ブルース・ジョンストン:ビーチ・ボーイズを支えた終わりなきハーモニー
カリフォルニアで育ったブルース・ジョンストンは、ほかのアメリカのティーンと同様に、1950年代はラジオを聴いてすごし、ザ・コーディッツの「Mr.Sandman」がヴォーカル・ハーモニーに目覚めるきっかけとなった。ブルース・ジョンストンは1942年に生まれ、彼が12歳のときに「Mr.Sandman」はアメリカで7週1位を獲得している。
「Mr. Sandman」の10年後、ブルース・ジョンストンは、ビーチ・ボーイズのセッションに招かれた。ブライアン・ウィルソンが当時仮で「Yeah I Dig Girls」と呼んでいた楽曲のメロディを書き上げたところだった。その曲に現在の私たちが「California Girls」として知っている歌詞をマイク・ラヴが書き上げた。1965年の4月6日に、ブルース・ジョンストンはブライアン・ウィルソンと共にスタジオ入りし、ブライアンにハーモニーを聴かせたところ、ブライアンから共に歌ってほしいと頼まれた。その3日後、ツアーから離脱したブライアンの代わりとして一時的にツアーに参加していたグレン・キャンベルの代役としてブルース・ジョンストンがビーチ・ボーイズのツアーに参加するように任命された。
ビーチ・ボーイズに加入前の1959年、ブルース・ジョンストンは、後にジャン&ディーンとして知られるジャン・ベリーとディーン・トレンスと共に初めてレコーディングを行った(1950年代の最後の年には、彼らは、The Baronsというグループで活動しており、高校で出会った)。その1年ほど前にはブルース・ジョンストンは、フィル・スペクターがプロデュースしたテディ・ベアーズの「To Know Him is to Love Him(邦題:会ったとたんにひとめぼれ)」のベースを演奏する機会があったのだがそれを断った。ブルース・ジョンストンが断った理由は学校の女の子とのデートだった。
1959年にはブルース・ジョンストンは、サンディ・ネルソンとも仕事をしている。彼らは「Teen Beat」を共作したのだ。1960年ブルースがUCLAに在籍していた時代に、ブルースはザ・サーフ・スタンパーズというバンドを結成した、また1963年までには、彼の友人テリー・メルチャー(ドリス・デイの息子)と共に、ザ・リップ・コーズを結成し、レコーディングを開始した。ブルース・ジョンストンはこの初期レコーディングで、ビーチ・ボーイズがチャートで席巻していた“カリフォルニア・サウンド”に匹敵する“サーフ・レコード”を録音していた。ブルース・ジョンストンの最初の共作曲「Gone」はザ・リップ・コーズに全米シングル・チャートで83位をもたらした。
テリー・メルチャーは1965年1月に録音されたザ・バーズがカヴァーした「Mr Tambourine Man」をプロデュース。その一年後、ブルース・ジョンストンがビーチ・ボーイズに加入する年に、ブルース・ジョンストン、カール・ウィルソン、ブライアン・ウィルソンの3人は同じスタジオに向かい、ブライアン・ウィルソンの代表作となる「God Only Knows」のヴォーカル・トラックを録音した。 彼らのヴォーカルのアカペラ・ヴァージョンの最後には、ブルース・ジョンストンが「クールだな」と言うのが聞こえる。そして、われわれも思う、とてもクールだと。
1967年1月、ブルース・ジョンストンは「Heroes and Villains(邦題:英雄と悪漢)」のヴォーカル録音をほかのビーチ・ボーイズのメンバーと共に行っていた、そこには、テリー・メルチャーと彼がセッションに来るように頼んだ共通の友人、サジタリアスというスタジオ・グループでアルバムを制作していたゲイリー・アッシャーがいた。サジタリアスはイギリスのバンド、ジ・アイヴィー・リーグの楽曲をカヴァーし録音していた。皮肉なことに、この曲のリード・ヴォーカルをとったのは、ビーチ・ボーイズのツアー・ヴォーカルをブルース・ジョンストンに替わられたグレン・キャンベルだった。サジタリアスの「My World Fell Down」は、ブルース・ジョンストンとテリー・メルチャーのコーラスから始まる。
ビーチ・ボーイズでのブルース・ジョンストン初のソロ作曲作品は、1969年のアルバム『20/20』に収録された「 The Nearest Faraway Place」だ。皮肉なことに、ブルース・ジョンストンは才能あふれたすばらしい声の持ち主であり、すばらしいハーモニー・アレンジャーとしての評判があるにもかかわらず、この楽曲はインストであり、そこで彼はピアノを演奏しており、この楽曲はいまだにビーチ・ボーイズのツアーで演奏されている。
ビーチ・ボーイズのアルバム『Sunflower』では、ブルース・ジョンストンは2曲を作曲した。ノスタルジックな「Deidre」をブライアン・ウィルソンと共作し、アルバムの中でも突出している楽曲のひとつ「Tears In The Morning」を一人で作曲した。続く年、ファンには、クラシックとして知られるアルバム『Surf’s Up』に収録されている、バンドの中でも最もノスタルジックであり素晴らしい楽曲「Disney Girls (1957)」をブルース・ジョンストンが作曲して歌っている。その曲は、ほかのどんな曲よりも、1950年代を想起させる楽曲だった、思わず、パティ・ページの「Old Cape Cod」を引き合いに出してしまうほどに。
ビーチ・ボーイズにとって不安定な時期に入り、1972年にブルース・ジョンストンはバンドを離れることを決めた。その歌声はアメリカのアルバム『Hat Trick』のバッキング・ヴォーカルでも聴くことができる、またその1年後には、カール・ウィルソンと共に、エルトン・ジョンの「Don’t let the Sun Go Down On Me(邦題:僕の瞳に小さな太陽)」にアレンジとコーラスで参加。また続く1975年には、ブルース・ジョンストンの楽曲がバリー・マニロウによって録音されている。「I Write The songs(邦題:歌の贈り物)」は、他のバリー・マニロウ自身が書いた楽曲同様、1976年1月に全米シングル・チャートで1位を獲得した。そして後にブルース・ジョンストンは、この楽曲でグラミー賞の最優秀楽曲賞を受賞した。
1975年と1976年には、アート・ガーファンクルのバッキング・ヴォーカルをつとめた、またエルトン・ジョンの『Blue Moves(邦題:青い肖像)』の「Chameleon」、「Crazy Water」、「Between Seventeen and Twenty(邦題:17才と20才の頃)」、「Someone´s Final Song(邦題:ある男の終曲)」でアレンジやバッキング・ヴォーカルをつとめてもいる。
1978年には、ブライアン・ウィルソンが、ブルース・ジョンストンにビーチ・ボーイズのアルバム『LA (Light Album)』のプロデュースを依頼し、その後すぐにバンドに再加入した。その頃もブルース・ジョンストンは、ピンク・フロイドのアルバム『The Wall』に収録されている「The Show Must go On」でバッキング・ボーカルをつとめている。1980年にはブルース・ジョンストンは、ビーチ・ボーイズの『Keepin’ The Summer Alive』のプロデュースとバッキング・ヴォーカルを務め、バンドと共にツアーを行った。このアルバムへの彼の作曲の貢献は、とても美しい曲「Endless Harmony」である。この曲はビーチ・ボーイズを完璧に総括しているかのような楽曲であり、ブルース・ジョンストンのすばらしい偉業である。
ビーチ・ボーイズのツアーとは別に、ブルース・ジョンストンは、エルトン・ジョンのために彼の『21 at 33』に収録された「Dear God」のアレンジに参加。1985年にはバンドのセルフ・タイトル・アルバム収録の「She Believes in Love again」を作曲し、歌っている。これは典型的なブルース・ジョンストンの楽曲で、すばらしいメロディ、素敵なヴォーカルがカール・ウィルソンと共にとられており、厳格なプロダクションでないにもかかわらず、思い通りのものになっている。
ビーチ・ボーイズに再加入する少し前には、ソロ・アルバムをリリース。そこには彼のすばらしいバラード曲のひとつ「Don’t Be Scared」が収録されている。また、ブルース・ジョンストン自身のヴァージョンの「I Write The Songs」も収録されている。
ブルース・ジョンストンは、ビーチ・ボーイズとのツアーを続け、彼のヴォーカルはハーモニー・アレンジにおいてつねに最高の結果をもたらしている。マイク・ラブ、ブルース・ジョンストン、スコット・トッテン、ブライアン・アイケンバーガーで行われた最新のUKツアーで披露されたフォー・フレッシュメンの「Their Hearts Were Full of Spring」のカヴァー、これはもう最高としか言いようがない。
彼は実際に終わることのないハーモニーを持っている、そしてこの6月27日、彼の誕生日を祝おう!より多くの幸せがありますように!
Written by By Richard Havers
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