00年代後半~10年代の「ニュー・フォーク」:世界を席巻したUKフォーク・ロック・リバイバルとは?
「もし新しいものではないければ、古くならないものがあるとすれば、それはフォーク・ソングである」
これは、2013年に公開された映画『インサイド・ルーウィン・デイヴィス 名もなき男の歌』に登場するセリフだ。オスカー・アイザックが演じる主人公が「Hang Me, Oh Hang Me」を歌い終えたあとに、この言葉をつぶやくのだった。そして彼の言葉は正しかった。
その性質上、フォーク・ミュージックは伝統に必ずしっかりと軸足を置いている。その場合、ミュージシャンにとっての課題は、このジャンルの昔ながらのやり方を裏切ることなく、新鮮さや活力を維持する方法を見つけることになる。しかしながら、そうした二つの異なる方向性のバランスをうまく保てた例はほとんどない。唯一例外と言えそうなのが、2000年代後半から2010年代前半にかけてUKで巻き起こったフォーク・ロック・リバイバルだろう。「Nu-Folk (ニュー・フォーク)」と呼ばれたこのムーブメントは、古くからあるこのジャンルを活性化させ、再び人気を盛り立てることに成功した。
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メインストリームに対して反旗を翻す
ウエスト・ロンドンで生まれたこのムーブメントに「ニュー・フォーク」という名前がついたのは、マムフォード&サンズ、ローラ・マーリング、ノア&ザ・ホエール、エミー・ザ・グレート、キング・チャールズ、ジョニー・フリンといったアーティストが頭角を現したときのことだった。
これらのアーティストたちは、伝統的なフォークの演奏形態にインディー・ロックやポップスの要素を取り入れたのである。それはさまざまな結果をもたらした。ここに挙げたアーティストたちの中には国際的なスターの座にのし上がり、フォークというジャンルにまったく新しい世代のリスナーを呼び込んだ者もいる。そして多くのアーティストは、このムーブメントが生まれてから10年以上経った今でも大勢のファンを集め、評論家から絶賛され続けている。
ニュー・フォークがセンセーションを巻き起こした理由の一つは、彼らが21世紀初頭のメインストリームのポピュラー・ミュージック・シーンという舞台で活躍したことにあった。2000年代を迎えた頃、チャートはたくみに構築されたエレクトロニック・ビートで埋め尽くされ、新たな歌手はライブ会場よりもリアリティ番組から生まれる可能性が高いと思われていた。
伝統的なアコースティック楽器の演奏に焦点を当てた西ロンドンの革命家たちは、そんな状況に新鮮な風を吹き込んでくれた。マムフォード&サンズのフロントマンであるマーカス・マムフォードは、自らのバンドが人気を得たことについて、かつて次のように語っていた。
「いろんな人たちが、過去の10~15年間の状況に反旗を翻していたんだ。お客さん達は、ライブに来てバンドの演奏に参加できるということに良い反応を示している。みんな、もっと小規模なものを好むようになってきているんだ」
ニュー・フォークの始まり
このムーブメントは2000年代初頭に始まった。その中心地となったのが、今は廃業してしまったフラムの「Bosun’s Locker (ボースンズ・ロッカー)」という店名のパブである。このニュー・フォーク発祥の地は最大収容人数が40人という小規模な会場は、オーディション番組『Xファクター』のような大掛かりで派手なステージからはほど遠い場所だった。
とはいえここはステージと観客が近く、開放感もあり、そのおかげでクリエイティブな才能のるつぼとなった。マムフォード&サンズのバンジョー奏者であるウィンストン・マーシャルは、「僕たちの多くは未成年だったので、あそこはお酒をこっそり飲める唯一の場所だった」とのちに明かしている。
一方マムフォード&サンズのキーボード奏者ベン・ラヴェットは「本当に偶然だった」という。「ただ酔っ払って楽しい時間を過ごしたいだけ。みんな、それ以外の目的を持っていなかった。音楽を聴くこと、あるいは演奏することが何より大事だった。両方やらなくてもOK。演奏できなくても聴くだけでいい。聴かなくても、演奏するだけでいい。そこに参加するうえで唯一の資格となるのは、何らかのかたちで参加する意思を持つことだけだった」
マムフォード&サンズをはじめとするニュー・フォークの大物たちはグループで活動していたが、フル編成で演奏するにはこの会場はあまりにも手狭だった。そのため、ここではソロ・アーティストとして活動していた。それにも関わらずボースンズ・ロッカーにはコラボレーションの精神が根付いており、各アーティストは日常的に曲やアイデアをやり取りしていた。ステージ上で交流するだけでなく、多くの出演者はプライベートな面でも仲が良かった。
ボースンズで演奏していたシンガー・ソングライターのアラン・パウノールは、やはりこのパブの常連だったジェイ・ジェイ・ピストレットとアパートをシェアしていた。ジェイ・ピストレットはやがてザ・ヴァクサンズのフロントマンとなり、のちにマムフォードやマーシャルとも部屋をシェアしている。
ローラ・マーリング / Laura Marling
ローラ・マーリングは、ガーディアン紙のインタビューで、ボースンズ・ロッカーで演奏していた時期のことを複雑な気持ちで振り返っている。
「いつもみんなと一緒に演奏していると、すべてが少し均質化してしまうと感じ始めた。だから私は、手を広げて新しいことを始めたかった。自分の音楽がほかの人のと同じになりつつあると感じたから、自分にとって特別なものを保ち続けたいと思った。私はエゴが強いので、たむろしている仲間内には入り込めなくてね。ほかにはない唯一無二の存在だと思われたかった」
その点については、彼女は心配する必要がなかった。マーリングは、西ロンドン出身のフォーク・アーティストの中で、最初に本格的にファンを獲得したアーティストとなった。2008年に発表したデビュー・アルバム『Alas, I Cannot Swim』は高い評価を受け、マーキュリー賞にもノミネートされた。彼女のスタイルと一流の才能(つまりギターの才能と優雅で洞察力に満ちた歌詞)を語る際には、たいていジョニ・ミッチェルが引き合いに出されていた。
ニュー・フォークのアーティストたちのはっきりとした特徴の一つは、その若さにあった。ボースンズで初めて演奏したアーティストのほとんどは当時まだ10代で、20代前半には成功を収めていた。とはいえその中でもマーリングは飛び抜けた存在だった。11歳から歌のパフォーマンスの技術を磨き、18歳で全国的な活躍を見せる才人として定評を得たのである。20代半ばになったころ、彼女の楽曲カタログははるかに年上のソングライターがうらやむような充実ぶりになっていた。
ノア&ザ・ホエール / Noah And The Whale
今は解散してしまったヒットメーカー、ノア&ザ・ホエールのフロントマンだったチャーリー・フィンクは次のように語る。
「僕たちはかなり心持ちが似ていて、ある種の音楽に対する趣味や好みを共有していた。とても楽しい時間を過ごしたけれど、何らかのイデオロギーが支配していたかどうかはよくわからない。少なくとも、グループの中で世界制覇に向けたミーティングをやるようなことはなかった。音楽界の戦況を地図に描いて、その上でコマを動かしたりなんかしなかったよ。実のところ、野心のようなものさえなかった。率直に言って、ポップ・スターになるためにバンジョーを手に取るやつなんていないからね」
とはいえ、ノア&ザ・ホエールのデビュー・アルバム『Peaceful, The World Lays Me Down』は2008年にUKのアルバム・チャートで最高5位に到達し、ちょっとした話題を巻き起こした。このアルバムのリリース当時、マーリングはノア&ザ・ホエールのメンバーとしてバッキング・ボーカルを担当していた。ただし短期間ツアーを一緒にこなしたあとは、ほかのプロジェクトを追求するために脱退している。このグループは何度かメンバーを入れ替えながらさらに3枚のアルバムをリリースし、2015年に解散した。
マムフォード&サンズ / Mumford & Sons
ノア&ザ・ホエールが2000年代後半のフォーク・ミュージックの意外なサクセス・ストーリーだったとしたら、マムフォード&サンズはどう言えば良いだろうか? マーリングのバック・バンドで演奏を始めたマーシャルとマンフォードとベーシストのテッド・ドウェインは、2007年にラヴェットと共に自分たちのグループを結成した。
それから2年間は小規模な会場でツアーを行い、10インチEPを3枚リリースしたが、どのEPもチャートには入らなかった。とはいえ、2009年にデビュー・アルバム『Sigh No More』をリリースしたあとは、すべてが変わった。
アーケイド・ファイアとのコラボレーションで知られるマーカス・ドレイヴスがプロデュースした『Sigh No More』は、オーストラリアのヒット・チャートで最高1位、UKのヒット・チャートで最高2位に到達し、マンフォード&サンズは世界的な名声を得た。
そして、その前のEPに収録されていた最初のシングル「Little Lion Man」は、あっという間にこのバンドの代表曲となった。このアルバムの大ヒットを受けて彼らはUKで開催された”Hop Farm festival”に出演した。このフェスティバルの出演者の中にはボブ・ディランの名前もあったが、マムフォード&サンズのステージには、そのディランよりも多くの観客が集まった。
フォーク・ミュージックのファンは、「フォーク・ミュージック」の定義に関してはかなり厳格だという定評がある。ディランが1965年にエレクトリック・ギターを中心としたサウンドに切り替えたとき、コンサート中に観客からのブーイングを浴びたというエピソードは誰もが一度は耳にしたことがあるはずだ。
マムフォードはギリアン・ウェルチやアリソン・クラウスといったアーティストから影響を受けたと発言しているが、マムフォード&サンズのサウンドは伝統的なフォーク・ミュージックからはかけ離れている。さらに言えば、同じ世代のマーリングのようなアーティストともかなり違っている。ロンドンのイヴニング・スタンダード紙は、このバンドのサウンドを「きわめて大雑把に言えば、彼らはバンジョーを持ったコールドプレイだ」と表現している。とはいうものの、マーカス・マムフォードは、正統性についてのこだわりはないと主張している。
「僕の手にはアコースティック・ギターがあった。ウィニーはバンジョーを持っていた。テッドはアコースティック・ベースを買ったばかりだったし、ベンはキーボードを持ってきていた。そうして僕たちはただ座って、自分たちが作った曲を演奏した。けれども、僕たちが言いたいのはこういうことだ。つまり、自分たちのやっていることがほかの誰かから本物だと思われるかどうかなんて、あまり気にしていないってことだよ」
ウエスト・ロンドンのこうした盛り上がりの外でも、フォーク・ロックは復興の時を迎えていた。2011年、アイスランドの5人組グループであるオブ・モンスターズ&メンは、デビュー・アルバム『My Head Is An Animal』によって、世界的に認められることになった。
またコロラドを拠点とするザ・ルミニアーズはアメリカのフォーク・ロック勢力の最先端に立ち、2012年にリリースしたデビュー・アルバムは英米両方でたちまち有名になった。スコットランドのグラスゴーでも西ロンドンと同じようなフォーク・ミュージックの盛り上がりが見られ、そこからフィンリー・ナピアー、キャシディ、ドライ・ザ・リヴァー、パール&ザ・パペッツ、ザ・バー・ルーム・マウンティニアーズといったアーティストたちが登場してきた。
言うまでもなく、それから時間が過ぎた今、ニュー・フォーク・ムーブメントがメディアで派手に取り上げられることはなくなった。とはいえ、その精神が薄れてしまったわけではない。
ローラ・マーリングは評価の高いレコードを作り続けており、2018年にはタンのマイク・リンゼイと手を組んで「LUMP」という共同プロジェクトを立ち上げ、アルバムの発表と全国ツアーを行った。ボースンズの常連で、その後はマーリングと共演していたジョニー・フリンは、自身のバンド、ザ・サセックス・ウィットで活動を続けている。ただしその軸足は俳優業に移り、2021年に公開されたデヴィッド・ボウイの伝記映画『スターマン』に出演している。また、マムフォード&サンズは、2018年に『Delta』というLPをリリースし、その後は世界各国をまわるアリーナ・ツアーを行っている。
フォーク・ミュージックは決して廃れることはない。そして、ニュー・フォーク・モーメントが証明したように、フォーク・ミュージックを新鮮なかたちで保つ方法を、これからも、いつも誰かが見つけ出すことだろう。
Written By Louis Chilton