一生モノのデザイン:パンクというアート
怒りに満ちて、攻撃的、そして挑戦的かつ反物質主義であるパンクの目的は、文字通り全てちぎってやり直すことだった。そのマニフェストには、”Year Zero”とあり、見つけ出しては破壊する”Search & Destroy”というそのミッションはつまり、70年代の音楽業界が許してきたメインストリームの無駄や見せかけを排除することだった。
その任務は、1978年1月のセックス・ピストルズの解散とともに本当に終わりを遂げたのだろうか? 全くそんなことはなく、頻繁にその終わりの儀は行われてきたものの、パンクは現在でも生き続けている。音楽意外でも、数え切れないほどの過激なファッションやヴィジュアル・アート関連のステイトメントがきっかけとなり、今日の世界にも影響を与え続けている。
初期のパンク・ファッションは大西洋の両側で発生したが、これは必要に迫られてのことだった。例えば、セックス・ピストルズのフロントマン、ジョン・ライドンがよく安全ピンで繋げた服を着ていたのは、非常に貧しかったからだと公言しており、また、パティ・スミスは著書『ジャズト・キッズ』(河出書房新社・刊)で、良き友人のフォトグラファー、ロバート・メイプルソープと一緒にストリートで野宿していたからジーンズに穴が空いていたと述べていた。この極貧に近い生活が、その他の‘王道’のパンクのファッションにも影響を与え、例えばラモーンズのTシャツ、ジーンズ、レザー・ジャケット、そして全く異なるテレヴィジョンやバズコックスなどのバンドが好んだ、カジュアルな古着屋のオシャレもまさにそうだ。
しかし、パンク・ファッションは瞬く間に進化し、80年代初期には新たなトレンドが生まれていた。コックニー・リジェクツなどの新しいストリート・パンク・バンド(サウンズ誌のギャリー・ブッシェルに‘Oi!’(訳注:Oi!はパンクのサブ・ジャンルのひとつ)バンドと称された)のファンは、昔のスキンヘッド・スタイルからユニフォームのような要素(非常に短い髪、フレッド・ペリーのシャツ)を取り入れ、ドクター・マーティンのブーツ、サスペンダーとロール・アップしたジーンズが定番だった。
UK82(または‘セカンド・ウェーヴ’)パンク・バンドには、エクスプロイテッド、ディスチャージ、アンチ・ノーウェア・リーグなど含まれ、髪型はモヒカン、レザー・ジャケット、タトゥ、スタッドのついたべストを着ていることが多かった。アメリカでも高いモヒカンや尖った髪型が人気で、‘デヴィロック’(モヒカンの一種で前髪がより長いスタイル)は、ニュージャージーのホラー・パンクの改革者、ミスフィッツによって人気となった。対照的に、アメリカのハードコアの先駆者、ブラック・フラッグ、マイナー・スレット、サークル・ジャークスなどのファンは、もっとカジュアルに日常的なTシャツ、ジーンズ、コンバット・ブーツやスニーカーを好んだ。イギリスのアナーコ・パンク・ファッション(動物愛護を主張したイギリスのパンク、クラスが率先)は、全身黒で軍服のようなものが多かった。
ファッションは別として、パンクの美学は、ポップ・ミュージックの行方を左右しただけではなく、アルバムのデザインやマーケティングの仕方にも影響を及ぼした。それ以前のダダイスト(*訳注:あらゆる既成概念に対する否定、破壊といった思想を持つ1910年台に起きた芸術運動を支持する芸術家)のように、パンクは絵の具や筆よりも、ハサミとノリを好み、新聞紙の文字を切り取った身代金を要求する怪文書のようなスタイルは、セックス・ピストルズのオリジナルのアルバム・デザインを全て手がけたイギリスのアーティスト、ジェイミー・リードによって使用され、パンクのイメージの定義に最も近いものであろう。
新たなアーティストやデザイナーをインスパイアし、初期には生々しい素材を使用していたパンク本来のDIYアプローチは、今でもロックにおいて普遍的と言われているアートワークが存在する。例えば、ロンドン東のエッピングを拠点にしたアナーコ・パンク・バンドのクラスは、ステンシルとスプレー缶を使用し、ロンドンの地下鉄でグラフィティのキャンペーンを繰り広げ、バンドの専属アーティストだったジー・ヴァウチャーもジャケット・スリーヴをデザインする際、頻繁にステンシルを使用し、政治的または戦争に関連したコラージュを活用していた。一方で、ザ・クラッシュはメジャー・レーベルCBSと契約したが、ロスワフ・シャイボがデザインした1977年のセルフ・タイトルのデビュー・アルバムは、その手法もローファイであり、悪そうなバンドの姿をカムデン本社近くの路地で撮影し、暗い2トーンのデザインでコピーをしたようなデザインだった。
しかし、それが人間というものなのか、本来のパンクのように利他的(および/または虚無的)なことを意図する現象はいずれ朽ちていくものだ。その結果、パンクとその多様なファッションが徐々にメインストリームに取り込まれたのも、驚きではなかった。結果論としてパンクそのものを失敗した実験だと片付けるのは簡単だが、メジャーなパンク・バンドなくして、ロックが今ほどのものになったとは思えないし、アート界でも、マルコム・ガレットやピーター・サヴィルがバズコックスやジョイ・ディヴィションなどのセミナル・パンクとポスト・パンクのアーティストと切磋琢磨していなければ、今の輝かしい存在にはなっていなかったかもしれない。
悪名高いほど移り気の早いファッションの世界も、パンクとその多様なサブカルチャーの虜なのだ。2013年のフェンディの秋冬コレクションはパンクの美学に大いにインスパイアされ、モデルはモヒカンのヘアスタイルでキャットウォークを歩いた。最近では、デザイナーのカール・ラガーフェルドがパンク・スタイルのスタッドを5,000ドルのシャネルのジャケットに施し、当時赤貧のため必要に迫られてパティ・スミスが履いていた穴の空いたジーンズも、Vogue誌の中で見かける。アイコンとなっているラモーンズのロゴも世界中で見かけ、もはやバンドと言うよりブランドになっているとも言える。ブラック・フラッグのレトロなコットン・カシミアのTシャツがほぼ300ドルもするのだから、現在の“パンクなりたがりたち”が、騙されたと思うのも仕方がないかもしれない。
Written by Tim Peacock
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