史上最高のチェスのロックン・ロール・レコード10選
1950年、レナードとフィルのチェス兄弟によってシカゴで設立されたレーベル「チェス・レコード」は、ブルースのレコードで名を挙げた後、R&Bやロックン・ロール作品をリリース。50年代から60年代にかけ、音楽界に幅広い影響を与えた。ミック・ジャガーが駅でキース・リチャーズという名の若者に声をかけられたのは、その腕にチェスのアルバムを2枚(マディ・ウォーターズとチャック・ベリー)抱えていたからだ。音楽の好みで意気投合した彼らが自分達のバンドに付けたのは、有名なマディ・ウォーターズの曲「Rollin’ Stone」に因んだ名であった。チェスが世に送り出した最高のロックン・ロール作品はザ・ローリング・ストーンズに多大な影響を与え、ザ・ローリング・ストーンズがチェスの虜になったことも手伝い、同レーベルは60年代、世界的に知られる存在となった。
チェス兄弟は優秀なビジネスマンで、彼らは優れた音楽を見出す方法を心得ていたと同時に、それが十分な露出を確実に受け、広く一般のリスナーの耳に届くよう取り計らった。チェスの取引先の大部分はジュークボックス市場が占めており、彼らはチャック・ベリーを始めとする初期のチェス所属ミュージシャン達の中から、シングル・ヒットを次々と飛ばすことが出来るであろう才能の持ち主を見出したのだった。
その不滅のレガシーを称え、チェス・ロックン・ロール究極のシングル10選を、ここでご紹介したい。
1. ジャッキー・ブレンストン&ヒズ・デルタ・キャッツ「Rocket 88」
50年代初頭のアメリカは、“ブギー”に熱狂していた。当時のアイク・ターナーはミシシッピ出身の若者で、タレントを発掘するスカウトとして活動。 1951年彼がプロデュースしたのが、自身のバンドによる「Rocket 88」である。ここではサックス奏者ジャッキー・ブレンストンがリード・ヴォーカルを務め、アイク・ターナーがピアノを担当。2人は同曲の共作者でもあった。この曲は革命的だったというわけではなく、地元のブギー・バンドから影響を受けていたが、長いサックス・ソロはルイ・ジョーダンのそれよりも荒々しく、ジャッキー・ブレンストンは唸るように叫ぶヴォーカルを聴かせている。
「Rocket 88」は、史上初のロックン・ロール・シングルであると一般的に言われており、歌詞では、チャック・ベリー得意のセックス/車の暗喩を先取り。歴史上、画期的な本曲は、チェス・ロックン・ロール究極の1枚として、永遠にその名を刻んでいる。
当時、レコードの宣伝は大変な苦労を伴っていた。チェス兄弟は、手の届く範囲にいるあらゆる配給業者やDJに直接会ってレコードを渡して回り、レコードをかけてもらえるよう説得。それは正に、彼らが「Rocket 88」で行っていたことである。ラジオ局はこの曲を大いに気に入り、かくてチェス・レコードはヒットを手にしたのであった。
2. チャック・ベリー「Roll Over Beethoven」
「ベートーベンをぶっとばせ、そしてチャイコフスキーに教えてやろう」ロックン・ロールの真の王者は、エルヴィス・プレスリーではなくチャック・ベリーだと思っていると、フィル・チェスは言っていた。その理由を証明しているのが、チェス・レコードからリリースされたチャック・ベリーの作品群だ。チェスからのチャック・ベリー初のベスト・アルバム『Twist』には、激しいギター・ワークから、彼の歌、ソングライターとしての驚くべき力量、そして堂々とした風格に至るまで、彼のあらゆる魅力が詰まっている。
この曲「Roll Over Beethoven」は、チャック・ベリーが50年代にチェスからリリースした作品を代表する好例だが、今回の“チェス・ロックン・ロール究極のシングル”のリスト10曲全てを、彼の「Johnny B Goode」や「Maybellene」「Promised Land」「Sweet Sixteen」「School Days」そして「No Particular Place To Go」といった名曲群で埋め尽くすことも容易に出来た。ジョン・レノンが「ロックン・ロールに別の名前を付けるなら、チャック・ベリーと呼べばいい」と発言したのは有名だが、それも当然である。
3. エタ・ジェイムス「I Just Want To Make Love To You」
エタ・ジェイムスはキース・リチャーズのお気に入りシンガーの1人で、ザ・ローリング・ストーンズの伝説的ギタリストは、数多くのファン同様、彼女がカヴァーした「I Just Want To Make Love To You」を賞賛していた。同曲はマディ・ウォーターズによって有名になった、ウィリー・ディクソン作の名曲だ。
エタ・ジェイムスはそれまで「Back In The USA」を含むチャック・ベリーの幾つかのレコードでバッキング・ヴォーカルを務めており、レナード・チェスから高い評価を得ていた。チェスの共同所有者である彼は、この「I Just Want To Make Love To You」が収録されている、マッスル・ショールズで録音された傑作アルバム『Tell Mama』の立案者の1人だ。
4. デイル・ホーキンス「Susie Q」
チェスは、1952年に発足した傘下レーベル「チェッカー・レコード」を通じて、ドゥーワップやゴスペル、そしてソウル作品と共に、ボ・ディドリーとデイル・ホーキンスのレコードをリリース。デイル・ホーキンスの回想によれば、チェス兄弟は当時、プロモーションでラジオ局回りをしていた際、自分達のレーベルの曲をかけてくれた謝礼として、ワニ皮の靴を無料で配っていたという。そのようにして彼らが宣伝していた曲が、この「Susie Q」だ。これは1957年発表のロカビリー・スタイルの名曲で、エルヴィス・プレスリーのギタリスト、ジェームス・バートンの特徴的なリフに彩られている。これが録音されたのは、ルイジアナ州シュリーブポートのラジオ局KWKHで、デイル・ホーキンスが21歳だった時のこと。チェス・ロックン・ロールの究極の1枚としてのこの曲の地位は揺るぎなく、議論の余地など全くない。「Susie Q」のカヴァーの中でも特に注目すべきは、ザ・ローリング・ストーンズとクリーデンス・クリアウォーター・リヴァイヴァルによるヴァージョンだ。
5. ザ・ムーングロウズ「Ten Commandments Of Love」
ザ・ムーングロウズは2000年、遂にロックの殿堂入りを果たした。ボビー・レスターがリードを務めていた時代、バンドはドゥーワップ音楽に全力を注ぎ、1954年の全米R&Bチャートで「Sincerely」が1位を記録。後にボビー・レスターの脱退を受け、ハーヴィー・フークァがより大きな発言権を持つようになると、ハーヴィー・フークァ&ザ・ムーングロウズ名義となったバンドは「Ten Commandments Of Love」でヒットを飛ばした(その後、ハーヴィー・フークァはモータウン界で重要な役割を担うようになる)。
6. ザ・フラミンゴス「(Chick-A-Boom) That’s My Baby」
チェス兄弟は、ザ・フラミンゴスのドゥーワップ・ロックが大のお気に入りで、同バンドはレナードの息子マーシャルのバル・ミツバー(※ユダヤ人の男子が13歳になる時に行う成人式)で演奏を披露。チェス傘下のチェッカーと契約を結んだ。こういった系列レーベルが設立されたのは、当時一部のラジオ局で、1つのレーベルから出ているレコードのエアプレイ回数に制限が設けられていたからである。初のレコーディング・セッションで彼らが録音したのが、「When」と「Need Your Love」そして陽気な「(Chick-A-Boom) That’s My Baby」であった。
7. ボビー・チャールズ「Later Alligator」
ルイジアナ出身のシンガーソングライター、ボビー・チャールズ(本名ロバート・ギドリー)は、自身の書いた曲を通じ、ロックン・ロールで重要な役割を果たした。彼がチェス屈指のロックン・ロール・レコードを手掛けたのは、まだ十代の若者だった時のこと。ファッツ・ドミノのヒット曲「Walking To New Orleans」や、フロッグマンことクラレンス・ヘンリーの「(I Don’t Know Why I Love You) But I Do」を書き、ビル・ヘイリーのスマッシュ・ヒット「See You Later, Alligator」で筆を執ったのも、この男である。
ある晩、カフェを出た時、彼は友人に「シー・ユー・レイター、アリゲイター(“それじゃ、またな”)」(※“レイター”と“アリゲイター=ワニ”で押韻)と叫んで別れを告げた。すると、彼の背後でドアが閉じた時、見知らぬ酔っ払いが「アフター・ア・ホワイル、クロコダイル(“じゃあ、また”)」(※“ホワイル”と“クロコダイル=ワニ”で押韻)と返答。その対句に触発され、彼はこの有名な曲を書き上げたのである。地元DJの強い勧めに従って、電話越しにレナード・チェスにこの曲を歌って聴かせたところ、チェス兄弟は彼と契約することに決め、これを録音。1956年に「Later Alligator」としてリリースされると、人々は彼が黒人だと思い込んだのだった。
8. トミー・タッカー「Hi-Heel Sneakers」
50年代に(本名のロバート・ヒギンボーサム名義で)アマチュア・ボクサーとして活躍していた頃のことを、トミー・タッカーはキャッチーな1963年のシングル「Hi-Heel Sneakers」で引き合いに出している。この曲はチェッカー・レコードからリリースされ、チャート首位(※キャッシュボックスR&Bチャート)を獲得。後にエルヴィス・プレスリーがこれをカヴァーした。不幸にも、トミー・タッカーは48歳で死去。ニューヨークで自宅の改装中、有毒なガスを吸い込んだのが死因であった。
9. リトル・ミルトン「We’re Gonna Make It」
卓越したシンガーであるリトル・ミルトンは、「We’re Gonna Make It」で最大の商業的成功を収めた。ミルトンは1961年にチェスと契約。最初のシングル「Blind Man」の成功により、ボ・ディドリー様式のブルース・ロック・クロスオーヴァーは必ず成功を収めるはずだと、フィルとレナード・チェスは確信した。彼らは、ジャッキー・ウィルソンの「Higher And Higher」を手掛けていたカール・スミスとレイナード・マイナーに、リトル・ミルトンの曲を書くよう依頼。大胆なホーンを背景にゴスペル調の詠唱を乗せた「We’re Gonna Make It」は、1965年に大ヒットとなった。
10. デイヴ・“ベイビー”・コルテス「Rinky Dink」
2017年に79歳となったデイヴ・コルテス。だが“ベイビー”というニックネームで知られるこのミュージシャンは、1962年、チェス・レコードからリリースしたオルガン・インスト曲「Rinky Dink」がポップ・チャートでトップ10入りを果たした際には、わずか24歳であった。これはチェスにとって斬新なヒットとなっただけでなく、60年代に英民放ITVで放映されていたケント・ウォルトン司会の番組『プロフェッショナル・レスリング』のテーマ曲として使用されたことから、英国のプロレスの間で人気を博してもいる。
Written By Martin Chilton
チェス・ロックン・ロールの名曲について——そして同レーベルの魅力の全てについて——詳しくは、プレイリスト『チェス・レコード・エッセンシャル(Chess Records Essential)』をチェック。