史上最高の男性ジャズ・シンガー・ベスト25

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素晴らしジャズ・シンガーの定義とは何だろう。それは彼らの音感やリズム感だろうか。彼らが選ぶ楽曲の質だろうか。インプロヴィゼーションの才能だろうか。感情を込めて歌う能力だろうか。それとも単純にサウンドやルックスのかっこよさだろうか。

ジャズ・シンガーをほかのジャンルのヴォーカリストたちと区別するものを明確にしようとすると、実に多くの疑問がわいてくる。しかしながら確かなことは、最高の男性ジャズ・シンガーは世界中の誰もが最高の歌手だと認める特別な何かを持っているということだ。

これから挙げる”史上最高の25人の男性ジャズ・シンガー”たちは例外なく”特別な何か”を持っているが、その”何か”は途方もなく多種多様だ。甘い囁きのように歌う者もいれば、ビバップのホーン奏者よろしくいきなりアドリブでメロディを自由自在に操る者もいる。また、超有名なジャズ・インストゥルメンタルの一節にヒップでウィットのある歌詞を乗せてしまう達人もいる。

それぞれの独特で個性的な才能はさておき、最高の男性ジャズ・シンガーが共通して持っているのは、彼ら全員がシンコペート・ビートでスイングしワイルドに乗る方法を知っているということだ。彼らの全員が誰にも引けを取らない感性や音楽性、そしてリズム感を持っている。そして同じく重要なことに、彼らはどんな曲でも自分が書いたかのようなものにしてしまうという点がある。ほかの誰かが書いた言葉を自分の言葉にしてしまうのだ。他人の気持ちを自分の気持ちにでき、音楽に生命感を与えることができ、音楽に威信や意味を与えることができると言ってもいい。彼らは音楽をリアルなものとして私たちに提供してくれる。要するに、彼らは私たちに”これだ”と思わせてくれるわけだ。

彼らがみなジャズ・ヴォーカルの名人達人の匠であることを考えると、最高の男性ジャズ・シンガーのランキングなど無礼にも程があると思えてくる。シナトラサッチモよりも優れているだとか、またはジョン・ヘンドリックスがメル・トーメより技術的に優っているとか、そんなことをいったいどうすれば証明できるのか?このリストは、ほかのこうした類のリストと同様、完全に主観的なものだ。とはいえ単に個人的な趣味を並べているだけというわけでもない。影響力やインパクトの大きさや創造力に富んだクオリティの高さ、そして才能のユニークさなどといったファクターを手がかりに各シンガーを位置づけているからだ。

それでもやはり、このランキングが決定版だと言うつもりはないし、これで彼らに対するすべててを語り尽くしたなどという気になりたいわけでもない。このリストを紹介する真の目的は、音楽ファンを刺激して健全な議論や意義深い対話を促したいという点にこそある。

さて、それでは史上最高の男性ジャズ・シンガーは誰なのか、リストを眺めてみよう。


第25位:ジャッキー・パリス(1924 – 2004)

ニュー・ジャージー州出身のイタリア系アメリカ人。エラ・フィッツジェラルドはこのクルーナー・シンガーの、柔らかで耳に心地よいトーンの大ファンだったという。パリスはボードビル劇場での子供のタップダンサーとしてキャリアをスタートさせ、その後ジャズ・ギタリストへ転身。自らギターも奏で、40年代後半から50年代初期にかけてトリオ編成のバンドを率いて活動した。ビバップ・ジャズをこよなく愛する彼は、チャーリー・パーカー、チャールズ・ミンガスといったミュージシャンとも共演している。ヴォーカリストとしてのキャリアを歩み始めてから間もなく称賛を浴び、いくつかの賞も受賞したがパリスは、しかし1960年代に入ると失速。以降は数枚のレコードを散発的に発表するに留まっている。

 

第24位:モーズ・アリソン(1927-2016)

ミシシッピ州はティッポ出身、温かみのあるジェントルな声のモーズ・アリソンは大学の哲学科を卒業。ブルースとジャズを融合させ、社会風刺のトゲのある皮肉なユーモアに溢れる歌詞を書くシンガーソングライターとして名声を博した。ファースト・アルバムを発表したのは1957年。最後のアルバムをレコーディングしたのは2010年のことだった。アリソンは、そのキャリアを通じ、トム・ウェイツ、ジョージー・フェイム、ザ・フーのピート・タウンゼント、ロック・バンド、ピクシーズなど、多くの同業者からも熱狂的に支持された。アリソンが史上最高の男性ジャズ・シンガーのひとりであることの証としてはそれだけでも十分だろう。

 

第23位:キャブ・キャロウェイ(1907-1994)

ロチェスター出身で、鉛筆のように細く尖った口髭が特徴のキャベル・キャロウェイ3世は、ハーレムの伝説的なナイト・クラブであるコットン・クラブと切っても切り離せない歌手だ。彼は30年代に名声を得ているが、そのとき拠点にしていたのがコットン・クラブだった。キャロウェイはアクロバットのように声を自由自在に扱うことができ、スキャット、クルーナー唱法、ホラー、さらにはリズミカルなパーカッションまで、どんな役割もその歌声でこなしてみせた。コーラス・パートがひときわ印象的な、スウィング・ジャズ黄金時代のアンセム「Minnie The Moocher」がキャロウェイの代表曲のひとつで、彼のニックネーム”Hi-De-Ho Man”もこの曲に由来する。キャロウェイは気の利いたユーモアと流行り言葉を巧みに操ることでも人気を集め、『ブルース・ブラザーズ』を筆頭に、いくつか映画にも出演している。

 

第22位:レオン・トーマス(1937-1999)

マイルス・デイヴィスの出身地としても知られるイリノイ州イースト・セントルイス出身のレオン・トーマスは、ジャズ・ヨーデルという独創的な歌唱法を確立したシンガー。いわゆる”アヴァンギャルド・シンガー”に括られる歌い手で、その点で今回の25名の中でも異彩を放っている。トーマスは1960年代半ばにカウント・ベイシーのバンドとの共演で最初のレコーディングを経験。1960年代後半にスピリチュアル・ジャズの達人ファラオ・サンダーズとチームを組んでいる (サンダースの名曲「The Creator Has A Master Plan」トーマスのヴォーカル・パフォーマンスがフィーチャーされている)。

トーマスといえば、広く知られているのはやはりあのヨーデル唱法だが、よく響くソウルフルなバリトン・ヴォイスやブルースに通じたセンスも彼の特徴のひとつだった。1970年代にはサンタナとも共演しているが、何よりも忘れ難いのは1969年から1973年にかけてリリースされた一連のソロ・アルバムだろう。それらは、いずれもボブ・シールのプロデュース作で、フライング・ダッチマン・レーベルからリリースされている。

 

第21位:アンディ・ベイ(1939-)

しなやかで最高に表現力豊かなバリトンの声に恵まれた、ニュー・ジャージー州出身のヴォーカリスト。ジャズとソウルとゴスペルの要素を融合させ、一聴して彼だとわかるスタイルを確立したアンディ・ペイは、かつてグラミー賞にもノミネートされている。キャリアの起点となったのは、10代の終わりに姉妹2名と結成したアンディ・アンド・ザ・ベイ・シスターズで、このグループのリーダーとして1960年代にRCAとプレステージで3枚のアルバムをレコーディングしたあとソロ・シンガーに転身している。

1970年代前半にはサックス奏者のゲイリー・バーツと共演。その数年後にリリースした名盤『Experience And Judgement』ではソウル・ジャズにファンク・ミュージックの要素を取り入れるという試みを成功させている。本稿を執筆している時点で、既に彼は80代にさしかかろうとしているが、依然、レコーディング・アーティスト/ライヴ・シンガーとして現役で活動中だ。

 

第20位:グレゴリー・ポーター(1971-)

カリフォルニアのベーカーズフィールド出身で、トレードマークの帽子から「キャップド・クルセイダー」(Capped Crusader 帽子をかぶった十字軍 | Caped Crusader マントをまとった十字軍 のもじり)の異名を取るポーターはポップ・スター的な魅力を備えていた。そして、ジャズ・ヴォーカルの芳醇な香りと濃厚な味わいを損なうことなくメインストリームでも通用することをあらためて印象付けた。そんな功績を思えば、彼もまた史上最高の男性ジャズ・シンガーのひとりとされるに相応しいだろう。ポーターのコクのあるバリトンは、マヘリア・ジャクソンとナット・キング・コールというきわめて栄養価の高いソウル・フードによって育くまれたものだった。

ジャズのスタンダード・ナンバーに固執することを好まず、自作曲を歌ってきた自給自足のシンガーである点も彼の特徴のひとつである(一方で、ポーターは、敬愛する歌い手に捧げた『Nat “King” Cole & Me』というアルバムも残している)。ともあれ、今日のジャズ・ヴォーカルの王者といえば、疑問の余地なくグレゴリー・ポーターということになるだろう。

 

第19位:アル・ジャロウ(1940-2017)

ウィスコンシン州ミルウォーキー出身の”ヴォーカルの曲芸師”アル・ジャロウは、1980年代に人気テレビ・シリーズ「こちらブルームーン探偵社」のテーマ・ソングを歌い、ヒットさせたことで広く一般に知られている。牧師の息子だった彼は教会で初舞台を経験。その後は音楽の仕事に就くという夢を一旦脇に置いて、大学へ進学し心理学を専攻している。しかしながら大学を卒業したあとも、音楽への強い思いは止まず、1960年代の終わりごろには定期的に音楽活動を行うようになり、1975年にジャズ、ファンク、R&Bなどの要素を折衷したシームレスでスタイリッシュなデビュー・アルバムをリリース。本格的な歌手活動に入り、1980年代には7つのグラミー賞も獲得する人気歌手になったのだった。

 

第18位:ジョー・ウィリアムス(1918-1999)

ダイナミックな表現力と自然と人を引きつける存在感に恵まれたジョー・ウィリアムスはまさにビッグ・バンドにうってつけのジャズ・シンガーだった。ジョージアに生まれ、シカゴで育ったウィリアムスは、1930年代後期からプロフェッショナルな歌い手としてのキャリアをスタートさせている。1940年代はライオネル・ハンプトン率いるバンドに雇わて注目を集めたが、ウィリアムスがその才能を本格的に開花させたのは1950年代にカウント・ベイシー楽団の専属シンガーになってからのことである。ウィリアムスは1961年までベイシーと交流を保ったが、その後はかつてのバンマスと再び定期的に活動するようになった。ウィリアムスはサド・ジョーンズ=メル・ルイス・ジャズ・オーケストラ、ジョージ・シアリング、キャノンボール・アダレイらの作品にも参加。その力強くブルージーな歌声で貢献している。

 

第17位:マーク・マーフィー(1932-2015)

長いキャリアの中で、グラミー賞に6度に亘ってノミネートされた経歴を持つシラキュース生まれのマーク・マーフィー。彼は最高の男性ジャズ・シンガーのひとりであるだけでなく、俳優としても成果を残してきた。残念ながら、グラミー賞を受賞することはなかったが、ダウンビート誌はマーフィーを4回に亘って最高の男性ジャズ・シンガーに選定している。根っからのジャズ・ミュージシャンであるマーフィーの真骨頂はアドリブによるヴォーカル・パフォーマンスにある。まるでホーン奏者のような即興を披露するだけでなく、既成のインストゥルメンタル・ナンバーに歌詞を乗せて歌うヴォーカリーズと呼ばれるテクニックの達人でもあった。その分野で最もよく知られているのはオリヴァー・ネルソンの「Stolen Moments」、フレディ・ハバードの「Red Clay」における見事なパフォーマンスだろう。1956年から2013年のあいだにおよそ50作ものアルバムを残すなど、レコーディング・アーティストとしてきわめて多作だった。

 

第16位:アル・ヒブラー(1915-2001)

ビロードのように滑らかでソフトなバリトン・ヴォイスで知られるミシシッピ州タイロ出身で盲目のクルーナー、アル・ヒブラーは聖歌隊で歌っていた学生時代から、当時、”悪魔の音楽”と見做される向きもあったブルースに魅了されていた。20歳の年にはデューク・エリントン楽団のオーディションを受けるも敢えなく不合格。代わってサックス奏者のダブ・ジェンキンスの見習いにつき、その後はピアニストのジェイ・マクシャンの同じく見習いとして数年間を過ごし、1943年に受けた2度目のエリントン楽団のオーディションに合格。1950年代前半までジャズ界の貴公子として活躍した。ヒブラーは、同じころポップ・ソングの作曲にも成果を残し、ヒットをものにしていたが、わけても注目すべきは「Unchained Melody」で、同曲はアメリカのR&Bチャートで首位に輝いている。ヒブラーの歌唱は、カウント・ベイシー、ローランド・ハナ、ラサーン・ローランド・カークらのアルバムでも楽しむことができる。

 

第15位:ジョージ・ベンソン(1943-)

ペンシルベニア州はピッツバーグ出身のジョージ・ベンソンが”リトル・ジョージー・ベンソン”のステージ・ネームで最初のシングルを発表したのは1954年。当時まだ11歳という幼さだったベンソンは、ウクレレを弾きながら歌っていたが、既に天才の名をほしいままにしていた。そして、1960年代に至って、チャーリー・クリスチャンやウェス・モンゴメリーの影響下でその驚異的な才能を開花させたベンソンは、ソウル・ジャズ・ギタリストとして大輪の花を咲かせることになる。そんな彼が、歌に本気で取り組むようになったのは1970年代に至っててのこと。ヴォーカリストとしてワーナー・ブラザーズと契約を交わし、「This Masquerade」の大ヒットを放つことになる。ベンソンの強みは自身がギターで奏でるメロディを、同時にスキャットでなぞるテクニックを有していることだ。グレゴリー・ポーターがそうであったように、のちに彼もまた、史上最高の男性ジャズ・シンガーのひとり、ナット・キング・コールに向けたトリビュート・アルバムをレコーディングしている。

 

第14位:メル・トーメ(1925-1999)

有名歌手/女優のエセル・ウォーターズをして「黒人のソウルを持った唯一の白人歌手」と形容せしめたシカゴ生まれのジャズ・シンガー、メル・トーメは、まだ13歳だった1938年に自らのデビュー曲を作曲。さらにドラムから役者業までこなす天才少年だった。その3年後、ビッグ・バンドの巨匠、トミー・ジェームスによってレコーディングされた「Lament To Love」がトーメの最初のヒット曲になっている。1940年代半ば以降は、レコーディング・アーティストとして多くの作品をリリースする一方、映画やテレビ・ショーにも頻繁に出演。また、ビバップ・ジャズのアドリブ感とスウィング・ジャズの心地良さを併せ持った、そのよく響くメロウな歌声から、”ビロードの霧”のニックネームでも知られている。今ではすっかりクリスマスの定番になっている「The Christmas Song」の作曲者のひとりとして、彼の名前を記憶している向きも少なくないはずだ。なお、この「史上最高の男性ジャズ・シンガー・ベスト25」には、トーメのように、クリスマスの定番曲をレコーディングしたことで知られる歌い手が幾人か名を連ねている。

 

第13位:ビリー・エクスタイン(1914-1993)

ふくよかで低域の太いバリトンをヴィブラートを効かせて朗々と歌うウィリアム・クラレンス・エクスタイン(またの名をミスターB)はペンシルベニア州はピッツバーグの出身で、1939年にアール・ハインズのバンドに参加したことで歌手としての名声を博した。本来はスイングを基礎に置いたクルーナーだが、1940年代半ばに流行のビバップ・ジャズに傾き、自身のバンドでチャーリー・パーカー、ディジー・ガレスピー、デクスター・ゴードン、マイルス・デイヴィスといった気鋭のスターたちをフィーチャーした先鋭的な音楽を披露した。1950年から1986年に至る30余年のあいだにエクスタインはMGM、エマーシー、モータウン、スタックスなどさまざまなレーベルで42作のアルバムを制作。1951年には彼の代名詞ともいうべき「I Apologize」を筆頭に11曲のポップ・ヒットを米チャートに送り込んでいる。

 

第12位:オスカー・ブラウン・ジュニア(1926-2005)

オスカー・ブラウン・ジュニアはシカゴの著名な黒人弁護士の息子で、父親と同様、将来は法曹界に進むものと思われていた。しかしながら当の彼の思惑は違ったようで、広告業界や演劇の世界、さらには軍隊も経験。その後、ソングライティングの道に進むことを決意したという。そして1960年、ゴスペル・シンガーのマヘリア・ジャクソンがオスカー・ブラウン・ジュニア作のバラード「Brown Baby」をレコーディングしたことをきっかけ、彼はコロンビアと契約。34歳にして、レコーディング・アーティストとしてのキャリアをスタートさせている。彼の音楽は、ソウル、ジャズ、ブルースのブレンドしたもので、そのクールで洒落たスタイルと、社会問題や政治問題を題材にしつつ、ユーモアやウィット、アイロニーを忘れないその作風は、多くの聴き手の心を捕らえた。

 

第11位:カート・エリング(1967-)

“風の町”の異名を持つイリノイ州シカゴ出身のカート・エリングは、グラミー賞受賞経験もある並外れた歌い手であり、多くの批評家たちから現役で活動を続ける男性ジャズ・シンガーの最高峰と見做されている。チェット・ベイカーやマーク・マーフィーの影響を受けたエリングのフレージングとアドリブは、ホーン奏者のそれに匹敵するものだ。また彼はヴォーカリーズの名手としても知られており、その音楽は鋭い知性と豊かな情感を併せ持ったものだ。エリングは、既存の楽曲の解釈にも優れており、ジャズのスタンダード・ナンバーをまるで自分のために作られた作品のように聴かせることができるが、同時に有能で意欲的な作曲家でもある。その冒険心に満ちた作品からは、自身の音楽的な視野を広げたいという強い熱意が感じられる。ブルー・ノートに10年間在籍した彼は、その後にコンコードに移籍。現在はソニー傘下のオーケー・レコードと契約を交わしている。

 

第10位:ボビー・マクファーリン(1950-)

“ワンマン・ヴォーカル・オーケストラ”と呼ぶに相応しい歌手は、’ニューヨークはマンハッタン出身のボビー・マクファーリン以外には考えられない。彼は陽気で親しみやすいアカペラ・ナンバー「Don’t Worry Be Happy」をアメリカのポップ・チャートの首位に送り込み、さらにグラミー賞を3部門で受賞しているが、同時代のジャズ・シンガーにこうした偉業を成し遂げた者は彼以外には見当たらない。「Don’t Worry Be Happy」は楽曲に陽気な彩りを添えるために、ひとりで幾度となくヴォーカルのオーヴァーダビングを繰り返し、ようやく完成させた作品だった。1988年にリリースされたこの「Don’t Worry Be Happy」は、間違いなく、マクファーリンのキャリアにあって特別なレコードになったが、スタイルという彼の多彩なスタイルは、このヒット曲に集約し得るものではなかった。マクファーリンは驚くほど多様性に富んだヴォーカリストで、ジャズ、ブルース、カリビアン、さらにはクラシック音楽に至るまで、実にさまざまな分野に作品を残してきた。音楽的な幅という点ではこの「史上最高の男性ジャズ・シンガー・ベスト25」に名を連ねる歌い手の中でも群を抜いた存在と言っていいだろう。

 

第9位:ジミー・ラッシング(1901-1972)

オクラホマ・シティ出身のこの伝説的なブルースの王者は、そのラウドで力強い歌唱で広く知られるが、同時にざらついた感触のバリトンからシルクのようなテナーまで自在に披露する、その驚くほど幅広い声域で人気を博した。背丈と胴回りが同じサイズであることをほのめかす「ミスター・ファイヴ・バイ・ファイヴ」というニックネームで呼ばれていたことからも窺える通り、ラッシングは肥満気味で背丈の小さい男だったが、ブルースの影響を滲ませたジャズ・シンガーというカテゴリーにあっては他を圧倒する”巨人”で、1935年から1950年までのおよそ15年間はカウント・ベイシー楽団にも籍を置いている。ブルース・シャウターというイメージの強いラッシングは、しかし優雅なフレージングも得意としており、実のところ、アップテンポなスウィング・チューンより、むしろセンチメンタルなバラードにその魅力を発揮していたことは、残されたさまざまな作品が実証している。

 

第8位:チェット・ベイカー(1929-1988)

かのルイ・アームストロングがそうであったように、チェスニー・ヘンリー・ベイカーもまた、”歌えるトランペッター”だった。オクラホマの片田舎という出身地に似つかわしくない二枚目だったベイカーは、1950年代の西海岸のクール・ジャズ・シーンで、女神に愛されたアドニスの如き美少年として人気を博した。彼の初仕事はジェリー・マリガンのバンドにおける「My Funny Valentine」のレコーディングで、これは同曲の不朽のヴァージョンと見做されている。トランペッターとしての彼の特徴はわずかな音数で、叙情的かつエレガントなフレーズを紡ぎ出す点にあったが、ヴォーカリストとしては、よく響くソウルフルな歌声と、悲しみを誘う気だるくメランコリックな歌唱で知られた。残念なことにベイカーは、麻薬中毒によって失速し、58歳の年にアムステルダムで死去。2階の窓からの転落死だったとされている

★『GREATEST CHET BAKER』2019.8.14 Release

 

第7位:ジョン・ヘンドリクス(1921-2017)

「ジャズ界の詩人」「ジャズ界のジェームス・ジョイス」、評論家がそんな風に形容するようになったとき、オハイオ生まれのジョン・ヘンドリックスは、史上最高のジャズ・シンガーのひとりとして、その揺るぎない評価を確立している。ヘンドリクスは言葉を巧みに操り、機知に富んだ歌詞を既存のインストゥルメンタル・ナンバーにあてがう、その見事な歌唱力で高い評価を受け、こうした形容を与えられたのだった。彼がその知名度を高めたのは1950年代後半から1960年代初頭にかけてのことで、メロディックかつハーモニックなビバップ・ジャズで人気を得た革新的なヴォーカル・トリオ、ランバート、ヘンドリックス&ロスの一員として活動していたときだった。このトリオの諸作に加え、ヘンドリクスはソロ・シンガーとしてもレコードを制作。さらにセロニアス・モンクアート・ブレイキー、マンハッタン・トランスファーといったアーティスト/グループのアルバムにも客演している。

 

第6位:ジョニー・ハートマン(1923-1983)

優れたクルーナーであるにもかかわらず、今なお十分な評価を得ていないジャズ・シンガーのひとりが、ルイジアナ生まれ/シカゴ育ちのこのジョニー・ハートマンである。甘く包み込むような愛情のこもった歌声は、ロマンティックなバラードにとても良く似合っていた。彼の歌手としてのキャリアは1940年代に始まっている。きっかけは、とあるコンテストで、その優勝商品は、ピアニストであったアール・ハインズのバンドと1週間、活動をともにできるというものだった。これに優勝したハートマンは、請われるままに、ハインズのバンドに1年間留まり、その後、ディジー・ガレスピー、エロル・ガーナーらとの共演を経て、1956年にベツレヘムからデビュー・アルバムをリリースした。1963年には、サックス奏者のジョン・コルトレーンに招かれ、コルトレーンとレコーディングを行っており、その成果は『John Coltrane And Johnny Hartman』に纏められ、インパルスからリリースされている(コルトレーンは、1950年にアポロ・シアターでハートマン出会っていたという)。以降、ハートマンはソロ名義のアルバムを数点レコーディングしたが、次第に表舞台から遠のき、肺癌で50歳にしてこの世を去っている。

 

第5位:ジミー・スコット(1925-2014)

ヴィブラフォン奏者、ライオネル・ハンプトンのバンドに在籍していたころ、天使の声を思わせるそのカウンターテナーから、ハンプトンに”リトル”・ジミー・スコットのステージネームを与えられたジミー・スコットのしなやかにうねるフレージングの影響力は絶大で、ビリー・ホリデイレイ・チャールズ、フランキー・ヴァリ、ナンシー・ウィルソンら多くの歌い手が感銘を受けたという。この点だけをとっても、彼は、史上最高の男性ジャズ・シンガーのひとりに数えられるに十分な歌い手と言っていいだろう。あまり例のない、スコットのあの中性的な声は、稀な遺伝子疾患により、変声期を迎えなかったことによってもたらされたものだった。1940年代から1950年代にかけて人気を得たスコットは、1970年代には一線から遠ざかるもおよそ20年後に歳ブレイク。多くのアルバムをリリースし、多方面から称賛の声を集めた。

 

第4位:レイ・チャールズ(1930-2004)

ジョージア州オールバニ出身のレイ・チャールズ・ロビンソンは、7歳になるころには視力を失っていたが、やがて、同世代の中で最も成熟したミュージシャンのひとりとされるまでになった。ナット・”キング”・コール、チャールズ・ロビンソンといったヴォーカリストに魅了されたチャールズの歌唱は、当初、彼らの影響下にあったが、やがてヴォーカリストとして独自のスタイルを確立した。ゴスペル音楽の精神性とブルースの官能性を融合させたその独創的な歌唱は1950年代後半に一躍話題になり、アメリカで人気を集めた。一聴してそれとわかる、ゴスペルのような抑揚を持つ彼ならではの声には自由自在の表現力があり、シンプルなストーリーテリング型のカントリー・ミュージックだけでなく、ジャズのシンコペーションの効いた洗練されたスタイルとも相性は抜群だった。また、「The Genius」の異名でも親しまれたチャールズは、ソウル・ミュージックの誕生にも一役買っている。「史上最高の男性ジャズ・シンガー・ベスト25」に列記された歌い手の中でも特に多才なアーティストのひとりに数えられる。

 

第3位:ルイ・アームストロング(1901-1971)

砂利のようにざらついた声で吠えるように歌うルイ・”サッチモ”・アームストロングは、ジャズ初期の男性スター歌手の一人だった。1920年代のニューオリンズのジャズ・シーンで、トランペッターとして眩しいほどの名声を博したアームストロングだったが、サンドペーパーを蜂蜜に浸したかのような魅惑的な歌声は、南部出身者特有の魅力的なパーソナリティもとともに、その名声をいっそう高める役割を果たした。ビバップ革命によって1940年代半ばにジャズの潮流は大きく変わったが、ルイ・アームストロングは以降も数10年に亘って高い人気を維持。ジャズという音楽の定義付けや発展に際立った貢献を果たした”大使”として尊敬を集めた。

 

第2位:ナット・”キング”・コール(1919-1965)

ため息のようにソフトでサテンのように滑らかなナット・キング・コールの声には想像を超える美しさがあった。デリケートなほどの感受性を持ち、しかもしなやかで強靱な逞しさも兼ね備えている。それは、どんなに陳腐な歌詞であっても極上の”詩”に変えてしまうことのできる特別な声だった。先輩格のルイ・アームストロングや後進に当たるジョージ・ベンソンがそうであったように、コールもまた楽器奏者(彼はピアニストだった)としても優れた手腕を備えていた。コールにとって、当初、歌はミュージシャンとしての活動を補助するものでしかなかったが、やがてヴォーカリストとしての技量がピアニストとしてのそれを凌駕してしまったのだった。1940年代のコールは、自らのトリオを率い、キャッチーなR&Bナンバーを次々にヒットさせていたが、1950年代にはポップなジャズで聴き手を楽しませるクルーナーとして活躍。アメリカの白人層をも虜にした。

 

第1位:フランク・シナトラ(1915-1998)

この「史上最高の男性ジャズ・シンガー・ベスト25」のトップに立ったのは、親愛の情と敬意の双方を想起させるニックネームで知られるこのアーティストだ。ニュージャージー州ホーボーケン出身のイタリア系アメリカ人、フランク・シナトラは、スウィング・ジャズが隆盛を誇った1930年代から1940年初頭をハリー・ジェームス、トミー・ドーシーらのビッグ・バンドの一員として過ごしたあと、ソロ・シンガーに転じ熱狂的なファンに指示される人気ものとなった。1953年にキャピトル・レコードと契約すると、シナトラは流行の先端をいく洒落たスイング・シンガーに転向。ネルソン・リドルの優雅なストリング/ホーン・アレンジを伴ったその表現には繊細な大人の魅力が加わった。洗練されたポップなクルーナーと見做されていたシナトラだが、直感的なスイング・シンガーとしての資質に恵まれており、ホーン・プレイヤーのような簡潔なフレーズを巧みに操ることに長けていた。1998年に亡くなっているが、今なおシナトラこそが”大親分”であることに疑問の余地はない。

 

By Charles Waring


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