ブロンディのベスト20曲:NYダウンタウンのサブカルチャーを反映してきた偉大なバンドの歴史

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Photo: Philip Dixon, courtesy of Blondie

ブロンディは、1970年代半ばのニューヨークのパンク・クラブ界隈から登場したバンドの中で、最も成功を収めた偉大なバンドのひとつだ。1974年、バワリーの地下で、ギタリストのクリス・スタインが、デボラ・ハリーのバンド、スティレットーズに加入したことがきっかけで誕生した。そして二人は、一生のクリエイティヴ・パートナーとなったのである。キーボード奏者のジミー・デストリと、ドラマーのクレム・バーク、ベーシストのゲイリー・バレンタインが加わって、ブロンディは“ポップの教科書”を滅多切りにし始めた。

批評家にとってもリスナーにとっても音楽的パラドックスであった彼らは、アルバム毎に様々なジャンルに挑戦し、常に人々に「次はどうなるのか」と予測させ続けた。アンダーグラウンドのパンク・バンドから、ニュー・ウェイヴ・クール、オルタナティヴ・ポップまで、彼らはポップ・リヴァイヴァルの促進を助長した。その間ずっと、彼らはNYダウンタウンの独自の姿勢とミステリアスなカッコ良さを維持し、無数のバンド達がそれを真似してきた。2017年の彼らは新作の制作中のため、我々はポップの歴史におけるブロンディの偉大な瞬間の数々を追うことにした。

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後にブロンディの最初の2作、『Blondie(邦題;妖女ブロンディ)』と『Plastic Letters(邦題;囁きのブロンディ)』のプロデューサーとなるリチャード・ゴッテラーは、彼のいたレーベルを離れ、ニューヨーク・シーンのバンドのコンピレーション・アルバムを作ろうとしていた。その頃、ブロンディは既に、マクシズ・カンザス・シティとCBGBでギグを行い成功を収めていた。リチャード・ゴッテラーは彼らを捕まえて、インディ・レーベルのプライヴェート・ストックと契約させ、1976年に彼らのセルフタイトル・デビュー・アルバム『Blondie』を発表した。

過去の文化についての博学な知識を反映して、デビュー作はB級映画からロカビリー・カルチャーまでのあらゆる事柄、特にガール・グループについて触れていた。1曲目の「X Offender」から、デボラ・ハリーは彼女の最高のユートピアを表現している。ただ、彼女はありがちな10代の恋愛を歌う代わりに、警官と売春婦のつかの間の真のラヴ・ソングを歌った。31歳で、堕落した10代のラヴ・ソングを歌うのは、皮肉のような魅力があり、それがデボラ・ハリーをカリスマ性のあるフロント・ウーマンにしていた。粋なルックスのニュー・ウェイヴ・シンガーとして称賛されたデボラ・ハリーは、アンダーグラウンド・シーンでは女性的かつポップすぎる存在ではあったが、それ以外の人々にはなかなか理解できなかった。

ラモーンズが60年代のポップとロックを覆した存在として認められているように、ブロンディもまた、ガール・グループを非常にクールなものにする役割を担った。『Blondie』からは、彼らの初のヒット曲「In The Flesh」が誕生。オーストラリアのシングル・チャートで2位を記録したこの曲もまた、ガール・グループ・サウンドへのオマージュであったが、よりセクシーな雰囲気があった。このアルバムは、彼らがライヴでよく披露する曲が沢山を生みだしたものの、アルバム・チャート入りは果たせなかった。

プライヴェート・ストックはインディペンデント・レーベルであったが、“インディ”のサウンドを育てられる場所ではなかった。1977年、新レーベルのクリサリスと契約を結んだ直後にファースト・アルバムを再発し、その1年後に、彼らのブレイク作となった『Plastic Letters』を発表した。

再びリチャード・ゴッテラーがプロデュースしたこのアルバムも、60年代サウンドを変化させたものだ。ランディ&ザ・レインボウズの「Denis(邦題;デニスに夢中)」のカヴァー曲は、オリジナルと性別を置き換えていた。そしてこの曲で、彼らはイギリスで商業的にブレイクしたのだ。

リチャード・ゴッテラーは言う。「デビーはこの曲の一部をフランス語で歌ったんだ。そのフランス語が本物かどうかどうかすら分からなかったが、この曲は彼らのイギリスでの初のヒットになった。アメリカの中西部は目もくれなかったよ」。

彼らの多くの曲と同様、アルバムのタイトルにも二重の意味があり、サーカス会場と、マグショット(警察に捕まった際に撮られる顔写真)の名前の綴られ方を意味していた。『Plastic Letters』の大半の曲で、彼らがポップ・サウンドを極めていることが伺える一方で、「I’m On E」は、彼らのローファイな初期パンク・サウンドと、奔放な冷めたヴォーカルに回帰したかのような曲だった。同じ文脈にある「Detroit 442」は、イギー・ポップの「Lust For Life」に通じるような、サーフ・ロックを加速させた曲だ。また、このアルバムで彼らは初めてレゲエにも挑戦している。「Once I Had A Love」(別名ザ・ディスコ・ソング)は、後に練り直され、スピードアップされて、チャートの首位を獲得したヒット曲「Heart Of Glass」となる。

すでに何曲かのヒット曲を手にしていたものの、1978年の3枚目のアルバム『Parallel Lines』まで、ブロンディはアメリカではアンダーグラウンド・バンドとみなされていた。10曲目の「Heart Of Glass」は彼らの大きなターニング・ポイントとなった。

その前にはニュー・ウェイヴのカヴァー曲が数曲収録されており、ポップ・パンク・バンド、ザ・ナーヴズの「Hangin’ On The Telephone」のやみつきになるほどキャッチーなカヴァーは、ここでもまた女性の視点に変えられて、新しい意味を持つ曲となった。そして、「One Way Or Another」での激しいギターと、デボラ・ハリーの痛快なヴォーカルは、彼らのヒット曲の中で最も知られる曲のひとつとなり、2000年代初期のストロークスや同系列のバンドの多くが従う道を開拓した。

これら全てのヒット曲の裏の立役者が、新たなプロデューサーのマーク・チャップマンだった。彼はブロンディのサウンドを磨き上げるために雇われて、彼らをプロダクション強化合宿に入れた。「Once I Had A Love」は、クラフトワークとジョルジオ・モロダーにインスパイアされたシンセのスタイルと、クレム・バークの『Saturday Night Fever』から取ったドラム・ビートを使って作曲し直して強化され、ここに「Heart Of Glass」が誕生した。クレム・バークはアンカット誌に、こう語っている。「ディスコはパンク・ロックに対するバックドロップになっていた。外に出かけると、流れていたのはイギー&ザ・ストゥージズではなかった。ディスコのレコードが流されていたんだ」。

名曲満載のこのアルバムから、リストに入れる曲を絞り込むのは至難の業だが、他に突出している曲は、「Sunday Girl」だ。甘いポップ・ナンバーが、フランス語によって更に素敵なサウンドになっている。マルチ・プラチナムを獲得した『Parallel Lines(邦題:恋の平行線)』はパンクからメインストリームに襲撃をかけたアルバムで、プロデューサーのマーク・チャップマンは“モダン・ロックン・ロール”と形容した。

ブロンディは、自らのハードルを上げ続けて、1979年に『Eat To The Beat(邦題:恋のハートビート)』を発表。ここでも彼らは様々な音楽スタイルを実験しつつ、感情を軸にした鋭い視点の姿勢が健在であることを提示してみせた。アルバムのオープニング曲、「Dreaming」は、クレム・バークの見事なドラム演奏に、デボラ・ハリーが全身全霊をかけたヴォーカルを乗せている。クリス・クラインは、この曲が本来はアバの「Dancing Queen」のオマージュであったことを認めている。そしてその影響は、瞬時に体を突き動かすギター・リフが印象的な、ディスコ・ダンス・ロック曲の「Atomic」でも垣間みられる。アルバムには穏やかな曲も含まれており、特に「Shayla」は、それまでで一番無防備になったデボラ・ハリーの姿が見える曲だ。

ブロンディは常に、NYのダウンタウンのサブカルチャーをその音楽に反映させていた。そして80年代に入ると、ディスコとパンクは、ヒップホップのような新しい音楽ムーヴメントに道を譲るようになった。デボラ・ハリーがラップのフリースタイル競技で優勝するようなことはないだろうが、ブロンディはヒット曲「Rapture」で、ラップをメインストリームのポップ・ソングに取り入れ、グランドマスター・フラッシュとファブ・ファイヴ・フレディからの影響を世界に提示したことで、一生分の評価を得た。

これは一考に値することだが、「Rapture」は、全米シングル・チャートで初めて首位を獲得した“ラップ・ソング”であり、1990年にヴァニラ・アイスの「Ice Ice Baby」がヒットするまで、その記録を維持していた。彼らは実験をすることで有名だったが、中でも『Autoamerican』は、ブロンディにとってコンセプト・アルバムだったと考えられている。

まず「Rapture」のラップがあり、次にザ・パラゴンズのヒット曲「The Tide Is High(邦題:夢見るNo.1)」でのスカとロック・ステディがあり、そして新たなディスコ・ヒット曲、「Call Me」も収録されていた。当時世界一のディスコ・プロデューサーであったジョルジオ・モロダーと共作したこの曲は、映画『アメリカン・ジゴロ』のサウンドトラックとして作曲され、過剰な80年代を表現して、1980年にアメリカで最も売れたシングルになった。

『Autoamerican』の後、バンド内部の不和や個人的な健康問題等で、80年代の彼らは居場所を見つけるのに苦労した。1981年にデボラ・ハリーはソロ・キャリアを開始し、ブロンディはラスト・アルバム『The Hunter』を発表(1999年に最後のアルバムではなくなった)。元々はジェームズ・ボンド映画の主題歌として作曲された「For Your Eyes Only」がこのアルバムに収録されており、B面曲の中で一番の曲とみなされている。この曲は映画に魅力を添えているが、ひとつだけ遺憾なのは、デボラ・ハリーがジェームズ・ボンドの敵を演じることがなかったことだ。

17年の不在の間に期待されていた再結成を1999年に果たし、復帰作の『No Exit』を発表。オルタナティヴ・ロックのリフや、彼らのいない間にガービッジやノー・ダウトといったバンドがやっていたことに見合うスカやレゲエの曲が満載で、彼らはその栄冠を再び手にした。

長年の休みから巻き返しを計るのは簡単ではなかったが、彼らはギター主導のヒット曲「Maria」で完全復活した。ギタリストのジミー・デストリが書いたこの曲は、イギリスでチャート入りを果たした。『No Exit』は90年代後半に特有の文化を捉え直すことを目指した作品だったが、2003年発表の『The Curse Of Blondie』で、彼らは同じ挑戦と対峙した。国外ではソニーと契約したブロンディは、「Good Boys」でエレクトロ・ポップを展開し、「また朝日が昇るまで、列車に乗るわ」と歌った。

2000年代に入ってから10年が経過し、ブロンディは2011年のアルバム『Panic Of Girls』と、2013年のリマスターしたヒット曲の数々にスペシャル・ゲストを迎えたダンス・パンク曲を合わせた『Blondie 4(0)-Ever: Greatest Hits Deluxe Redux/Ghosts of Download 』で、ニュー・ウェイヴの不確かな海の中を航海していった。そして、ブロンディは再びスタジオでレコーディングを始めている。このバンドの復活ぶりと、常に自分達を再発明しようとするやる気は、目を見張るものがある。

ブロンディは常に、泣き所満載のスマートなポップ・ソングを作曲するレトロでモダンなバンドであり続けるだろう。彼らは、我々が知るモダン・ポップの青写真を創造するのを助けたが、それをスタイリッシュに、知恵と勇気を持って達成してみせた。まるでそんなことは全く気にしていないようなそぶりを見せながら。

Written By Laura Stavropoulos

♪ プレイリスト『ブロンディの20曲



 

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