドラムスを控えて全員が一列に並ぶ形で演奏したのだ。短髪でスーツを着込んだそのイメージはロックの通説とは懸け離れた刺激的なものだった一方、テクノロジーの理想的な取り入れ方は、冷静な現実主義と言い知れぬ渇望により巧妙に支えられたものだった。『Radio-Activity』(1975年)、『Trans-Europe Express』(1977年)、そして『The Man Machine』(1978年)ではその立ち居振る舞いとソニックスに更に磨きをかけ、『Trans-Europe Express』収録の「Europe Endless」でイデオロギーの頂点を極めた。ドリーミーで優しい、存続に関するこのラヴレターは、レコーディング当時にはとても想像出来なかったような色々な意味を今では積み重ねている。

 

カン

クラフトワークが最も活動範囲の広いドイツ人エクスペリメンタリストとして、決着がつくまでとことん戦い続けることになるグループといえばカンだろう。1968年にケルンで結成されたカンの猛烈にリズミカルなベースは、ジェームス・ブラウンのハード・ファンクとの共通性を感じさせたが、直感的に飛び抜けた楽才と異なるものを混和させるその決定力は、他者の手本となった。

2枚組みアルバム『Tago Mago』(1971年)には夢中で打ち込む彼等が登場する。『Tago Mago』のSide1(「Paperhouse」「Mushroom」「Oh Yeah」)は未だ到達出来ていない未来に石を投げつけている。カンの影響がポスト・ロック全体の精神を活気づけている時に制作された、囁くような浮揚感のある『Ege Bamyasi』(1972年)と『Future Days』(1973年)は、不思議なほど永遠で独特な作品に仕上がっている。

 

ファウスト

ファウストはこの記事の冒頭で少し触れているが、その無頓着で商業主義に合わない“レパートリー”が明らかになるまで、ポリドール・レーベルから愛情たっぷりに甘やかされていた。この比類ない破壊的アンサンブルに敬礼をしてこの章を終わりにするのがフェアなやり方だろう。

クリアなレコード盤にプレスされ透明な“エックス線写真”のジャケットに包まれた、彼等の1971年セルフ・タイトル・デビュー・アルバムは、操作されたサウンド、煤けたジャミング、侘しく屈折したユーモア、そして激昂するエレクトロニクスから成る、不安を掻き立てるような取り合わせだった。これに続く1972年の『So Far』では、従来型の曲の形式という考え方に対し、この上なく素晴らしく皮肉なリップ・サービスをしている(「It`s A Rainy Day」、「Sunshine Girl」、「… In The Spirit」)。それでも外側の縁へと自然に引き寄せられていったのは、彼らの持つ抑え切れない力によるものだったのは明白だ。

更に深くエクスペリメンタルしてみたい? ではA.R. & マシーンズの『Die Grüne Reise』(1971年)、フロー・デ・ケルンの『Fließbandbabys Beat-Show』(1970年)、ポポル・ヴフの祈祷のような『In Den Gärten Pharaos』(1971年)を、そして初心者は、この後のD.A.Fとアインシュテュルツェンデ・ノイバウテンの伝統を継承する作品を試すべし…。クラスター、グル・グル、そしてクラウス・シュルツェ等、ドイツのエクスペリメンタル・ミュージックの洗練された人達の多くにとって、ブレイン・レコード・レーベルはまさにホームだったといえるだろう。

Written by Oregano Rathbone


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