DJたちがいまもチェス・ノーザン・ソウルのサウンドに群がる理由
例えば夜10時から朝6時までのノーザン・ソウルのオール・ナイト・イベント。60年代の7インチ・シングル曲の平均的な長さは2分50秒である。踊りに来る客は切れ目なく続くお楽しみを望んでいる。レコードとレコードの間にブレイクは一切なしだ。つまり8時間の間、フロアを満員にしておくためには、最低でも192枚のシングル曲が必要になる。更に厄介なことに、ノーザン・ソウルのオーディエンスは筋金入りの熱烈なマニアたちで構成されており、多くは長年このジャンルに忠誠を尽くしてきた歴戦のツワモノたちばかりで、要は簡単に満足してくれる客ではないのだ。時には「ナンだこりゃ?」と言わせる曲も織り込まなければならない、彼らが一度も聴いたことのない、しかしグレイトなレコードを。ノーザン・ソウルのDJたちの音楽に対する貪欲な姿勢はごく当然のことである。けれど、ノーザン・ソウルがメインストリームのクラブ・シーンでブレイクしてから半世紀が経とうとしている今なお、新たなレコードが次々に発掘され続けているのは特筆すべき事実であり、しかもその多くはチェス・ノーザン・ソウルのレコード倉庫から見つかっているのだ。
多くのファンにとって、ノーザン・ソウルの縮図と言えばシカゴ・ソウルのサウンドを意味しており、この街の音楽の中心にはずっとあるひとつのレコード会社があった、それがチェス・レコードである。ブルーズやロックン・ロールでその名を知られたチェスは、実はソウル・ミュージックの発信源でもあり、後にこの街の代名詞ともなった美しく繊細な、あるいはパワフルだけれど洗練され、凝ったアレンジの施されたサウンドを数多く世に出していたのである。
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だが、チェスの中心には明らかにある種のカオスが存在していた。あまりに沢山の音楽を量産したばかりに、大半はまるで顧みられることもないままに忘れ去られてしまったのだ。ノーザン・ソウルの本質は、世の中の大部分が聴いたこともないグレイトなサウンドにある。そしてチェス・ノーザン・ソウルはまさしくその説明に当てはまるものだった。とにかく一度聴きさえすれば、誰もが夢中になること間違いなしなのだ。最も同名のタイトルがついたドビー・グレイのヒット曲は、今では正当なノーザン・サウンドと呼ぶにはあまりに一般的に知られ過ぎているが。
ヒット曲のレコードをかけることは誰にでもできる。だが、アーティスト本人すらリリースされたことを知らないレコードをかけられる人間はごく僅かしかいない。アセテート盤、白レーベル(訳注:レコード盤面中央のラベル部分にクレジットが一切載っていない、販促・宣伝用のレコード)、テストプレスで終わってしまった見本盤、ガレージの1/4インチ・テープに残っていた音源、ボールペンでもつれを解いて巻き直したカセット、レーベルのマークすらついていない空白の盤。これらは皆、ノーザン・ソウル・マニアの垂涎の的であり、無上の快楽である。そしてチェスは、統一性のない所属アーティストと才能あるプロデューサーたち、限られたプロモーション費用、頻発するディストリビューションの問題、その上何よりも、既に処理能力を上回っているにも拘わらず、会社側がレコーディングをせずにはいられないような素晴らしいシンガーたちを大勢抱えていたことで、ノーザン・ソウルのレコード・ハンターたちにとっては昔から、夢のようなソウル・ミュージックの宝の山になっていたのである。ようやくディスコグラフィーが整理できたと思いきや、また新たなチェス・ノーザン・ソウルの名曲たちが、ここのみならず系列レーベルのチェッカーやアーゴ、カデット、カデット・コンセプトから――時にはレーベルですらない出所からも――ごっそり登場するのだ。チェス・ノーザン・ソウルは比類なきソウル天国である。
稀有なソウル、有名な名前。ボビー・ウーマックは、ファミリー・グループのザ・ヴァレンティノズとソロの両方で、レーベル創設間もない頃に数曲レコーディングを行なったが、そのうち60年代に世にでたのは4曲だけだった。それがために、優しい曲調だが押しの強い 「See Me Through」のようなお蔵入りしていた曲が、後の世代のファンによって掘り起こされ、80年代の コンピレーション・アルバムに収録されて日の目を見ることになったのだ。そして、7インチ盤のボックス・セット『Chess Northern Soul: Volume III』で、遂に満を持してシングル・デビューを果たすことになった。それよりもっとマイナーな、ジョー・アン(別名ジョーン)・ギャレットの 「Foolish Me」も、1969年のリリース以降すっかり稀少盤となっているアルバム『Just A Taste』の中で散々ほったらかしにされた後、同じコレクションの中でシングル盤デビューを果たしている。
チェス・ノーザンのビートが出現したのは、ソウルのイメージが一般大衆にほぼ定着しつつあった頃だった。ノーザン・ソウルの多くはかなりコマーシャルで分かりやすいものだったが、それにも拘わらず、どういうわけか本来もっと沢山出来たはずのオーディエンスを獲得するに至らなかった。エタ・ジェイムスの 「Mellow Fellow」やジャッキー・ロスの 「Take Me For A Little While」 はそれぞれスタイルとしては対象的ながら、実にソウルフルなレコードで、マーサ&ザ・ヴァンデラスやザ・マーヴェレッツのリリース作と並ぶビッグ・ヒットになってもおかしくなかったのに、何故か期待外れに終わった。
トニー・クラークの「Landslide」などは、どの点でも1965年にマーヴィン・ゲイが出したどのヒット曲には一切引けを取るところはなかった。唯一あったとすれば、モータウンという巨大なマーケティング・マシーンのチャートにおけるステータスくらいのものだ。70年代にノーザン・マニアのDJたちによって蘇生されたこれらのチューンは、幸いよき理解者たる新たなオーディエンスを見つけることが出来た。
ノーザン・シーンの範疇から、他のレアなソウル・アリーナへと越境していったレコードも一部にはある。テリー・キャリアーの 「Ordinary Joe」は、今では70年代初期の有名ソウル・チューンとして一目置かれているが、これは 80年代半ばにUKもののレア・グルーヴをメインにしたクラブでこの曲がウケが良いことに気付いたノーザン・ソウルの戦略の賜物だ。1972年にテリー・キャリアーが出したオリジナル・シングルは、殆ど誰の耳にも届かないまま、鳴かず飛ばずに終わったのだが、実を言えばやる気を失っていたシンガーは1970年、ヒットを量産していたヴォーカリストの地位をもってすれば、この曲が本来与えられるべき注目が得られるのではないかという儚い望みの下、既にこの曲をジェリー・バトラーに譲渡していたのだった。
チェスのA&R部門を仕切っていたラルフ・ベースとビリー・デイヴィスは、優れたヴォーカル・アンサンブルを聴き分けられる耳を持っていた。ザ・レディアンツはその代表格で、メンバーの入れ替わりを繰り返しながら、チェスから14枚のシングルをリリースしたが、残念ながらどの曲もセールス面では今ひとつだった。だがそれでも彼らには確かにオーディエンスがついていて、 「Hold On」 や 「I’m Glad I’m The Loser」はどちらもクラブでかかればダンスフロアが人でいっぱいになり、 「Voice Your Choice」はよりメロウな60年代シカゴ・サウンド・ファンを惹きつけた。
ザ・スターレッツは更に不遇なグループで、チェスで珠玉のチューンを何曲もレコーディングしながら、リリースされたのは1967年の「My Baby’s Real」/「Loving You Is Something New」というたった1枚の45回転盤だけという有様だったが、彼女たち自身はザ・ジェムズやガール・スリーというグループで他に幾つもヒットを飛ばした。70年代のソウル・スター、ミニー・リパートン はこのグループのメンバーの一員だった。インターネット上で検索すれば、トリオのメンバーのひとりがジョイ・ラヴジョイで、67年にチェスから「In Orbit」というシングルを一枚出したノーザンのモンスターだという憶測にぶつかることだろう。もし彼女がミニー・リパートンと同一人物だったとすれば(しばしば信憑性ありといわれるところだが)ここでの彼女はどこか、地声の持つ炎をあえて弱めているように聴こえる。
ジョイ・ラヴジョイについて知られていることはほぼ皆無だが、それと同じことはジャネット・ネリスにも当てはまり、チェスから63年にリリースされた彼女の「Wait」は、いまやガチョウ用の歯磨き粉並みに滅多にお目にかかれないレア盤だ。レーベルのカタログは夥しい量のこうした一枚限りや殆ど誰も聴いたことのないリリース曲で溢れている。ジョー・ケイトーは67年にチェスでシングルを一枚レコーディングした。それ以降、彼がレコードに登場するのは純粋にギターを弾くサイドマンとしてのみで、「I’m So Glad」では彼のリックがこの素敵なダンス・チューンに華を添えている。アマンダ・ラヴもまた、ヴォーカリストとしては殆ど誰も知らない存在だったが、レア・ソウル・マニアのDJたちによって、物憂げでブルージーな持ち曲 「You Keep Calling Me By Her Name」が発掘された。この曲は、スターヴィルという無名のレーベルからリリースされたその年に、チェスが権利を買い取って出したものである。彼女はその後、本名のアマンダ・ブラッドリーでジャズ・シンガーとして活動している。
ジーン・チャンドラーは長きにわたりスターの地位を欲しいままにしていた。1962年に 「Duke Of Earl」をヒットさせ、ディスコ全盛期までずっとビッグ・ネームであり続けたのである。シカゴ・サウンドを代表する声の持ち主のひとりとして、ジーン・チャンドラーがチェスに所属することになるのは時間の問題だった。彼は1966年から69年の間に、チェッカー・レーベルから何枚もシングルを出したが、そのうちの一枚のB面曲 「Such A Pretty Thing」はノーザン系で根強い支持を受けるようになった。もうひとり、チェスで誰もが知る声の持ち主は、彼が通常連想されるのとは違うジャンルで名を挙げることになった。ジョニー・ナッシュと言えば、 ドゥーワップの時代からレコーディング・アーティストとして活躍し、後には最初にレゲエに挑戦したアメリカ人シンガーのひとりとして、ボブ・マーリーの「Stir It Up」をカヴァーすることで、彼に最初の成功を味あわせた人物である。ジョニー・ナッシュは1964年にチェスで3枚のシングルをレコーディングし、そのうち2曲、「Strange Feeling」と「Love Ain’t Nothin’ (Monkey On Your Back)」は、ノーザン・ビートのダンス・ナンバーだった。
チェスはどうやらどんなものでもお祭り騒ぎのチャンスに変えてしまうところがあり、ジャズ・クラリネット奏者のウディ・ハーマンをサイケデリック・ソウル・ミュージシャンに変身させたり、セッション・ギタリストのフィル・アップチャーチをヘンドリックスのまがいものに仕立てたり、しまいにはシカゴのゴスペル・グループ、ザ・カンドリー・シェパーズに、アップテンポでパワフルな 「Lend Me Your Hand」を大声で歌わせたりしている。ミッティ・コリアは粘っこいスロー・バラード 「I Had A Talk With My Man Last Night」で知られており、無論この曲は彼女にピッタリ合っているのだが、それより以前に出していた、遥かにブルーズ色が濃く、ラテン 要素も入った 「Pain」は、今もヨーロッパのポップコーン・シーンを揺らし続けているのだ。ブルース・マンのリトル・ミルトンは、アップタウン・ソウルとゲットー・R&Bの完璧なミックスである「Grits Ain’t Groceries」を爆音で鳴らしている。チェスは本来これらの曲をノーザン・シーン向けにレコーディングすべきで、まさしくピッタリと言う外ないが、残念ながら今やノーザンは過去の称号である。レコードがダンスフロアでヒットしているのは、ノーザン・マニアのジョッキーたちが、それが制作されてから長い年月を経てクラブでかけることを選んだからであり、60年代の人々がそれを支持していたからではないのだ。
チェス帝国は70年代初期に崩壊に向かい、そのサウンドの大部分は‘現代の’新参ノーザン・ファンではなく、60年代のダンサーたちを魅了していた。けれど、北部のソウルにおけるレジェンドと共に、レーベルの地位と名声は決して揺るぐことはない。チェス・ノーザン・ソウルは音楽史上屈指のクオリティのソウル・ミュージックを生み出してきたが、その真の価値を理解し、忠誠を誓うオーディエンスに出逢うまでに10年、20年という歳月を費やしてしまった、それだけのことである。
Written By Ian McCann