エルトン・ジョンの2作目のアルバム『Elton John』とキャリア最初のヒット曲「Your Song」

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エルトン・ジョンと作詞家バーニー・トーピンにとって“キャリアの中で最も大きなハイライト”となったセルフ・タイトル・アルバム『Elton John』は、エルトンを世界規模の成功へと導いた。


自信に満ちた曲、そしてそのアルバム・ジャケットが象徴しているように、エルトン・ジョンのセルフ・タイトル・アルバム『Elton John』を通じて、若きイギリス人シンガー・ソングライターは影の世界から表舞台へと登場した。ファースト・トラックとして発売された決定的なバラード「Your Song」はそれを実現させる手伝いをし、今作でエルトン・ジョンを知った広範囲に渡るアルバムを購入したものたちは、パワフルなメロディーとヴォーカル、示唆に富む詩的比喩、そして華やかなオーケストレーションが詰まった作品であることを知った。

1970年3月に23歳となり、世界中を飛び回っていたピアニストは、自身の成熟した曲作りを披露できるアルバムの発売準備を行っていた。しかし前年6月にDJMから発売されたデビュー作品『Empty Sky』はベストセラーになることはなく、そのためヒット曲をカヴァーしたり、他のミュージシャンのセッションで演奏するなどして辛うじて生計を立てていために忙しかったのだ。

そうして誕生日を迎えた頃、先行シングル「Border Song」を収録したセカンド・アルバム『Elton John』を発表。バーバラ・ムーア合唱団を迎えたゴスペル調の「Border Song」は、エルトン・ジョンの増大する自信と、3年間共に曲作りをしてきたバーニー・トーピンのアメリカーナの影響を反映していた。イギリスでは頻繁にラジオでオンエアされ、エルトンが憧れていたポップ・スターのダスティ・スプリングフィールドも応援してくれた。チャート入りは果たせなかったが、未来は明るかった。

 

レコーディング・セッション:新たなメンバーとプロデューサー

シンプルに自身の名前が付けられたこの新しいアルバムは、エルトンにとって新鮮な意思表明となった。ロンドンのトライデント・スタジオにてレコーディングされ、そこからプロデューサーであるガス・ダッジョンとのコラボレーションの歴史が始まり、前作『Empty Sky』のプロデュースを手掛けたスティーヴ・ブラウンも制作に関わった。その他にもギタリストのカレブ・クエイとクライヴ・ヒックス、そしてバック・ヴォーカルには信頼できる仲間であるレスリー・ダンカン、ロジャー・クック、そしてマデリン・ベルらが参加している。カレブ・クエイはフックフットの元メンバーで、エルトンが出演したラジオ・セッションや、1969年に行われたロンドンのロイヤル・カレッジ・オブ・アートでの公演など、数々のライヴでも伴奏で参加している。

その他のキーパーソンとして、優れたアレンジャーであるポール・バックマスターも参加し、アルバムに更なる深みとドラマチックな演出を与えた。前年の夏にデヴィッド・ボウイの画期的な『Space Oddity』でもサウンド作りの手伝いをしたバックマスターは、エルトン・ジョンとバーニー・トーピンの作品にダークで壮大なオーケストレーションを提供した。その後もポール・バックマスターは長きに渡ってエルトン・ジョンと共作を続け、2017年に亡くなるまでに、ザ・ローリング・ストーンズ、カーリー・サイモン、ハリー・ニルソン他、数多くの有名ミュージシャンのアルバムにも貢献している。彼の素晴らしい業績の中でもエルトン・ジョンのセルフタイトル・アルバムに収録された「First Episode At Hienton」「Sixty Years On」、そして「The Greatest Discovery」は傑作と言えるだろう。

ポール・バックマスターのアルバムへの参加が決まったところで、誰をプロデューサーに迎えるかについての話し合いの場が設けられ、初期の段階ではビートルズのプロデューサーとして有名なジョージ・マーティンの名前が挙がっていた。しかし、当然のことながらジョージ・マーティンは、自らアレンジも手がけることを希望したため、エルトンのマネージメントは彼の起用を断念。(ただ、その数十年後にジョージ・マーティンとエルトン・ジョンはコラボレーションを実現させ、1997年にダイアナ妃が亡くなった直後に発売された大ヒット曲「Candle In The Wind」のリメイクを共に手がけている)

『Space Oddity』のプロデュースを手掛けたガス・ダッジョンとは以前に一緒に仕事をした経験を持っていたポール・バックマスターは、ガスに対してエルトン・ジョンに協力するよう話を持ちかけた。エルトンは後にこう語っている。「僕は“Space Oddity”がこの世で最も素晴らしい作品のひとつだと思っていて、プロデュースを手掛けているのがガス・ダッジョンだと知りました。だから僕たちはこのセカンドアルバムを絶対に彼にプロデュースしてもらいたいと思ったんです」。そうしてガス・ダッジョンは「Your Song」と「The King Must Die」のデモ音源を聴くなり、すぐにオファーを快諾した。

二人が創り出す哀愁漂うぼんやりとした雰囲気は、「Take Me To The Pilot」の情熱と「I Need You To Turn To」、そしてエルトン・ジョンのキャリアを劇的に変えることになるオープニング・トラック「Your Song」によって相殺されている。しかしシンガーソングライターであるエルトン・ジョンは、プロのミュージシャンとしての宿命にとらわれないように意識していたことが、イギリスのメディアへの陽気な対応から感じ取ることができる。

 

アルバムの発売と批評家の反応:「本当に素晴らしいアルバム」

「多くの作曲家やバンドは、この世界と仕事に対して本気になり過ぎてしまう」と、アルバム発売当時、彼はレコード・ミラー誌に語っていた。「お金目的でやっていると、売れない曲や挫折があると自殺願望が生まれたり、失望してひどく落ち込んでしまうこともある。曲作りを重んじる必要はあるけれど、全体的な見通しを軽くしておかないと、ひどく機械的になってしまい、すべての感情を損なわれてしまうこともあるんです」。

1970年4月には、ベースにディー・マレーとドラムにナイジェル・オルソンを迎え、“ザ・エルトン・ジョン・バンド”と名付けたトリオを結成し、ロンドンのラウンドハウスでライヴ・デビューを飾った。ポップ・プロムズのイベントの一環として、エルトン・ジョンの親しい友人でもあったマーク・ボラン率いるT・レックスの前座を務め、当時の流行を作り出していたBBC Radio 1のジョン・ピールによって紹介された。

4月2日には、イギリスのチャートを紹介する長寿TV番組“トップ・オブ・ザ・ポップス”で「Border Song」のパフォーマンスを披露し、同じく番組に出演して「Morning Please Don’t Come」を披露したあのダスティ・スプリングフィールドともスタジオでの時間を共有した。エルトンとバンド・メンバーはその年の夏までにイギリスを大々的にツアーで巡り、新作を宣伝していった。発売当初は、わずか2週間チャート入りし、最高48位で終わったものの、彼のキャリアに追い風が吹き始めたのは間違いなかった。

「キャット・スティーヴンスとエルトン・ジョンが、イギリス版のニール・ヤングヴァン・モリソンとして活躍することは嬉しいことだった」と、リチャード・ウィリアムズはメロディーメーカー誌で評している。「エルトンは間違いなく彼らと同じレベルに達している」と記し、最終的には「本当に素晴らしいアルバム」とした。その直後にキャット・スティーヴンス自身も同雑誌にこう語っている。「今のところ、僕はフランク・ザッパとエルトン・ジョンの大ファンだけど、良い曲を作る人なら誰でもファンになるよ」。

そんな勢いの中でさえ、当時のエルトン・ジョンの生活はまだ経済的に安定していなかった。これまで通りに引き受けていたスタジオ・セッションの仕事の中で最も有名なものは、ホリーズの全英TOP10ヒット「I Can’t Tell The Bottom From The Top」のセッションと、ザ・ブラザーフッド・オブ・マンやピケティウィッチといったポップ・ミュージシャン達のバック・ヴォーカルとして出演したテレビ番組だろう。1970年7月には、過小評価されていたニック・ドレイクの曲を流行らせようというアルバムのためにセッションも行なっている。

 

チャートの成功と憧れのアレサ・フランクリンによるカヴァー

アメリカでは当初、「Border Song」はMCA傘下の小さなレーベル、コングレスから発売されたが、重役のラス・レーガンがエルトンのポテンシャルに注目し、彼の才能に賭ける決心をした。そうしてラス・レーガンが代表を務めるより規模の大きなMCA傘下のユニ・レコードからシングルが再発されると、その年の8月には自身初の全米シングル・チャート入りを果たした。それはアメリカでのブレイクのきっかけとなった、ロサンゼルスのトルバドールでの歴史的ライヴ直前のことだった。

シングル「Border Song」は最高92位を記録し、5週間チャートインし続け、アルバムは10月にはベストセラーとなった。アメリカで8位、イギリスでは7位になった「Your Song」が、エルトンにとって実質上最初のヒット曲となり、その人気は口コミによって広まっていった。同年11月には、フィルモア・ウェストにてザ・キンクスの前座を務めるようになり、その数日後には反対岸にあるフィルモア・イーストにて、彼のステージをトルバドールへ観に来ていたレオン・ラッセルの前座を務めた。ちなみにレオン・ラッセルこそがエルトン・ジョンの曲作りに最も影響を与えたミュージシャンである。

セルフ・タイトル・アルバム『Elton John』は1971年2月にアメリカにて最高4位まで到達し、同月にはゴールド・ディスクを獲得。その後も1年もの間全米チャート入りを維持し、3月にはイギリスでもTOP5入りを果たした。しかし何よりも彼を感動させたのは、憧れのアレサ・フランクリンからの称賛だった。

クイーン・オブ・ソウルとして知られるアレサ・フランクリンは、「Border Song」に込められたソウルに共鳴し、No.1 R&Bヒット「Don’t Play That Song」に続いてアトランティック・レコードから「Border Song」のカヴァーを発売。そしてエルトンの「Your Song」が全米シングル・チャートにデビューした同週に、アレサ・フランクリンの「Border Song」は全米ソウル・チャートに登場した。アレサの「Border Song」はR&Bチャートで5位、ポップ・チャートでは37位を記録する成功を収めた。「それまでのキャリアの中で、あれが最高の瞬間だった」と後にエルトン・ジョンはアレサ・フランクリンのカヴァーについて語っている。

 

『Elton John』成功の後:「自分の才能と可能性は自覚していました」

当時のエルトン・ジョンは、驚異的な生産性を維持し、セルフ・タイトル・アルバム『Elton John』が芸術的にも商業的にも称賛されて成功を収めていた頃には、すでに次作『Tumbleweed Connection』を発表しただけではなく、同年3月に発売された映画『フレンズ~ポールとミシェル』のサウンドトラックを完成させ、4月にはライヴ・アルバム『17-11-70』をリリースした。さらに、彼の進化を語るのに欠かせない『Madman Across The Water』の収録曲にも取り掛かっていた。

地にしっかりと足を付け、エルトン・ジョンの人生は大きく変わろうとしていた。あの運命のトルバドールでのステージに立ち、アルバムが大成功を収める前の彼は期待に応えることばかりに集中していた。

「自分の才能と可能性は自覚していました」と、エルトン・ジョンはメロディー・メーカー誌に語った。「偉そうに腰掛けて、人が言うことを鵜呑みにしてはいけない。さもないとエゴの塊になって大変なことになってしまうんです。僕たちは良い作品を作っていると思っていますが、人にそれを言われると僕は恥ずかしくなってしまいます」。

Written By Paul Sexton


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