エド・サリヴァンが黒人の歴史に果たした重要な役割:音楽や歴史を紹介し、差別に抵抗した司会者

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Ed Sullivan and Coretta Scott King - Photo courtesy of SOFA Entertainment

1966年生まれの詩人、ジャーナリスト、人権活動家、映画監督兼作家であるケヴィン・パウエル氏による寄稿を掲載。

彼は詩集『Grocery Shopping with My Mother』をはじめ、これまでに15冊の著作を発表しており、近く2パックの伝記も出版の予定。現在はニューヨークのブルックリンに暮らし、同地を拠点に活動を続けている。

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エド・サリヴァンという人物のイメージ

私がエド・サリヴァンという名前を初めて耳にしたのがいつだったか、正確に思い出すことはできないが、1970年代か1980年代だったことは確かだ。当時、私はスラム街に暮らす若者だった。私にとって彼はエルヴィス・プレスリーやザ・ビートルズといった音楽界のスーパースターたちと繋がりの深い人物というイメージだった。彼の名前から連想するのは、彼が司会を務めるバラエティー番組での伝説的なパフォーマンスの数々だったのである。

私は、彼のゲストの迎え方や独特の言い回し、その実に控えめな物腰に興味をそそられていた。しかし、この男の正体や、エンターテインメント界で彼があれほどの影響力を長く持ち続けられた理由については、大人になるまでまったくわからなかった。

私が彼のことを本当にわかるようになったのは、おそらくは大学で黒人史やブラック・カルチャーについて学んだときだった。特に、大学を出てジャーナリストになり、音楽やその他の芸術について執筆するようになると、私は彼への理解を深めていった。

そして、クインシー・ジョーンズが創刊したヴァイブ誌に上席のライターとして雇われた1990年代には、気づけば「エド・サリヴァン・ショー」に出演した黒人パフォーマーたちの映像 ―― ジャクソン5、マヘリア・ジャクソンらに加え、歌、ダンス、映画、演劇、コメディなど各分野における真のスターたちが番組を彩っていた ―― を次から次へとチェックするようになっていたのである。

それはまるでエド・サリヴァンが、黒人の人権問題が当時のみならず、後の世代においても課題となることを見通した上で、テレビを通して意図的に黒人史を紹介しているかのようだった。

 

エド・サリヴァンが差別に抵抗した理由

実際のところ、サリヴァン氏が人種間の平等に強い関心を持っていたことを私が知ったのは、雑誌”Vibe”の仕事をしていたころからこの10年くらいまでのあいだのことだ。

彼をそんな風にしたきっかけは、いくつか考えられる。一つには、若いころに有望なアスリートとしてスポーツに打ち込んでいた彼が、スポーツを通して自分と同じくらい才能に恵まれた黒人たちに出会い、その印象をずっと持ち続けていたからかもしれない。それによって彼は、肌の色を理由に他人を見下してはいけない( 残念ながら、ジム・クロウ法時代のアメリカでの常識はそれと真逆だった)と学んだというわけだ。

あるいは、アイルランド系である彼が、かつてアメリカ移民の中でアイルランド人が最下層の人種であると声高に叫ばれていた時代があったことを意識していたからかもしれない。もしくは、最愛の妻のシルヴィアがユダヤ人であることから、彼女のような人びとが耐え忍んでいた反ユダヤ主義の実情を彼自身も目の当たりにしてきたからかもしれない。

「エド・サリヴァン・ショー」がパフォーマンスの力で公民権運動を支援するようになったのには、こうした理由があったと考えられる。そして、ほかの場所では決して歓迎されず、必要とさえされないことが多かった黒人アーティストたちを舞台に上げることができたのは、彼が強い影響力を持つ象徴的な存在だったからにほかならない。

そうでなければ、テンプテーションズやシュープリームスが革新的な白人アーティストたちと同じように扱われ、自分たちの大ヒット曲をあの神聖な場所で披露できたことをほかにどう説明できるだろうか? さらに言えば、エド・サリヴァンのような“味方”や“共犯者”がいなければ、モータウンの音楽が“新しいアメリカのサウンド / the sound of youth America”と呼ばれることはなかっただろう。

 

黒人スターの葬儀と頬へのキス

また、サリヴァン氏が親しい友人であったビル・”ボージャングル”・ロビンソンのために葬儀を執り行ったことを、ほかにどう説明できるだろうか? タップ・ダンサーだったロビンソンはかつてハリウッド最大の黒人スターだったが、不幸にも、亡くなったときには無一文の状態だったという。サリヴァン氏はそんなロビンソンの葬儀を通して、彼が黒人でありながら盛大に弔われるにふさわしい人物であることを世間に強く印象付けたのだった。

白人男性であるサリヴァン氏が、自らの番組内でパール・ベイリーの頬にキスをし、ナット・キング・コールと握手を交わしたことも、彼の姿勢を如実に表していた。サリヴァン氏はこともなげに、当時のおぞましい人種差別に逆らってみせた。もちろん、彼はそういった行いが白人の視聴者 ―― 特に、あらゆる物事が”白人専用”と”有色人種専用”に分けられるべきだと当然のごとく信じるアメリカ南部の人びと ―― をひどく怒らせるであろうことを知っていたのだ。

 

アメリカ史上最大の変革の時代

かつて「エド・サリヴァン・ショー」が、アメリカのテレビ史上最も長く続いたバラエティー番組であったことは周知の事実だ。そしてサリヴァン氏が、彼の番組に出演した超一流のスターたちと同じくらいの大物スターになっていったこともまた、周知の事実である。しかしそれと同時に、およそ1955年から1968年ごろまでの公民権運動の時代 ―― つまり、エメット・ティルの殺害やモンゴメリー・バス・ボイコット事件から、キング牧師の暗殺までの一時代 ―― におけるアメリカ史上最大の変革を、サリヴァン氏が最前線で目にしてきたことも事実である。

長いあいだ、彼はハーレムやチトリン・サーキットで才能ある黒人アーティストを発掘してきた。そして彼は、ソーシャル・メディアも、ケーブルテレビやストリーミング配信も、MTVのような音楽専門チャンネルもない時代に、絶大な影響力を持っていたテレビというプラットフォームを通して、文字通り黒人の歴史を一般的なアメリカの家庭に紹介し続けた。

その間、第二次世界大戦を経験した世代から戦後生まれのベビーブーム世代へと視聴者は移り変わり、非暴力の座り込み運動やフリーダム・ライドの時代から、いくつもの町に火の手が上がる暴動の時代へと社会も移り変わっていった。

だからこそ私は、同番組の歴史も終盤に差し掛かった時期に、サリヴァン氏が非常に重要な二つの功績を残したと考えている。サリヴァン氏はあるとき、ジャズ界のマルチ・プレーヤーであるラサーン・ローランド・カークが、ジャズをもっと電波に乗せるべく白人中心の権力構造に抵抗していることを知った。だが、ほかの人たちと違い、彼がカーク氏を騙したり忌避したりするようなことはなかった。むしろ彼は、カーク氏に即席のバンド ―― その中にはジャズ界の巨匠であるチャールズ・ミンガスも含まれていた ―― を率いて番組に出演する機会を与えたのである。それはテレビ史上類を見ないほど強烈で現実離れしたミニ・ライヴとなった。

だが、現実に起きた悲惨な出来事に目をつむっていては本当の歴史とは呼べない。マーティン・ルーサー・キング牧師がメンフィスで凶弾に倒れた悲劇から2年後、アメリカ国内は依然として分断され、一触即発の状態にあった。だがそんなとき、キング牧師の妻で未亡人となったコレッタ・スコット・キングが「エド・サリヴァン・ショー」に出演した。彼女は優しい口調で堂々と、亡き夫の最も有名な二つの演説の映像を紹介し、アメリカのあるべき姿を訴えたのである。感極まったエド・サリヴァンは番組の最後にキング夫人に挨拶し、頬にキスをして握手を交わした。

これは、白人と黒人はお互いに触れ合うべきではない、お互いの歴史は交わることがないと、実のところとうに交わり合っていたのにもかかわらずもそう信じていた人、そして今も信じている人たちへの、大胆な挑戦だったと言っていいだろう。

エド・サリヴァンは、白人男性としての特権や権力を享受し、周囲の出来事に目をつむって生きていくことだって間違いなくできただろう。しかし彼は、敢えて明確な目的意識と深い意義のある人生を送ることを選んだ。彼自身は、未来のまったく違った時代に生きる私のようなアフリカ系アメリカ人が、彼の番組をYouTubeなどで熱心に視聴するとは思いもしなかっただろう。

彼の番組は、黒人のみならず人類全員に誇りと尊厳を認めることを教えてくれる。そして、それだけではない。この番組は、歴史が大いなる人間愛や慈悲の心と強く結びついたときに何が成し遂げられるかということも教えてくれるのである。

Written By Kevin Powell



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