ソングライター・ドリーム・チームのベスト9組
ジャズの時代からモダン・ロックまで、レノン=マッカートニー、バカラック=デヴィッドとリーバー=ストーラー等、偉大なソングライター・パートナーシップは、ポピュラー音楽界を代表するような素晴らしい瞬間を提供してきた。
これが我々の好きな作品ベスト8枚とその中からのおすすめの1曲だ…。
ジョージとアイラ・ガーシュウィン
1920年代アメリカ・ジャズ・エイジのジョージとアイラ・ガーシュウィンほど、壮麗な旋律でひとつの時代に、その音楽的な独自性を確立させることに成功した者は他にはいない。
このロシア系ユダヤ人移民の息子達が手掛けた楽曲で、すぐにそれと分かるものには、「I Got Rhythm」、「The Man I Love(邦題:私の彼氏)」、そして「Someone to Watch Over Me」等があり、エラ・フィッツジェラルドとフランク・シナトラが非常に魅力的に歌い上げている。「Rhapsody in Blue」のオープニングに登場するクラリネットのグリッサンド奏法は、今聴いても背筋がゾクゾクさせられる。ガーシュウィンのふたりは、ハリウッド映画やブロードウェイ・ミュージカルのスコアを2ダース以上書き、ふたりのソングライターは作詞作曲の功績により、議会名誉黄金勲章を授与。
おすすめの楽曲: 「Embraceable You」(1928)
「Embraceable You」は元々未発表オペレッタ“East Is West”の為に書かれた作品で、ジャズ・シンガーのビリー・ホリデイの名ヴァージョンは2005年にグラミー・ホール・オブ・フェイムの殿堂入りを果たした。
ジェリー・ゴフィンとキャロル・キング
ジェリー・ゴフィンが2014年に死去した時、並外れた曲カタログを後に遺したが、その中には先妻との共作が数多く含まれており、それらはメロディーとシンコペーションから成る正にきらめく宝石だった。ゴフィンはあの有名なティン・パン・アレーに通いながら仕事を学んでいった。彼は22歳の時に「Will You Still Love Me Tomorrow」をキングと共作し、その後60年代にヒット作を次々と生んだ。彼等の代表作には「Take Good Care of My Baby(邦題:サヨナラベイビー)」(ボビー・ヴィー)、「Up On The Roof」(ザ・ドリフターズ)、「I’m Into Something Good(邦題:朝からごきげん)」(ハーマンズ・ハーミッツ)、「Don’t Bring Me Down(邦題:炎の恋)」(アニマルズ)、そして「(You Make Me Feel Like) A Natural Woman(邦題:ナチュラル・ウーマン)」(アレサ・フランクリン)等がある。
おすすめの楽曲: “The Loco-Motion”(1962)
この脈動するようなポップ・ソングは、1962年にアメリカ・ポップ・シンガーのリトル・エヴァ、1974年にグランド・ファンク・レイルロード、そして1988年にオーストラリア人シンガー兼女優のカイリー・ミノーグと、約10年毎にアメリカ・チャート・トップ5入りを果たしている。
バート・バカラックとハル・デヴィッド
この二人組は、ニューヨークのブリル・ビルディングに入っていたあの名高いフェイマス・ミュージック・エージェンシーの経営者、エディ・ウォルピンを介して知り合った。ふたりが週に何度か午後に集まっては曲作りに取り組み始めた頃、今は亡きデヴィッドは経験豊かな作詞家であり、バカラックはまだ駆け出しの身だった。しかしふたりはすぐに意気投合し、アカデミー賞主題歌賞獲得の、映画『明日に向かって撃て!(原題:Butch Cassidy And The Sundance Kid)』の挿入歌「Raindrops Keep Fallin’ On My Head(邦題:雨にぬれても)」等、50年代と60年代を代表する屈指のポップ・ソングを書いた。その他「Do You Know The Way To San Jose?(邦題:サン・ホセへの道)」や「The Look of Love(邦題:恋の面影)」も書いている。
おすすめの楽曲: 「Walk On By」(1964)
この魅力的な曲は、ディオンヌ・ワーウィック、アイザック・ヘイズ、ブリティッシュ・パック・バンドのザ・ストラングラーズ、そしてシール等、幅広いタイプのアーティストによりレコーディングされている。
エディ・ホーランド、ラモント・ドジャー、ブライアン・ホーランド
モータウンはキャッチーな曲で知られており、この元パフォーマー3人が曲作りに取り組み始めた時、彼等は作品が主役になることを望んだ。「Jamie」のヒット作で知られていたエディ・ホーランドは、かつて酷い上がり症だったが、H-D-Hのトリオの中核を担った。3人はマーサ&ザ・ヴァンデラスの「Heat Wave」、シュープリームスの「Baby Love」、「Stop! In The Name of Love」、そして「You Keep Me Hangin’ On」等、ナンバー 1ヒット・シングル25曲を作詞作曲&プロデュース。
おすすめの楽曲: 「How Sweet It Is (To Be Loved By You)(邦題:君の愛に包まれて)」(1964)
マーヴィン・ゲイのモータウンH-D-H最高傑作はジェイムス・テイラーによってもヒットした。
ジョン・レノンとポール・マッカートニー
ザ・ビートルズの成功を支える原動力だった、曲作りのコンビは無敵の存在だ。リヴァプール出身のふたりの異なるスタイル(レノンは曲作りのパートナーのポールについて、“彼は明るさ、楽観を提供していたが、僕はいつも悲しみ、葛藤、愁いを帯びた調べに魅かれていた”と述べている)とユニークな着眼点により、「A Hard Day’s Night」や「A Day In The Life」等、ナンバー・ワン・ヒット20曲及び複雑で強力な曲が数多く誕生した。
おすすめの楽曲: 「Day Tripper」(1965)
レノン=マッカートニーの曲には素晴らしいものが非常に数多く存在し、人それぞれに好きな曲があると思うが、彼等がいかに素晴らしいかを表す証拠に、偉大なミュージシャンもまた、ビートルズの名作からそれぞれに何かしらを見出している。そのひとつの例として挙げられるのが、クリスマス・シングルが必要だった時、ふたりが手っ取り早く書き上げた「Day Tripper」の、オーティス・レディング・ヴァージョンだ。
ジェリー・リーバーとマイク・ストーラー
このユダヤ人男性ソングライター二人組は、共に17歳の時にロサンゼルスで出会い、デクスター・ゴードンとレスター・ヤング等のジャズ・ミュージシャンとつるんでいた。「僕達はふたりともブラック・カルチャーに魅かれていた」とストーラーは言う。1954年、彼等はR&Bのパイオニア、ジョニー・オーティスと手を組むようになる。当時彼は、抱えていたアーティストのひとり、ビッグ・ママ・ソーントンの曲を探していたため、ふたりは「Hound Dog」を15分で一気に書き上げた。この曲はエルヴィス・プレスリーに大きな貢献をすることとなる。
リーバーとストーラーはザ・コースターズ(「Yakety Yak」、「Charlie Brown」、そして「Poison Ivy」等、多くはコミックに起用された)に曲提供しその名を成していった。またザ・ドリフターズにも楽曲提供し、共作した美しいソウル・ソング「Stand By Me」は、ベン・E.キングの空前の大ヒット作となった。プレスリーには、「Jailhouse Rock(邦題:監獄ロック)」、「Treat Me Nice」、そして「Love Me」を書いた。
おすすめの楽曲: 「Is That All There Is?」(1967)
美しくも悲しい調子の曲。自分達の曲で一番好きなヴァージョンは、ペギー・リーの「It That All There Is?」とリーバーは言っている。リーはこの曲でグラミー賞を獲得、豪華なオーケストレーションはランディ・ニューマンが監督した。
ミック・ジャガーとキース・リチャーズ
レノンとマッカートニーに比べ、ジャガーとリチャーズはペンを取り自ら歌詞を書くことに少々消極的だった。幸いなことに、周囲の説得でやってみることにし、その結果彼等の名作はその後、半世紀以上にも渡り生まれ続けている。ザ・ローリング・ストーンズは1964年のUSデビュー・アルバムでゴールド・ディスクを獲得、その翌年には、フロリダ州クリアウォーターのホテルの一室で、ふたりでギター・リフを即興演奏している最中に書かれた、パワフルなアンセム・ソング「(I Can’t Get No) Satisfaction」が大西洋の両側でチャートのトップを飾った。
おすすめの楽曲: 「Honky Tonk Women」(1969)
このシングルはオリジナル・メンバーのブライアン・ジョーンズの死去翌日にリリースされた。ジャガー=リチャーズのソングライターとしての創作力は、B面が非常に魅力的な「You Can’t Always Get What You Want(邦題:無情の世界)」である事実にも現われているだろう。
バレット・ストロングとノーマン・ホィットフィールド
ソングライターのバレット・ストロングもまた、モータウン設立当時の中心人物だった。ベリー・ゴーディの側近中の側近だった彼は、60年代後半から70年代前半の間、ノーマン・ホィットフィールドとコラボレートし、「I Heard It Through The Grapevine(邦題:悲しいうわさ)」、「Too Busy Thinking About My Baby(邦題:ハートがいっぱい)」、そして「War」等印象的な曲を書いた。
おすすめの楽曲: 「Papa Was A Rollin’ Stone」(1971)
ストロングとホィットフィールドの曲は、最初アンディスピューテッド・トゥルースによりレコーディングされたが、一年後ホィットフィールドがテンプテーションズの12分間ヴァージョンをプロデュースした瞬間、このサイケデリック・ソウルの名作が誕生した。
エルトン・ジョンとバーニー・トーピン
ビートルズとストーンズ以外にも、アバ、ザ・クラッシュ、ザ・スミス、そしてレッド・ツェッペリン等成功したバンドは、外部のライターと曲を共作しているが、相性がぴったりの場合、唯一無二のパートナーシップが生まれることもある。何の資格も取らずに学校を卒業したティーンエイジャーの音楽が好きでたまらないエルトン・ジョンとバーニー・トーピンは、想像力と感性を融合させながら、キャッチーなポップ・メロディーと心に訴えかける哀愁を帯びた歌詞が上手くバランスの取れた、一連の作品を生み出した。彼等の友人ゲイリー・オズボーンは、ふたりの仕事ぶりを「バーニーがエルトンに、一束の、はっきり言ってまだ詩の状態のものを、エルトンに送るんだ。エルトンは落書きを始めながらピアノに向かい、ひとつの曲が出来上がるまで編集し続けていた。彼はアルバム『Yellow Brick Road(邦題:黄昏のレンガ路)』の全曲を一週間で書いたと教えてくれた」と述べている。彼等の名作は「Rocket Man」、「Goodbye Yellow Brick Road」、「Daniel」、そして「Your Song(邦題:ユア・ソング(僕の歌は君の歌))」等。
おすすめの楽曲: 「Sorry Seems To Be the Hardest Word(邦題:悲しみのバラード)」(1976)
エルトン・ジョンとバーニー・トーピンの泣かせる名作は、90年代ジョー・コッカーによってヒットした。
text by Martin Chilton