娘の死や自殺未遂を乗り越えたチャーリー・パーカー最後の録音「I Love Paris」
1950年、”バード”ことチャーリー・パーカーはチャン・リチャードソンというダンサーと同棲をし始めた(その2年前には、長年交際していたドリスと結婚したばかりだったが…)。ふたりのあいだには1951年に娘が、1952年には息子が生まれた。しかしその娘は1954年に肺炎で夭折。長年の放蕩生活のせいで、当時のパーカーは既に危うい精神状態にあったが、娘の死をきっかけに、取り返しのつかないところまで転がり落ちてしまう。
あまりに状態が悪化したため、パーカーはバードランドからも出入り禁止を食らった。そして1954年9月には消耗し尽くし、自殺まで試みたがそれは未遂に終わった。しばらく入院生活を送ったあと、彼はなんとか復帰し、1955年3月にバードランドに出演するまでになった。
1954年12月10日、パーカーはニューヨークのファイン・サウンド・スタジオに入り、ウォルター・ビショップ・ジュニア(ピアノ)、ビリー・バウアー(ギター)、テディ・コティック(ベース)、アート・テイラー(ドラムス)と共にレコーディングに臨んだ。この日は2曲が録音され、最初に「Love For Sale」が、続いて「I Love Paris」が吹き込まれた。この2曲はどちらもコール・ポーターが作った曲だった。
しかし、パーカーが録音スタジオに入るのはこれが最後となった。バードランド出演の仕事を目前に控えた1955年3月12日、彼は多くのジャズ・ミュージシャンのパトロンとなっていたパノニカ・ドゥ・コーニグズウォーター男爵夫人の住まいで亡くなった(それから27年後には、セロニアス・モンクも同じようにパノニカ夫人の住まいで亡くなっている)。死亡時のパーカーは34歳だったが、検死報告によれば、その体は50歳以上の状態にまで衰弱していたという。
1955年末にノーマン・グランツが設立したヴァーヴ・レーベルは、クレフ/ノーガン・レーベルの旧譜を再発するという野心的なプロジェクトを1957年に始めた。その中でもとりわけ野心的で刺激的だったシリーズが、『The Genius Of Charlie Parker』(#1~#8)である。ここにはアルバム『Bird And Diz』のほか、「April In Paris」や「Night And Day」も収められていた。このシリーズと『The Charlie Parker Story』(#1~#3)は、レコード業界が伝説的なミュージシャンの死に便乗した最初期の例となった。
Written By Richard Havers
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パーカーが最後のレコーディングで録音した最後の曲「I Love Paris」