エルヴィス・プレスリーが亡くなり、エルヴィス・コステロがチャートに登場

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1977年は、私たちが一人のエルヴィスに別れを告げ、もう一人のエルヴィスに出会った年だ。プレスリーの訃報を悲しむ中、その王座にパンクが急に突きつけられたのだ。何ヶ月にもわたる音楽メディアでの宣伝と3枚のシングルは、友人たちの心をつかんだものの、チャート入りまではいかなかった。しかし、その年の11月に「Watching The Detectives」をリリースし、エルヴィス・コステロの名が初めて全英シングル・チャートに入ったのだ。

ニュー・ウェイヴの辛辣なリーダー、エルヴィス・コステロはスティッフ・レコードの誇りであり「Less Than Zero」、「Alison」、「The Angels Wanna Wear My Red Shoes」をシングルとしてリリース。その後、ニュー・アルバム『My Aim Is True』を7月に発表した。3枚のシングルは結果に結びつかなかったが、LPはそれなりに好評で、8月と9月に全英トップ20に5週入るという記録を残した。

しかしエルヴィス・コステロにはまだ、ニュー・ウェイヴと火遊びしながらも、エルヴィス・プレスリーの死後のヒット曲「Way Down」のような、UK1位を記録しイギリスの人々の居間にまで入り込むようなシングルが欠けていた。

そんなタイミングでシングル「Watching The Detectives」がリリースされた。このシングルによってエルヴィス・コステロの存在感が数段上がることになった。そしてuDiscoverは、当時のリリースでキーとなる役割を果たした音楽エグゼクティヴのポール・コンロイに独占で話を聞いた。

「”Watching The Detectives”がリリースされた時、私はスティッフ・レコードのジェネラル・マネジャーでした。エルヴィス・コステロは、プレスリーが亡くなってすぐに宣伝を開始しました。ちょうどロンドン中にビラを貼ろうと思っていましたが、亡くなったばかりで少し待ったほうがいいと思っていました」

「シングルがラジオで流れることになってすごく喜んでいましたし、インディのレコード・ショップだけではなくてすべての小売店に在庫を確保してもらうことも学びました。レーベルの業務をこなすのは大変でしたし、それに加えてたまにザ・ダムドのキャプテン・センシブルがオフィスに来ては机にビールをこぼして帰ったり、スティッフの共同設立者のジェイク・リヴィエラがサイダーのボトルを持って興奮して、32アレクサンダー・ストリートの窓の修理が必要だと業者から頻繁に電話がかかってきたりしていて、なおさら大変でしたね」。

「Watching The Detectives」は1977年11月5日に33位でチャート入りし、1週間動きがなかったが、最終的に年末には最高記録となった15位を2週保持した。

「突然レーベルが成長して『Top Of The Pops』からの出演依頼が増えたんです」とポール・コンロイは回想する。「残念ながらエルヴィス・コステロは移籍しましたが、他の多くのアーティスト・レコードのヒットが続いてスティッフ・レコードはメディアには概ね好評になりました。共同設立者のジェイク・リヴィエラとデイヴ・ロビンソンの二人は見解の相違があったので、ヒット・アーティストはジェイクとプロデューサーのニック・ロウとともにレイダーに移籍しました。スティッフ・レコードはそれで終わったかって?! いや、始まりが終わっただけのことですね、幸いにも」。

Written by Paul Sexton



エルヴィス・コステロ『My Aim Is True』

    

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