ビリー・メイの半生:シナトラやナット・キング・コールを支えた名アレンジャー
ビリー・メイ本人の言葉によれば、彼がアレンジャーになったのは学校のバンドでチューバを吹いていたことが理由だった。そのポジションでは、他の楽器が何をやっているのか観察する時間がたっぷりあったのだという。
1916年11月10日にピッツバーグで生まれたビリー・メイは、トランペットを演奏するかたわら、グレン・ミラー、レス・ブラウン、チャーリー・バーネットのアレンジを手がけていた(メイがアレンジした曲の中には、バーネットの最大のヒット曲「Cherokee」も含まれている)。やがてメイはNBCのスタジオ・アレンジャーになり、1940年代後期にはキャピトル・レーベルでの仕事が増え、ポール・ウェストンの作品でゴースト・アレンジャーを務めた。それがきっかけで、彼はキャピトルの看板アーティストの多くを音楽監督として支えることになった。
1951年、メイはレコーディング用のバンドを結成。奇抜なグリッサンド・ユニゾンのサックス・サウンドで成功を収めた。そのスタイリッシュで、往々にしてユーモラスなアレンジのおかげで、彼はライヴでも引っ張りだこになった。トロンボーン奏者のディック・ナッシュ(メイのバンドやフランク・シナトラのレコーディング・セッションの多くに参加)は、ビリー・メイの特徴をこうまとめている。「ビリーのアレンジの中には、ふざけたものもあった。途中にサプライズを交えて、聴く人をびっくりさせるんだ! ブラス・セクションの扱いが実に見事だったし、とてつもなく才能にあふれてた。ビリーは、頭の中でアレンジのすべての要素を聴くことができた。天才だよ」。
フランク・シナトラのレコードの中には、メイのアレンジがひときわ印象的なものがいくつかある。たとえば『Come Fly with Me』(1958年)、『Come Dance with Me!』(1959年)、『Come Swing with Me!』(1961年)などがそうだ。またメイは、ナット・キング・コール、ペギー・リー、メル・トーメ、ボビー・ダーリン、ヴィク・デーモン、エラ・フィッッツジェラルドの作品も手がけていた。
亡くなる前年の2003年、メイはこう語っている。「アレンジするときは、わざとユーモラスにしていたわけじゃない。私たちはたくさんの曲をアレンジしてた。その中には良い曲もあれば、クズみたいな曲もあった。だから私たちアレンジャーは、雌豚の耳から絹の財布を作ることもあったんだ!」。
一緒に仕事をしたミュージシャンの多くに言わせれば、メイは最高の指揮者ではなかった。しかしそうしたミュージシャンも、彼から多くのインスピレーションをもらったと感じていた。メイは1955年にアルバム『Sorta-May』をチャートの7位に送り込み、1958年にはアルバム『Big Fat Brass』でグラミー賞を受賞した。彼は偉大なアレンジャーとして評判になったが、大量に酒を飲むことでも知られていた。あだ名は「飲んべえ / guzzler」だった。
とはいえ、酒の悪影響が音楽に出ることはなかった。メイの才能のすごさをよく物語るエピソードがある。ジャズ・ピアニストのジョージ・シアリングと組んだときのこと。シアリングは、アレンジしてもらう曲をメイに聴いてもらおうと、試しに一度弾いた。その曲をもう一度弾こうとすると、メイに遮られた。「ああ、途中のブリッジからでいいよ。そこまでのアレンジはもうできた」。
のちにメイは、テレビ番組『Naked City』の音楽を担当。その他にも『Johnny Cool』、『Tony Rome』、『Sergeants Three』といった番組の音楽を手がけている。60年代後期には仕事のペースは落ちたが、シナトラとは1979年に再び組み、三部構成のアルバム『Trilogy』の第一部をアレンジした。80年代は活動が断続的になったが、1996年にはスタン・フリバーグのコミカルなアルバム『The United States of America, Vol. 2』で再び第一線に復帰している(このアルバムは、『Vol.1』から25年経ってようやく出た第2弾だった)。
1999年、彼はイギリスのエジンバラでBBCビッグ・バンドを指揮した。あのサックスのグリッサンドは健在だった。
ビリー・メイは2004年1月22日に87歳で亡くなっている。
By Richard Havers