デフ・レパードはいかにしてNWOBHMの中から、世界を股に掛けたメガバンドへと進化を遂げたのか
もしハード・ロックやメタル、ヘヴィ・ロックをその場しのぎではなく、何年も続けられる生涯の仕事にしたいのなら、デフ・レパード(Def Leppard)を手本にすべきだろう。ロックとヘヴィ・メタルを股にかけ、過去の総売り上げ1億枚を突破したという偉業を成し遂げたバンドは、シェフィールドを拠点とするこの5人組の他にはいない。そんなデフ・レパードの進化の歴史は、その慎ましやかな始まりなくして語ることはできない。
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デフ・レパードが世に知られるようになったのは、ニュー・ウェイヴ・オブ・ブリティッシュ・へヴィ・メタル(通常”NWOBHM”という略称で知られる)の中心的存在として活躍するようになってからだった。アイアン・メイデンと共に、このムーヴメントの大スターだったデフ・レパード(当時のメンバーはジョー・エリオット[vocal]、スティーヴ・クラーク[guitar]、ピート・ウィリス[guitar]、リック・サヴェージ[bass]、そしてリック・アレン[drums])は、1979年に発表したセルフ・タイトルのデビューEPと、その翌年の荒削りながらゾクゾクさせるようなデビュー・アルバム『On Through The Night』で、熱狂的なファンベースを築いていった。
アイアン・メイデン、そして彼らほどではないまでも、サクソン、ダイアモンド・ヘッド、レイヴン、エンジェル・ウィッチ等、NWOBHMのバンドたち同様に、観客はデフ・レパードの初期のライヴにおける、パンクな姿勢とメタルの演奏力とのコンビネーションに引き込まれていった。
デフ・レパードは1981年の傑作『High’n’Dry』によって評価を確立。当時の彼らの音楽は、後の作品のような洗練されたものではなかったが、「Let It Go」や「Bringin’ On The Heartbreak」といった収録曲は、騎士とドラゴンの戦いテーマにした同世代の多くのメタル・バンドの作品とは異なり、パンチが効ききつつも共感性の高いものだった。音楽的にも、ピート・ウィリスの後任としてフィル・コリンが加入した後のデフ・レパードと肩を並べることができたNWOBHMのバンドのバンドは、アイアン・メイデンぐらいだった。
フィル・コリンは、デフ・レパードが成功への階段を駆け上がるために必要な最後のピースだったと言える。またプロデューサーのロバート・ジョン・“マット”・ランジの存在も忘れてはならない。彼が手掛けた『High’n’Dry』の艶やかな仕上がりも手伝い、アルバムはラジオでも人気を博していった。そして1983年にアルバム『Pyromania』がリリースされた瞬間に、この後80年代の終わりまで続くこととなる、デフ・レパードの華麗な時代が幕を開けたのだ。
『Pyromania』は600万枚を売り上げる大ヒット作となり、アメリカでのチャート1位はマイケル・ジャクソンのモンスター・アルバム『Thriller』に阻まれたが、それ以外の多くの国でNo.1に輝いた。シングル4枚(「Photograph」「Rock Of Ages」「Foolin」「Too Late For Love」)はラジオとテレビを駆け巡り、1983年のデフ・レパードの活躍ぶりは目を見張るばかりだった。このアルバムが広く世界に衝撃を与えたことで、多くのロックとメタル・バンド達がスキニー・パンツを穿き、ヘアスプレーで髪を固め、ガールフレンドの口紅をくすねるようになる。
80年代後半になると、ヘア・メタルやグラム・メタルが巨大な勢力となった。デフ・レパードはボン・ジョヴィ、シンデレラ、ポイズン等と比較すると、グラム的なイメージは決して強くはなかったが、ロバート・ジョン・“マット”・ランジの汚れのない、計算されたエンジニアリングも手伝い、彼らのアルバムのスタジオ・サウンドは、こうしたバンドの音楽にも多大な影響を与えていった。メディアとファンはそんな彼等のイメージと音楽に夢中になり、彼らのサウンドは商業的なピークを迎えることになる。
当時、勢いがあったガンズ・アンド・ローゼズでさえ、艶っぽくキラキラしたポップロックの頂点に立つデフ・レパードのアルバム『Hysteria』(1987年)にはチャート上では歯が立たなかった。アルバムの収録曲は、リスナーの脳内に潜り込み、決して離れることはなかった。それほどまでに強いインパクトを残したのだ。
『Hysteria』のレコーディングは、1984年にドラマーのリック・アレンが自動車事故で片腕を失い、改良されたドラム・セットで叩けるようになる技術を学び直すことを余儀なくされたこともあり、3年という長い年月が費やされた。しかしこの時間と努力の甲斐あって、1989年までの間にアルバムから計7枚ものシングルがリリースされ、デフ・レパードはその地位を確固たるものにした。
『Hysteria』に収録されているシングル「Animal」「Women」「Pour Some Sugar On Me」「Hysteria」「Armageddon It」「Love Bites」そして「Rocket」は、今もなおポップロックの名曲であり続けている。ヴォーカル・ハーモニーの引き締まったアレンジ、ラジオ・フレンドリーなギター・ソロ、そして少々荒っぽい歌詞は、イギリス及びその他の国々のロック・ファンの心を掴んだ。おそらく今でも、これらの曲を口笛で吹くのを耳にすることもあるだろう。
1991年にスティーヴ・クラークが悲劇的な死を遂げたことで、デフ・レパードは90年代の幕開けとキャリアのターニング・ポイントを同時に迎え、次のステップの検討を迫られる。1992年のトリプル・プラチナ・アルバム『Adrenalize』で、ヘアスプレーの時代に終わりを告げたデフ・レパードは、その後スティーヴ・クラークの後任としてヴィヴィアン・キャンベルを迎え、続く1996年のアルバム『Slang』で方向転換を図った。
以前までの煌びやかさ、そしてロバート・ジョン・”マット”・ランジの甘美なプロダクションも消え、曲はよりシリアスでトラディショナルなハード・ロックにフォーカスしたものになっている。90年代半という時代は、過去10年間に渡って活躍していた多くのロック・アーティストの多くにとって困難な時だったが、デフ・レパードはそんな時代でさえも比較的容易に通り抜けた。1999年の『Euphoria』では、バンドを大きく成長させたビッグ・コーラスのテンプレートを取り入れつつも、ニュー・ミレニアムらしい抑制されたサウンドにも拘った作品となった。
以降もデフ・レパードは、ロックの風景が移り変わる中で、その地位を守り続けていく。『X』(2002年)は非常に軽快でアップテンポなロック作で、2006年のカヴァー・アルバム『Yeah!』は、彼らのお気に入りの楽曲への明るいオマージュ作品だった。また『Songs From The Sparkle Lounge』(2008年)を聴くと、デフ・レパードがその存在感を維持し続けられている理由が分かる。温かく受け入れられた最新アルバム『Def Leppard』(2015年)は、一周して原点に戻って来たという雰囲気が、彼らの長年のファンに歓迎された。
これまで40年以上活動してきたデフ・レパードは、現在も変わらずこの先を見据えている。『Hysteria』をそっくりそのまま披露する大規模ツアーの準備の一方で、バンドが新曲を書き始めていることをフィル・コリンは明かしている。
デフ・レパードは当初のNWOBHMの枠を遥かに超えながら、多くの(少なくともイギリス出身の)バンドが望みながらも叶えられなかったような、一連の作品を生み出してきたのだ。
Written By Joel McIver
デフ・レパード『Early Years Box Set』
発売日:2020年3月20日
CD / iTunes / Apple Music
日本盤CD仕様:初回生産限定盤、SHM-CD仕様(日本盤のみ)
解説:伊藤政則/英文ライナー翻訳付/歌詞対訳付
デフ・レパード『London to Vegas』
2020年5月29日発売
2Blu-ray+4CD、2DVD+4CD
2020年5月29日
Blu-ray+CD、DVD+CD
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