1960年代のベスト・ソング100:音楽の未来を変えた10年間に生まれた名曲とその解説
1960年代に残された数多い名曲をランキングにまとめるというのは、実際には不可能だ。だから初めに言っておくが、我々はここで1960年代の楽曲ベスト100の決定版を完成させようとしているわけではない。その代わりにこのリストが、音楽の未来を変えてしまったこの10年間を知る手引きとなり、また今後の発見の道標となることを願っている。
さらに、大切なことを2点説明しておく。まず楽曲の選定にあたっては、なるべくリリース当時にある程度の反響を呼んだもの (あるいは後進に大きな影響を与えたもの) であることを条件にした。そのため、本リストに見られるジャズ・ナンバーのほとんどはビルボード・チャートでヒットを記録している。そしてふたつめに、出来るだけ多くのミュージシャンを称えるため、1アーティストにつき1曲とした。
では、前置きはこれくらいにして、是非、以下のリストを楽しんでいただきたい。
*この特集に登場する楽曲を集めたプレイリストを公開中(Apple Music / Spotify / YouTube)
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100位 : ロジャー・ミラー「King Of The Road」(1965年)
ロジャー・ミラーの「King Of The Road」は、旅をする男をテーマにした1曲だ。カントリーとポップの特徴を併せ持つ楽しげな曲調で、あらゆる責任と物質主義的な価値観から解き放たれた流浪の労働者の物語が語られている。
「俺は裕福な男では決してない、路上の王様さ (I’m a man of means, by no means, king of the road.) 」という最も有名な一節には痛烈な皮肉がこもっており、社会規範に従うことを拒否して手に入れた自由の喜びが表現されている。
また、耳触りの良いメロディとシンプルな楽器編成は、カントリー界のスターにもロック・バンドにもカヴァーしやすいものだった。実際、グレン・キャンベルやレヴァレンド・ホートン・ヒートといったさまざまなアーティストが同曲のカヴァーを発表。無駄を削ぎ落としたスタイルゆえに、多様なアレンジを施こす余地がある楽曲だ。だがミラーの魅力的で美しい歌声を中心に据えた本オリジナル・ヴァージョンこそが、今でも「King Of The Road」の決定版なのである。
99位 : ジョージィ・フェイム&ザ・ブルー・フレイムズ「Yeh, Yeh」(1964年)
ジョージィ・フェイムと彼のバンド、ザ・ブルー・フレイムズはポップ、ジャズとR&Bを完璧に融合させた。当時のオーディエンスもきっと同じ意見だろう。というのも、彼らの「Yeh, Yeh」はザ・ビートルズの「I Feel Fine」を抜いてUKのシングル・チャートで1位を獲得し、リヴァプール出身の人気者たちによる5週連続1位の記録に終止符を打ったのだ。
それからすぐにビルボード・ポップ・チャートでも21位を記録し、UKでのブレイクがまぐれ当たりしただけではなかったことが証明された。フェイムとグループの真価が発揮されたのはフェイムがピアノをハモンド・オルガンに持ち替えてからだったが、フェイムはブッカー・T&ザ・MG’sの「Green Onions」を聴いてその決断を下したのだという。
98位 : ジャッキー・ウィルソン「(Your Love Keeps Lifting Me) Higher and Higher」(1967年)
ジャッキー・ウィルソンの「(Your Love Keeps Lifting Me) Higher and Higher」におけるミュージシャンたちのパフォーマンスは、この上なく鮮明だ。ベースはまるで真空状態でレコーディングされたかのようなサウンドを響かせ、印象に残るグルーヴィーなコンガにも雑音や音割れはない。だからウィルソンは前に出て歌うだけでよかったし、実際彼はそうして輝かしいパフォーマンスをみせた。
この1967年のヒット曲を作曲したのはゲイリー・ジャクソン、レイナード・マイナー、カール・スミスの3人。もともとはザ・デルズに提供される予定だったが、リリースには至らなかった。それからウィルソンの手に渡ったものの、彼は当初この曲をバラードとして歌っていた。だがその時点では世に出せる仕上がりにならず、試行錯誤の末、現在聴けるアップテンポでソウルフルなアレンジに変更したのだった。
そうしてようやく陽の目を見た「(Your Love Keeps Lifting Me) Higher and Higher」は、1960年代を代表する名曲となったのだった。
97位 : ロイ・オービソン「Crying」(1961年)
「Oh, Pretty Woman」をはじめとしてロイ・オービソンには1960年代に数多くのヒット曲を残しているが、ここでは「Crying」を選ばせてもらった。この曲を聴いたことがなくても、冒頭の印象的な一節「しばらくの間は大丈夫だった、しばらくの間は笑っていられた (I was alright for a while, I could smile for a while)」には聞き馴染みがあるだろう。
オービソンが悲しみに暮れていた時期の楽曲で、当時のパートナーにも隠していた傷心や後悔といった気持ちが明かされている。演奏面では王道のロック・バラードにオーケストラのストリングスがうまく調和しており、ティンパニは交響曲のパーカッションにも西部劇のサントラにも使えそうなほど力強い。
そんな「Crying」は1961年に一世を風靡し、ヒット・チャートのトップを総なめにする勢いだったが、ビルボード誌のチャートではレイ・チャールズの「Hit The Road Jack (旅立てジャック)」に阻まれて1位を逃した。だがオービソンはチャールズらとともに、ロックンロールとR&Bの現在の形を作りあげた。高揚感のあるメロディと壮大な楽曲構成、共感しやすい歌詞といった要素を組み合わせ、未来のスターたちがメインストリームにのし上がる礎を築いたのである。
96位 : ラッセル・モリス「The Real Thing」(1969年)
ジョニー・ヤングが作曲し、イアン・”モリー”・メルドラムがプロデュースした「The Real Thing」は、当初はザ・ビートルズの「Strawberry Fields Forever」のような、ソフト・ロック調のバラードに仕上がる予定だった。しかしながらそのデモはスケールの大きなメルドラムの構想に乗っ取られ、スタジオの技術をいち早く駆使した新時代の傑作が生み出されたのだ。
レコーディング・エンジニアのジョン・セイヤーズと共に、メルドラムはここには書ききれないほど多くのレコーディング技術を発明したが、特に重要なのはフランジャーと、各楽器のトラックを意図的に省くテクニックだろう。前者は2つの同じ音源をお互いに僅かにずらして一緒に再生するというものだった。そして後者は1970年代のジャマイカのダブ・ミュージシャンに好んで使用された技術だ。
最後にヒトラー・ユーゲント合唱団のアーカイヴ録音がサンプリングされた「The Real Thing」は、奇妙さと先進性で1960年代を代表する楽曲になった。今聴いてもその仕上がりには驚かされる。
95位 : レナード・コーエン「Suzanne」(1967年)
レナード・コーエンは、詩作をフォーク・ミュージックにそのまま取り入れた。アルバム『Songs Of Leonard Cohen (レナード・コーエンの唄)』に収録された感動的なアコースティック曲「Suzanne」は、そんな彼のスタイルを示す好例だ。その歌詞は、もともと1966年のコーエンの詩集の中の作品だった (アルバムのリリースが迫り、ネタが尽きつつあった彼はその詩を再利用したのだ)。
楽曲からはボブ・ディランやスティーヴン・スティルスといったアメリカのフォークのスターたちのような親しみやすさが感じられる。しかし同時に、カナダ人らしい鼻にかかった声と、繊細な指弾きのギターがそこにコーエンらしさを加えている。「Suzanne」の題材になったのは、コーエン自身とダンサーのスザンヌ・ヴァーダルのプラトニックな恋愛関係だ。プレイボーイとして知られる彼がそのキャリアの中で歌った、数少ない純潔な恋愛のひとつだ。
94位 : ルイ・アームストロング「What A Wonderful World (この素晴らしき世界)」(1968年)
「What A Wonderful World」は忍耐についての教訓を含んだ史上最高峰のポップ・バラードである。アームストロングが初めてのレコーディングを経験したのは1923年のことだった。そして、凄まじい影響力を誇る彼のキャリアの中で一番の売上を記録した「What A Wonderful World」をリリースしたのは1968年2月、66歳のときだった。
アームストロングはディキシーランド・スタイルのジャズから大衆的なポップスまで幅広く作曲したが、中でもめずらしい内面的な楽曲が最大のヒットとなった。「What A Wonderful World」は、ますますバラバラになっていく世界の中でも楽観的に生きることを望む、内省的だが希望に溢れた楽曲だ。心臓病を患っていたアームストロングが、「人生に素朴な喜びを見つけ、最後にもう一度それらを一緒に称えよう」と聴衆に訴えかけた名品である。
93位 : トム・ジョーンズ「It’s Not Unusual (よくあることさ)」(1965年)
今では信じられないことだがリリース当時の1960年代、この曲は性的過ぎるとしてBBCでの放送に乗らなかった。そのため、海賊放送局であるラジオ・キャロラインの力がなければ「It’s Not Unusual」はヒットしていなかったかもしれない。
トム・ジョーンズによるデッカ・レコードからの2枚目のシングルであり、失恋の物語を明るく歌ったこの曲で、ジョーンズは初めてチャートの1位を獲得した。甲高い鳴き声のようなギター・ソロを弾いているのはジミー・ペイジだという噂もあるが、現在でも明らかにされているのはキーボード奏者の名前だけだ。その男はレジナルド・ドワイトという無名の売れないミュージシャンだったが、後にエルトン・ジョンという名前で自らの楽曲をヒット・チャートの1位に何度も送り込むことになる。
92位 : ザ・モンキーズ「Daydream Believer」(1967年)
ジョン・スチュワートがキングストン・トリオを脱退する直前に作曲した「Daydream Believer」は、郊外の生活における倦怠と退屈を表現した3部作の最後の楽曲だ。活気がなく救いの手を求めていた郊外の生活に命を吹き込んだ彼は、ある意味で先駆者といえる。少なくとも、ヘリコプターで都市部に帰ることが出来るほどの成功は収めたといえよう。
同曲は当初ウィ・ファイヴかスパンキー&アワ・ギャングに提供される予定だったものの却下され、ジョン・スチュワートとパーティでたまたま出会ったプロデューサー、チップ・ダグラス経由で最終的にモンキーズの手に渡った。そして、もともとは1967年のアルバム『Pisces, Aquarius, Capricorn & Jones Ltd』向けにレコーディングされたが、結果的には1968年作『The Birds, The Bees & The Monkees (小鳥と蜂とモンキーズ)』に収録される運びとなった。
複雑な感情がこもったようなデイヴィ・ジョーンズの歌唱が特徴的だが、彼はレコーディングの過程に飽き飽きしていたためこのような歌い方になったのだという。ポップ・ミュージックの歴史に残る嬉しいアクシデントのひとつだ。
91位 : デル・シャノン「Runaway (悲しき街角)」(1961年)
「Runaway」は場合によっては世に出ることなく埋もれていたかもしれない1曲だった。1960年、チャールズ・ウェストオーヴァーとキーボード・プレイヤーのマックス・クルークはレコーディング契約を獲得したが、ほどなくして無残にも打ち切られてしまう。大都会に夢破れた田舎者のよくある物語のようだが、クルークとウェストオーヴァー (そのころ、デル・シャノンというステージ・ネームを名乗り始めていた) はビッグ・トップ・レコードの重役たちを感心させられなかったのだ。
その後、マネージャーの説得により、彼らは自分たちの初期の楽曲「Little Runaway」を作り直し、再度レコーディングする。それ以降は誰もが知る通りだ。タイトルは「Runaway」に生まれ変わり、シャノンの印象的な「ワー・ワー・ワー」というヴォーカルは多くの家庭で聞き飽きるほど真似され、親しまれるようになった。
90位 : ペギー・リー「Is That All There Is?」(1969年)
語るような歌い方 (スポークン・ワード) と、ミュージカル・ソングに影響を受けた艶やかなメロディが組み合わさった「Is That All There Is?」。映画『ビッグ・リボウスキ』と並んで、ニヒリズムが見事に表現された逸品だ。トーマス・マンが1896年に書いた小説「幻滅」から影響を受けており、「火事って、これだけのことに過ぎないの? (Is that all there is to a fire?) 」という一節からもそのあたりが窺える。
またクルト・ヴァイルの舞台作品からもヒントを得ており、演劇のような遊び心のあるパフォーマンスと、1960年代後期に流行し始めたポップ音楽の華やかさが融合している。楽曲のオーケストラ・アレンジを手掛けたのはランディ・ニューマン (指揮もニューマン自身が担当している) で、イントロ部分のピアノも彼が演奏している。曲中では、目の前のものを恐れないペギー・リーが死を正面から見つめるが、その永遠の謎のために全ての楽しみやパーティを手放すつもりはないという思いも表されている。
89位 : シルヴァー・アップルズ「Oscillations」(1968年)
現代のエレクトロ・ロックやエクスペリメンタル・ロックの作品の多くは、そのルーツを辿っていくとシルヴァー・アップルズと、そのバンド名を冠した1968年のデビュー・アルバムに行き着く。それほど音楽シーンにおける同バンドの重要性は大きかった。
彼らの反復的な演奏は力強くも催眠的で、5年ほど後に生まれるクラウトロックの特徴となった。また、パターン化されたグルーヴは後に大流行するダンス・ミュージックを先取りしてもいた。「Oscillations」でシメオンのオシレーターが重要な役割を果たしているのは言うまでもないが、ヴォーカルのダン・テイラーの震えるように線の細い歌声も、デヴィッド・バーンを筆頭に後のヴォーカリストたちから支持された。シルヴァー・アップルズの音楽自体はそれほど有名ではないものの、その影響は大きく、今でも広がり続けている。
88位 : ライチャス・ブラザーズ「Unchained Melody」(1965年)
アレックス・ノースが作曲、ハイ・ザレットが作詞した「Unchained Melody」は1955年に初めて陽の目を見た楽曲だ。当初は刑務所を舞台とした比較的無名の映画『アンチェインド』のために書き下ろされたが、1960年代になってライチャス・ブラザーズがアルバム『Just Once In My Life』の収録曲として、名の知られていない同曲を発掘したのだった。
楽曲はふたつのパートから成り、前半は一艘のボートが池の上を滑るようにおだやかに進行していく。だが曲の半分を過ぎると、雲が立ち込め雷が轟くようにクラッシュ・シンバルが鳴り響いてドラムが加わる。すると曲が盛り上がりを見せ、シンガーのボビー・ハットフィールドの歌にも力がこもり始める。
同曲はもともとシングル「Hung On You」 (プロデュースはフィル・スペクター)のB面で、個別にシングル・カットされる予定はなかった。「Unchained Melody」のプロデュースはハットフィールドの相方であるビル・メドレーが務めたが、「Hung On You」よりも人気を博したために、スペクターは両方の楽曲を自らのクレジットにしてしまった。後にそれは修正され、メドレーは正当な評価を受けるようになった。
87位 : BBCレディオフォニック・ワークショップ「Doctor Who」(1963年)
BBCレディオフォニック・ワークショップは、テレビやラジオの効果音を作る目的で1958年に創設されたが、間もなくしてイギリスで最先端の電子音楽の研究所となった。1963年の初回放送時から使用されている『ドクター・フー』のテーマは、作品を引き立てる役割を果たしつつそれ以上の価値も持つ類稀なサウンドトラックだ。すなわち同ドラマ・シリーズと密接に結びついてはいるが、誰もが知るそのメロディによってポップ・カルチャーに独自の地位を確立した楽曲なのだ。
同テーマの原型はオーストラリアの作曲家、ロン・グレイナーによって書かれ、レディオフォニック・ワークショップに引き継がれるとデリア・ダービーシャーの手で再構築された。彼女はサウンド・エンジニアのディック・ミルズとも協力し、現在の最終版を完成させている。
同曲はホワイト・ノイズや一本の弦を弾いた音、校正装置や試験室で使われるテストトーン・オシレーターの調波をもとに、速度を変えたり繋ぎ合わせたりして制作された。同テーマ曲によってデリア・ダービーシャーとBBCレディオフォニック・ワークショップはテレビの歴史を変えだけでなく、1970年代や1980年代に制作されるようになる実験的な電子音楽の基礎を築いたのだ。
86位 : スライ&ザ・ファミリー・ストーン「Everyday People」(1968年)
「Everyday People」は、平和を願う内容でサウンドはとてつもなくキャッチーという、まさにスライ・ストーンらしい楽曲だ。彼は1960年代の時代性を曲で表現することに誰よりも長けていた。フリー・ラヴ運動の流れを汲み、当時の流行に合った開放的でグルーヴィーなサウンドを作り上げたのだ。
また、ザ・ファミリー・ストーンは人種や性別の壁を越えたユニークなグループで、レッグ・エリコやジェリー・マルティーニのような白人ミュージシャンや、ローズ・ストーン (スライの妹) やシンシア・ロビンソンなどの女性たちもメンバーとして参加している。
サウンド面では、「Everyday People」は同バンドが基調としていたサイケデリック・ファンクよりも遥かにポップ・ミュージックに寄っているめずらしい1曲。当然のように大ヒットとなり、スライがどんなスタイルでも画期的な楽曲を生み出せすことができることを世に示した。
85位 : ビー・ジーズ「To Love Somebody」(1967年)
ビー・ジーズの「To Love Somebody」が流れ始めてからリスナーがそれと認識するまでにはどのくらいの時間がかかるだろう。クリーン・ギターのコードがゆっくりと静寂を包み込む最初の一瞬だろうか。あるいはその後に、暖かくうねるストリングスが聴こえる瞬間だろうか。それほど聴き込んでいないファンでも、まるで水浸しのティンパニーのようなドラムの丸くこもった音を聴けばこの曲だと分かるかもしれない。
とにかく、「To Love Somebody」の印象的なイントロは楽曲そのものと同様に時を経ても色あせない。また同曲を聴けば、恋愛や失恋、その他全てを追体験することが出来る。歌では表現出来ない固有の経験だと思われていたことが、ここで表現されているのだ。「To Love Somebody」が1960年代でも類を見ないほど感動的なのは、まさしく誰もが共有する経験を歌っているからだ。
84位 : ダスティ・スプリングフィールド「Son Of A Preacher Man」(1968年)
この曲に関して、ダスティ・スプリングフィールドはたまたま丁度いいタイミングで丁度いい場所に居合わせていた。UK生まれでブルー・アイド・ソウルの代表格である彼女は1968年、メンフィスでジェリー・ウェクスラーと共にアトランティック・レコード移籍後初のアルバムをレコーディングしていた。
ちょうどそのころ、ジョン・ハーレーとロニー・ウィルキンスは、「Son Of A Preacher Man」をアレサ・フランクリンのために書き上げたところだった。それを気に入ったウェクスラーが同曲をスプリングフィールドに歌わせたというわけだ。
結果的に記録的なヒットとなった同曲は、1994年のクエンティン・タランティーノ監督作『パルプ・フィクション』にも使用されるなど、時折ポップ・カルチャーに登場してはその度に話題となっている。ダスティ演じるキャラクターと不品行な青年の情熱的な恋愛を歌った「Son Of A Preacher Man」は、1960年代の文化をいまに伝える代表的な1曲として親しまれて続けている。
83位 : ベンベヤ・ジャズ・ナシォナル「Armée Guinéenne」(1969年)
“ダイアモンド・フィンガー”というニックネームは、ただギターが上手いだけでは付けられないだろう。ベンベヤ・ジャズ・ナシォナルのギタリスト、セク・ディアバテはまるでギターと一心同体かのような演奏でその異名を得た。
珠玉の1曲「Armée Guinéenne」を聴くと、鳥肌が立つようなディアバテのギター・リフは、何か人知を超えた力のなせる技としか説明のしようがない。彼がどうやってあれほどの音数を弾いているのか頭を悩ませる間も与えられず、演奏はどんどん進んでいくのだ。
だが同曲の凄さは卓越したギター・プレイだけにあるのではない。楽曲に政治的なメッセージが込められたこともあって1969年にアフロビート界で大反響を呼んだ同曲は、ギニア文化そのものの転換点にもなった。ギニアの独立から間もないころに結成された彼らの楽曲は、苦労して手に入れた自由の喜びに沸いている。
82位 : エルヴィス・プレスリー「Suspicious Minds」(1969年)
もし自分でレコーディングした楽曲が失敗に終わったらどうしたらいいか? 簡単なことだ。世界的なビッグ・スターに録り直してもらえばいい。1968年、ソングライターのマーク・ジェイムスは「Suspicious Minds」を作曲し、大胆にも自分でレコーディングをしたが結果は散々なものだった。だがその後、エルヴィスがプロデューサーのチップス・モーマンと共に同曲をレコーディングすると、すぐにチャートで1位を獲得したのだ。
確かに「Suspicious Minds」はエルヴィスにとっても最大級のヒット作となったが、キング・オブ・ロックンロールが歌えばどんな曲でも全米チャートを駆け上がっていただろう。また同曲のレコーディングは午前4時から7時の間に行われたとされており、そのせいかエルヴィスの歌声からは緊迫した必死さが感じられる。ちなみに、ここでエルヴィスと一緒に歌っているドナ・ジーン・ゴドショウは、後にグレイトフル・デッドにヴォーカルとして参加している。
81位 : ムラトゥ・アスタトゥケ「Yègellé Tezeta」(1969年)
ムラトゥ・アスタトゥケが、ジャズと伝統的なエチオピア音楽、そしてラテンのリズムを融合させたエチオ・ジャズの第一人者であることに議論の余地はない。エチオピアでジャズが黄金期を迎えた1960年代から1970年代にシーンを牽引したのもアスタトゥケだった。
同国の首都、アディスアベバは当時”スウィンギング・アディス”と呼ばれ、どこよりも最先端の音楽的が生まれる都市だった。だから彼がアメリカを訪れた際にジョン・コルトレーンをはじめさまざまなジャズの巨匠たちとコラボレーションしたのも不思議ではない。
「Yègellé Tezeta」は当時を代表する楽曲のひとつで、癖になるホーンのフレーズを中心に据えながら、忍び足でうねうねと歩くようなグルーヴ感が特徴的だ。エチオ・ジャズが誕生して以来、エチオピアのサウンドを記録してきた『Ethiopiques』シリーズにも同曲が収録されている。
80位 : フランソワーズ・アルディ「Tous Les Garcons Et Les Filles (男の子と女の子)」(1962年)
フランソワーズ・アルディの「Tous Les Garcons Et Les Filles」には驚くような逸話がある。原題を直訳すると「全ての男の子と女の子たちへ」という意味のこの曲は、1962年にリリースされると瞬く間に大ヒットした。
最初に同曲が世間の耳に触れたのは、フランスの直接選挙に関する1962年の国民投票で結果待ちの繋ぎとして使用されたときだった。それが流れる度に、フランス中の人々はアルディの魅力的な歌声の虜になったのだ。
また、ロカビリー、ジャズ、フォーク、ポップが融合した画期的なイエイエ (フレンチ・ポップ) のスタイルも人々の心を掴んで離さなかった。それから、ギターの音色に耳を奪われはしなかっただろうか。そうだとしたら、それはレコーディング・セッションにほかでもない伝説のギタリスト、ジミー・ペイジが参加していたからかもしれない。
79位 : ソニー&シェール「I Got You Babe」(1965年)
ソングライターのソニー・ボノは、ある夜更けに地下室で「I Got You Babe」の歌詞を書き上げた。妻のシェールを起こし彼女のパートを歌わせようとしたところ、彼女は「この曲は嫌い、ヒットするとは思えない」と言って拒否し、ベッドに戻って寝てしまった。だが翌朝目覚めると、彼女の気持ちは変わっていた。
同曲は1960年代でも指折りの魅力的なデュエット曲だったが、当時のフリー・ラヴ運動にもぴったりの楽曲だった。耳に残るキャッチーなメロディで真実の愛の心地よさが歌われており、カウンターカルチャーであるヒッピー・ムーヴメントの延長線上といえる内容だ。レコーディングには、伝説的なドラマー、ハル・ブレインと世界的に名高いレッキング・クルーのメンバーたちが参加。ソニーとシェールの結婚生活は続かなかったが、「I Got You Babe」は不滅である。
78位 : テリー・ライリー「In C」(1968年)
テリー・ライリーの「In C」は53個の短いフレーズから構成されている。フレーズはそれぞれ長さが違い、ひとつひとつに番号が振られている。アンサンブルの奏者たちは、それぞれのフレーズを好きな回数繰り返してよいし、どれを演奏するかも自分で決めてよい。ただ各フレーズを始めるタイミングはズラすように指示されている。
こう聞くと理屈の上では大混乱を招きそうだが、うまくいけば際限なく広がるひとつの名曲になる。では、なぜこの曲が1960年代のベスト・ソングのリストに入っているのか?
ライリーは、ジョン・コルトレーンやマイルス・デイヴィスが大胆に打ち出した革新的なジャズに影響を受けていた。そんな彼が1960年代後半に制作した音楽は、今度はザ・フーのピート・タウンゼントに大きなインスピレーションを与えることになる。この系譜は、ライリーの実験的なアイディアを世間に広く知らしめるとともに、ロックンロールの限界を果てしないものにしたのだ。
77位 : ヴィンス・ガラルディ・トリオ「Linus & Lucy」(1964年)
1960年代は次第にはるか昔のことになっていくが、チャールズ・シュルツの有名コミックに関連する楽曲の数々は、単なるサウンドトラック以上の評価を受けるようになっている。『ピーナッツ』の音楽を作曲し、レコーディングしたのは、ベイ・エリアで活動していたジャズ・ピアニストのヴィンス・ガラルディとそのバンドだ。
朝鮮戦争中に軍隊のコックとして働いた後、ベイ・エリアに戻ってきたガラルディは、ボサノヴァを筆頭にラテン音楽の影響を強く受けたバンドに参加していた。その後ガラルディは『ピーナッツ』に楽曲提供するようになるが、その中でも特に「Linus & Lucy」ではキャッチーなピアノのメロディと、思わず足が動いてしまうようなリズムが見事に調和している。
また、同曲のメイン・パートはたった3つの楽器から成る。ピアノ、ブラシで演奏するスネア・ドラム、オープンとクローズを織り交ぜたハイハット・シンバルだ。天才的な作品は往々にしてシンプルなのである。
76位 : スティーヴィー・ワンダー「Uptight (Everything’s Alright)」(1965年)
このリストを作成する上で最も気楽だったのは、スティーヴィー・ワンダーの70年代の作品から1曲を選ぶのではなかったことだ。もちろん彼の1960年代の作品群が歴史に残らないというわけではないが、『Music Of My Mind (心の詞) 』『Talking Book』や『Innervisions』から1曲だけを選ぶとすれば、気が気でなかっただろう。
我々が本リストでチョイスした「Uptight」は、ストレートなロック・ポップのジャム曲だ。ワンダーの歌声が主役ではあるが、時折その座を魅力溢れるホーン隊に譲っている。また、躍動感のあるドラムは、クリームやジミ・ヘンドリックス・エクスペリエンスのようなロック・グループを彷彿させる。それらバックの演奏は魅力的かつエネルギッシュでありながら、しっかりとスティーヴィーのパワフルなヴォーカルの引き立て役に回っている。まさしく完璧に仕上がった楽曲だ。
気になるところがあるとすれば、スティーヴィーが「僕はただのありふれた男 (I’m just an average guy) 」と歌っているところだろうか。嘘をつかれるのは面白くないからである。
75位 : レイ・バレット「El Watusi」(1962年)
ニューヨーク生まれのレイ・バレットは、ラテン音楽界が誇る偉大なコンガ・プレイヤーのひとりだ。1950年代初頭からその演奏は話題になり、ニューヨーク中で、ラテンのミュージシャンのみならずチャーリー・パーカーやディジー・ガレスピーなどのジャズの巨匠たちとも定期的にギグを行うようになった。そんなバレットは独創的な演奏スタイルで知られる。
やがて自分のバンドを率いるようになった彼は、パチャンガ音楽の大流行の一部であった「El Watusi」にも彼独自のスタイルを取り入れてみせた。この1960年代を代表するラテン・ナンバーのタイトルは、ルワンダのツチ族のことを指しており、意味をなさない歌詞の中にも頻繁に登場している。
74位 : ザ・ドリフターズ「Under The Boardwalk (渚のボードウォーク)」(1964年)
「Under The Boardwalk」は悲劇から生まれた。同曲のレコーディングは1964年5月21日に行われる予定だったが、その前夜にバンドのリード・シンガーだったルディ・ルイスがヘロインの過剰摂取と思われる原因で急逝。しかしスケジュールの再調整はなされず、グループの別のヴォーカリスト、ジョニー・ムーアが同曲のリード部分を歌うことになったのだ。
ポップとソウルが完璧に調和した1曲だが、後に生み出された名カヴァーの数々の方が知られているかもしれない。ビリー・ジョエル、ベット・ミドラー、サム&デイヴ、トム・トム・クラブ、ザ・ローリング・ストーンズ、ビリー・ジョー・ロイヤル、ブルース・ウィリス、バッド・ボーイズ・ブルー、ジョン・メレンキャンプ、リン・アンダーソンといったアーティストたちはみな、このヒット曲に取り組んだ。そして驚くべきことに、上述の全てのカヴァーがシングルとしてアメリカかそれ以外の国でチャート・インしている。
73位 : アーマ・トーマス「Time Is On My Side」(1964年)
「Time Is On My Side」はアーマ・トーマスとザ・ローリング・ストーンズがそれぞれレコーディングしているが、そのサウンドはお互いに全く異なっている。ジェリー・ラゴヴォイが書いた同曲を、ストーンズはスリリングなロック調のアレンジで演奏した。
打って変わってトーマスのヴァージョンは、彼女の優れたヴォーカルを中心に据えている。バック・コーラスよりも少しだけ先行して歌う彼女は、さながら後続と距離を空ける短距離走者のようだ。そのトーマスの歌声に不完全な部分はない。パワフルでありながら非常に正確な彼女の歌声は、ソウル・ミュージックの歴史を振り返っても一際特徴的である。
そんな同曲をトーマス向けにアレンジしたのはH.B.バーナム。追加の作詞にジミー・ノーマンを指名したのも彼だった。伝えられるところによれば、ノーマンが詞を書き上げたのはトーマスがスタジオに入る直前のことだったという。
72位 : ザ・キャノンボール・アダレイ・クインテット「Mercy, Mercy, Mercy」(1966年)
「Mercy, Mercy, Mercy」はザ・キャノンボール・アダレイ・クインテットにとって予期せぬヒット作になった。ソウル・ジャズに分類される1曲だが、ジャズの楽曲構成とポップなメロディを組み合わせたおかげで幅広いオーディエンスを獲得したのだ。
楽曲の冒頭でメロディをリードしているのはジョー・ザヴィヌルである (彼が弾いているウーリッツァー製のエレクトリック・ピアノは元々あのレイ・チャールズが所有していたもの)。同曲は1967年にもザ・バッキンガムスによってレコーディングされ、ジャンルの垣根を越えたヒットとなった。だが、アルコールで気分が高揚した観客の声が臨場感を感じさせる本オリジナル・ヴァージョンは、特別な魔法を起こしてくれるのだ。
71位 : マール・ハガード「Mama Tried」(1968年)
カントリー・ミュージックの名曲がすべてそうであるように、マール・ハガードは「Mama Tried」を少しだけ誇張して書いた。彼が同曲を書こうと思い立ったのは、強盗で有罪判決を受けてサン・クエンティン刑務所で3年間の服役を終えた後だった。
「何時間も休みなしで働く (worked hours without rest) 」女性たちに捧げた感動的な歌であり、不品行な少年の謝罪の形を取った1曲だ。だが、その物語は途中までしか語られていない。同曲をはじめ、ハガードはベーカーズフィールドのカントリー・ソングをホンキー・トンク調で演奏した1960年代の楽曲で知られるが、これはウェイロン・ジェニングスやウィリー・ネルソンに代表される70年代のアウトロー・カントリーの基礎を築いた。
また、彼が見せる共感、悔恨、反感の入り混じる感情は、以来カントリーというジャンルに欠かせない要素となった。
70位 : ヴァン・モリソン「Brown Eyed Girl (茶色の眼をした女の子)」(1967年)
1967年、ヴァン・モリソンはたった2日間のレコーディング・セッションで8曲をレコーディングし、4枚のシングルを完成させた。「Brown Eyed Girl」はその初日に苦労の末、22テイク目でようやく録り終えたものだが、その甲斐があったことは明らかだ。
発表されるいなや彼の代表曲のひとつになった同曲は、ソフト・ロックの逸品であり、オーケストラの影響がさらに強まったサイケデリック・アルバム『Astral Weeks』の音楽性を先駆けた楽曲ともいえる。アデル、リール・ビッグ・フィッシュ、スティール・パルスやU2といったさまざまなアーティストにカヴァーされたことからもその普遍性に疑いの余地はない。
69位 : ガル・コスタ「Baby」(1969年)
ガル・コスタの「Baby」には歴史がたくさん詰まっている。このトロピカリアの代表曲には、ビーチで過ごす最高の1日が見事に表現されている。まだ日焼けして皮膚が剥がれてくるところまでは至っていない、気持ちの良い日光浴だ。痛々しい例えはさておき、カエターノ・ヴェローゾが作曲した同曲は、トロピカリア・シーンを牽引したバンド、ムタンチスの演奏で有名になった。
コスタのヴァージョンは少し遅れて1969年にリリースされたが、彼女の声と絡み合いながら乱れ飛ぶように鳴るストリングスのサウンドは、まるで40年代の映画の音響のようである。ハーモニーでコスタの素晴らしい歌声を支えているヴェローゾと共に、彼女はトロピカリア・ムーヴメントを代表する1曲を生み出した。
68位 : ザ・キンクス「You Really Got Me」(1964年)
「Waterloo Sunset」の方がこのリストに相応しかっただろうか。確かにそうかもしれないが、レイ・デイヴィスが初めからいかに優れたソングライターだったかを示すにはこの曲が一番だ。デイヴィスによれば「You Really Got Me」は、彼が初めて書いた5曲のうちのひとつだった。
元々は、現在のヴァージョンとは正反対の、ピアノを主軸としたラウンド・ジャズ風のアレンジが考えられていた。題材になったのは、学生時代のデイヴィスがある晩のライヴ中、観客の中に魅力的な女の子を見つけた実体験だ。彼は出番が終わるとすぐにその子を探しに行ったが、すでに姿はなかったのだという。なお、この曲の名ギター・ソロには現在も謎が残っている。
ディープ・パープルのジョン・ロードはそれを弾いたのがヤードバーズ (その後にレッド・ツェッペリンへ) 加入前のジミー・ペイジだったと主張しているのだが、ペイジは一貫してそれを否定し続けているのだ。
67位 : ボビー・ジェントリー「Ode To Billie Joe (ビリー・ジョーの唄)」(1967年)
ミシシッピ州チカソー郡から有名なミシシッピ・デルタまでは、2時間ほどの距離がある。だが「Ode To Billie Joe」においてボビー・ジェントリーは自分の生まれ故郷を一旦忘れ、デルタを中心とした悲劇の物語に身を投じている。
細部の描写が見事なこの曲は、想像力豊かな視点で歌われた完璧なフォーク・ソングだ。曲中でジェントリーは、地元の少年が橋から飛び降り自殺をしたことに対するある家族の反応を描いている。その一家の娘の視点で歌う彼女は、家族の無関心さとは正反対の共感を見せる。4分のフォーク・ソングでありながら小説のような、アメリカ南部の悲劇を歌った心揺さぶるアンセムだ。
66位 : ラムゼイ・ルイス・トリオ「The “In” Crowd」(1965年)
「The “In” Crowd」は1960年代を代表するインストゥルメンタル・ナンバーだ。ラムゼイ・ルイスは同曲に関し、ネッティ・グレイという名のコーヒー・ショップ店員に感謝しなければならない。
1965年、ラムゼイ・ルイス・トリオのメンバーはワシントンD.C.のコーヒー・ショップで、セットリストに加える最後の1曲が見つからず途方に暮れていた。彼らはボヘミアン・キャヴァーンズという会場で複数日に亘る公演を控えていた。そこは前の年に彼らがライヴ・アルバムをレコーディングした会場で、このとき考えていたセットリストも、次のライヴ・アルバムとしてレコーディングされることになっていたのだ。そのとき、給仕のネッティが店内のジューク・ボックスで流したのが、当時のヒット曲だったドビー・グレイの「The “In” Crowd」だった。
それを聴いたルイスは早速バンドと共にアレンジを考え、その夜のキャヴァーンズでの公演をこの曲で締めくくった。結果的に大盛況を収めた同曲は、やがてヒットとなってビルボードのホット100チャートとR&Bチャートにもランクインした。
65位 : ザ・キングスメン「Louie Louie」(1963年)
ザ・キングスメンは、ガレージ・ロックという言葉が生まれる前からガレージ・ロックを演奏していた。彼らがリチャード・ベリーの「Louie Louie」をカバーすることになったきっかけは偶然によるものだ。
1962年、彼らが出演したオレゴン州シーサイドにあるパイポ・クラブでのギグで、店のジューク・ボックスからロッキン・ロビン・ロバーツの「Louie Louie」が何時間も流れ続けていた。その曲には彼らが経験したことのないほどの注目が集まり、クラブにいた人々は全員ダンスフロアに押し寄せていた。それを見たヴォーカルのジャック・エリーは、バンドに同曲を覚えさせた。すると彼らの演奏も同じようにダンスフロアで反響を呼んだため、すぐにレコーディングに取り掛かったのだ。
64位 : ウェンディ・カルロス「Two-Part Invention In F Major (インヴェンション ハ長調)」(1968年)
サタデー・ナイト誌の記事の中で、著名なピアニストのグレン・グールドは『Switched-On Bach』を「この時代のレコード業界における最も驚くべき偉業のひとつ」と評した。
同アルバムには、ウェンディ・カルロスがモーグ・シンセサイザーで念入りに作り上げたバッハの楽曲群が収録されている。その完成までにかかった時間は約5ヶ月、1,000時間に上る。新世代の楽器だったモーグ・シンセは、控え目に言っても、手懐けるのが難しい猛獣だったのだ。
アマンダ・シューエルが著したカルロスの伝記によると、この作曲家をもってしても「シンセサイザーの音程が外れる前に作れるのは1,2小節がやっと」だったという。しかし、完成した同アルバムは一大センセーションを巻き起こし、実に3年もの間、ビルボードのクラシック・チャートで1位に留まり続けた。
63位 : ジョー・バターン「Subway Joe」(1968年)
ニューヨークの街を描いたジョー・バターンの「Subway Joe」は、1960年代のどの楽曲よりも特定の都市の姿をうまく捉えている。“キング・オブ・ラテン・ソウル”と評される彼は1942年にニューヨークのスパニッシュ・ハーレムで生まれた。
バターンは身の回りの現実を楽曲にして、労働者階級の人々の生活に関する素晴らしい物語を、当事者として熱のこもった視点で描いた。エル・バリオ (スパニッシュ・ハーレムの愛称) の安アパートで育った彼は、そこでポップ、ラテン、ドゥーワップ、R&Bといったあらゆる音楽に触れていた。それらは全て彼の音楽、特に「Subway Joe」の中に詰め込まれている。
ニューヨークという街のエネルギーに満ちた同曲で、バターンはラテン・ソウルの真骨頂を見せてくれる。この上なくニューヨークらしさに溢れたこの地下鉄の旅は、ユーモラスな語り口で一度聴けばきっと記憶に残ることだろう。
62位 : サイモン&ガーファンクル「The Sound Of Silence」(1965年)
「The Sound Of Silence」は1960年代のフォーク・ポップ・ソングとして完璧な逸品だ。だがこのデュオが最初に同曲を制作してから、現在のサウンドになるまでには長い時間がかかった。オリジナル・ヴァージョンはアコースティックで演奏され、1964年のアルバム『Wednesday Morning, 3 A.M. (水曜の朝、午前3時) 』に収録。同アルバムは商業的に失敗し、それが原因でサイモン&ガーファンクルは一度解散している。
だが1965年に入って「The Sound Of Silence」はマサチューセッツ州ボストンやフロリダ州全土のラジオ局でよく流されるようになる。そこで、同曲を手がけたプロデューサーのトム・ウィルソンは、エレキ・ギターやドラムをオーバーダビングしてリミックス版を制作。
このヴァージョンは1965年9月にシングルとしてリリースされたが、それまでサイモン&ガーファンクルは自分たちの楽曲がリミックスされたことを知らされていなかった。それから2年後、1960年代を代表する映画『卒業』のサウンドトラックにも使用された。
61位 : ババトゥンデ・オラトゥンジ「Jin-Go-Lo-Ba」(1960年)
ババトゥンデ・オラトゥンジの「Jin-Go-Lo-Ba」の最初の音を聴いた瞬間から、じっとしているのはほぼ不可能だろう。血が通っている人間ならどうしても身体が動いてしまう。足踏みをする人もいれば、オラトゥンジとコーラス隊による大迫力のコール・アンド・レスポンスに加わる人もいるだろう。
アルバム『Drums of Passion』に収録された同曲は、キャッチーなヴォーカルとグルーヴィーなリズムというお馴染みの組み合わせが持つ力の偉大さを感じさせる。ナイジェリア人のドラマーであり活動家、教育者でもあった彼の「Jin-Go-Lo-Ba」は予想以上の成功を収めた傑作であり、アメリカ人が”ワールド・ミュージック”を知る重要な第一歩として多くの支持を集めている。
60位 : ザ・ゾンビーズ「Time Of The Season (ふたりのシーズン)」(1968年)
「Time Of The Season」のヒットは、ゾンビーズを救うには遅すぎた。リリースの1年後には不動の名曲として知られていた同曲だが、そのころには成功の兆しが見えない憤りからバンドは解散してしまっていた。
アルバム『Odessey And Oracle』からは、先に数曲がシングル・カットされ「Time Of The Season」は後回しにされていた。コロムビア・レコードは同アルバムの成功に懐疑的だったが、新たにA&R部門のトップに就任したアル・クーパーの指示でその完成に力を注いだ。
最終的にバンドとクーパーが正しかったことは証明されるのだが、クーパーが「Time Of The Season」のリリースを勝ち取り、リスナーが同サイケ・ポップ・ナンバーの魅力に気づくまでには時間がかかってしまった。
59位 : ザ・ヴェルヴェット・アンダーグラウンド「I’m Waiting For The Man (僕は待ち人)」 (1967年)
ザ・バーズが「8マイルの高みに上がって… (eight miles high…) 」と歌ったとき、一般的なアメリカ人は驚愕したものだ。それを考えれば、ルー・リードが26ドル分のヘロインを買うために街角で立っていると歌ったときの人々の反応は想像を絶するものだっただろう。
ドラッグの売買を魅惑的に歌ったポピュラー・ソングというのは、当時はまだめずらしかったのだ。だが「I’m Waiting For The Man」は同時に、1960年代でも指折りの先進的でクールなロック・ナンバーでもあった。
ローファイ・サウンドのギターとルー・リードの反抗的でクールな歌い方は一見、相反するような組み合わせだが、これが80年代と90年代のインディー時代を先取りしたサウンドを生んでいる。ロックというジャンルは、全てヴェルヴェット・アンダーグラウンドの影響下にあると言ってもいい。その題材は社会派でありながら、学校教育で取り上げるには刺激的過ぎる類稀な楽曲である。
58位 : エタ・ジェイムズ「At Last」(1960年)
音楽史に残る完璧な瞬間はいくつかあるが、「At Last」の冒頭の一瞬を超えるものは数少ない。ストリングスの残響が止み、エタ・ジェイムズの歌声がアカペラで飛び込んでくるあの瞬間だ。
馴染み深いスウィングのリズムでドラムが入り、ピアノがまるで頂上から下山する登山家のようにスケールを下降し、ジェームズの切望するような高らかな呼びかけに応えてストリングスが鳴る前、そこにはひとりで最高の歌声を響かせるエタだけがいる。
同曲の演奏とエタの歌声には、現代の音楽では誰にも真似できないような親密さが感じられる。彼女はまるで一人ひとりのリスナーに直接歌いかけるかのように、この完璧なラヴ・ソングを誰もが一度は経験する愛のひとときに捧げている。
57位 : ステッペンウルフ「Born To Be Wild (ワイルドでいこう!)」(1968年)
ステッペンウルフの「Born To Be Wild」は、1960年代のロックンロールが凝縮した傑作。アメリカの映画界に革命を起こし、後進に強い影響を与えた画期的なインディーズ映画『イージー・ライダー』に使用されたことで記憶している人がほとんどだろう。
だが、それだけでは十分に評価されているとは言えない。同曲は最初の“メタル・ナンバー”、あるいは少なくともメタルの原型のひとつとして度々名前が挙がる1曲である。それに加えて忘れてはならないのが、第一に完成度の高い名ロック・ナンバーであることだ。
56位 : ザ・バンド「The Weight」(1968年)
イングマール・ベルイマンやルイス・ブニュエルといった映画監督による象徴性の強い作品を楽曲として表現した「The Weight」。ザ・バンドはこの曲にて、シュルレアリスムを世間に知らしめようと試みた。
曲中ではペンシルヴェニア州ナザレスを舞台に、実在の人物をモデルとした多彩なキャラクターが登場するが、その町を選んだのはギター・メーカー、マーティン社の発祥の地だったからだという。そういった背景を抜きにしても、同曲はザ・バンドが制作した数多くのフォーク・ロック曲の中でも並外れた逸品だ。
ドラマーのリヴォン・ヘルムがリード・ヴォーカルを務めているが、4番目のヴァースではベースのリック・ダンコもヴォーカルを取っている。彼らの他の楽曲と同様、「The Weight」もそのコーラス・ワークを中心に据えている。
ザ・バンドはメンバー全員が歌えたが、例えばビーチ・ボーイズがそれぞれのヴォーカル・パートをキャンディのような色鮮やかさで仕上げたとすれば、彼らは泥臭さやタバコ臭さが感じられるようなラフなパフォーマンスで仕上げたといえよう。
55位 : スタン・ゲッツ&ジョアン・ジルベルト feat. アントニオ・カルロス・ジョビン 「The Girl From Ipanema (イパネマの娘)」(1964年)
「The Girl From Ipanema」は、1960年代ボサノヴァ・ジャズの最高傑作だ。元々は1962年の楽曲で、アントニオ・カルロス・ジョビンが作曲し、ヴィニシウス・ヂ・モライスがポルトガル語で作詞した。英語の詞は後からノーマン・ギンベルにより書かれたものだ。
スタン・ゲッツとジョアン・ジルベルトによる本ヴァージョンはリリースされてすぐヒットとなり、ヴォーカルとして参加したジョアンの妻、アストラッド・ジルベルトのデビュー作にもなった。同曲とそのアルバムは、アメリカのサックス奏者であるゲッツと、ブラジルの象徴的存在であるジルベルトによる画期的なコンビネーションだった。
ちなみに、多くの人が慣れ親しんでいる「The Girl From Ipanema」は実は短縮版で、アルバム収録のヴァージョンにはジョアン・ジルベルトがポルトガル語で歌っている部分がある。同曲は世界中でヒットを記録し、グラミー賞の年間最優秀レコード賞にも輝いた。
54位 : パッツィー・クライン「Crazy」(1961年)
パッツィー・クラインは1961年にシングル「I Fall To Pieces」で初めてビルボード・カントリー・チャートの1位を獲得。だが同曲のヒットから間もなく、彼女は交通事故で重傷を負い、1ヶ月間の入院を余儀なくされてしまう。そうして回復後にリリースした「Crazy」はカントリー・ミュージック史上最大のヒット曲となった。
入院中に何が起こったのかは分からないが、クラインは突如として大スターになったのだ。同曲は元々ウィリー・ネルソンが作曲し、彼女の夫のチャーリー・ディックが彼女にレコーディングするよう頼んだもの。当初、彼女は拒絶して「あなたが何と言おうと、この曲が好きじゃないしレコーディングもしない、それだけ」と言ったという。だが彼女はスタジオに入ると、ディックの説得もあって同曲を試してみることにした。その結果は知っての通りだ。
パッツィ・クラインはそのコンセプトが世間に定着する前から“カントリー界の女性スター”として活躍し、自ら道を切り開くとともに、歌手になろうとする未来の世代の女性たちに影響を与えたのである。
53位 : ジェーン・バーキン&セルジュ・ゲンスブール「Je T’aime… Moi Non Plus (ジュ・テーム・モワ・ノン・プリュ)」(1969年)
「Je T’aime… Moi Non Plus」でのセルジュ・ゲンスブールほどに、楽曲に官能的なエネルギーを注ぎ込むことは容易ではないだろう。大雑把に訳せば「あなたを愛している、僕もあなたを愛していない」というタイトルの同曲は、元々1967年にブリジット・バルドーのために書かれたものだ。ゲンスブールは、当時交際していたバルドーから出来るだけロマンチックな曲を書いて欲しいと頼まれ、書き上げたのがこの曲と「Bonnie and Clyde」の2曲だった。
だがバルドーと共に「Je T’aime… Moi Non Plus」のレコーディングに取り掛かったところで、彼女の夫にそのコラボレーションが知られてしまい、彼女から同曲をリリースしないよう頼まれた。彼は大人しく従ったが、それから1年後にバーキンと交際を始めると、改めて同曲を取り上げたのだった。ふたりが惹かれ合っていることが歌詞のどこを取ってもよくわかる彼らのヴァージョンは、1960年代でも屈指のセクシーなポップ・ソングだ。
52位 : セリア・クルース「Bemba Colorá」(1966年)
セリア・クルースの音楽は踊りたくなるものばかりだが、同時にリスナーは1960年代キューバの政治情勢を直視することになる。1966年リリースの「Bemba Colorá」は、反人種差別を歌ったルンバとして音楽史において恐らく最も有名な1曲だ。だがこうした力強いテーマには、パワフルで特徴的なホーン隊や、クルースと彼女のバック・バンドによるコール・アンド・レスポンスが欠かせない。
俗に“クイーン・オブ・サルサ”として知られるクルースは、1960年代初頭に故郷のキューバを去り、亡命キューバ人コミュニティの代弁者となった。彼女の歩んだ実に興味深い歴史からは、アイデンティティや共同体についての問題を考えさせられる。ティト・プエントと共に作曲した「Bemba Colorá」を彼女は最高のグルーヴ感で仕上げ、人種の垣根を超えたヒット曲にした。
51位 : デヴィッド・ボウイ「Space Oddity」(1969年)
ヘッドホンで「Space Oddity」を聴き始めると、ついヴォリュームを上げてしまい、コーラス部分で耳が壊れそうになる。デヴィッド・ボウイによる1969年のヒット曲はいつだって思っていたより静かに始まり、たっぷりと時間をかけてロック史に残る名コーラスに流れ込む。
同曲は、リリースの1年前に公開されたスタンリー・キューブリック監督の映画『2001年宇宙の旅』をヒントに作曲された。キューブリックの作品が殺風景で厳格な一方、ボウイの楽曲は自由奔放で恍惚とした雰囲気だ。
軍隊の行進曲のようなドラムが鳴り響く中、ボウイはカウント・ダウンをしながら、リスナーにプロテインを飲むよう指示する。そして彼が「発射 (liftoff) 」と言った後の展開は、分かり切っていても新鮮に響いてくる。
ステレオ・ミックスでは、彼のヴォーカルが左右片方ずつに分かれて聞こえてくるはずだ。そして突然、デヴィッド・ボウイに月面着陸の成功を祝われ、リスナーは宇宙飛行士になったかのような気持ちが味わえるのだ。
50位 : エンニオ・モリコーネ「The Good, The Bad & The Ugly (Main Theme) (続・夕陽のガンマン ~ メイン・テーマ)」(1966年)
お互いに背を向け合い、3歩進み、振り向いて銃を抜く、そんな場面が目に浮かぶようだ。エンニオ・モリコーネが作曲した、映画『続・夕陽のガンマン』のメイン・テーマは、その歌詞のないヴォーカルによって壮大なる栄光の最中にあったアメリカ西部を思い起こさせてくれる。また最初のホイッスルはセルジオ・レオーネの西部劇の最終決戦を彷彿させる。
本テーマ・ソングは西部劇の映画音楽の代名詞的存在であり、1960年代のベスト・ソングのひとつとして本リストにふさわしい。1966年にはビルボード・チャートで4位にランクイン。それはモリコーネのスコアで表現された口笛、叫び声、馬たちの疾走などが織りなす、混沌とした魅力によるところが大きかっただろう。映画史においても、これほど感情を揺さぶる力を持ったサウンドトラックはそうそうない。
49位 : ジョニー・キャッシュ「Ring of Fire」(1963年)
「炎の輪の中に落ちる (falling into a ring of fire) 」という歌詞は何か不吉なイメージを連想させるが、ジューン・カーター・キャッシュとメルレ・キルゴーアは、後進に影響を与えた本ヒット曲をそのような意図で書いたわけではない。
この純粋なラヴ・ソングを最初にレコーディングしたのはジューンの妹であるアニタ・カーターだ。そのヴァージョンは商業的に失敗に終わったが、夢の中でマリアッチ楽団をバックにした同曲の演奏を聴いたジョニーは、自ら挑戦してみることにした。
彼は夢で見た通りにレコーディングし、時代を先取りしたカントリー・ウェスタン・ナンバーに仕上げた。カントリーの王道の構成にさまざまなジャンルの要素を取り入れ、カントリーやラテン音楽の愛好家たちの間でいつまでも親しまれる、ジャンルを越えたヒット曲となった。
48位 : ヒュー・マセケラ「Grazing In The Grass」(1968年)
もし『サタデー・ナイト・ライヴ』のコントの中でクリストファー・ウォーケンが指揮したのがヒュー・マセケラの「Grazing In The Grass」のセッションだったら、彼が「もっとカウベルを (more cowbell) 」と叫ぶこともなかっただろう。この曲はこれでもかとカウベルが鳴る1968年のヒット曲だ。
16分音符を刻むカウベルで始まり、その半分のテンポでドラムが加わり、軽快なピアノの音色に乗るように最後にホーン・セクションが入る。そんな混沌の上で踊るかのようなマセケラの見事なトランペットも加わって、達人技というべき緊張感のあるリズムが生まれている。
フル・アルバムとしては3分ほど再生時間が短いというレーベルの判断から土壇場でマセケラのデビュー作に加わった同曲は、結果的にアメリカのビルボード・チャートで1位を記録することになった。マセケラに加えて、グリニッジ・ヴィレッジのレジェンド、ブルース・ラングホーンや伝説的ジャズ・ベーシストのヘンリー・フランクリンといった豪華なメンバーが顔を揃えている。
47位 : ロレッタ・リン「Fist City」(1968年)
ロレッタ・リンは「Fist City」でいくつかのルールを掲げている。彼女の夫を見つめてはいけないこと、触れてはいけないこと、考えることすらしないこと。さもないと、痛い目に遭うと警告している。リンがツアーで留守の間に夫を奪おうとする罰当たりな女たちに向けた歌であり、カントリー・ミュージック界のスターが生んだ過激な1曲だ。
1960年代においては、カントリーは男の音楽であり、喧嘩は男がするものだった。だが彼女は粋な左フックと甘美な歌声を武器にシーンに現れ、その全てを変えたのだ。彼女の登場を快く思わない男社会の人々は、彼女の台頭をどうにか受け入れなければならなかった。さもないと「Fist City」の中の女たちと同じ運命、すなわち唇から血を流して地面に倒れるという運命を辿ることになっただろう。
46位 : ザ・ミラクルズ「The Tracks Of My Tears」(1965年)
驚くべきヒット曲「The Tracks Of My Tears」は、名曲を量産しソウル・ミュージック史上に名を刻むレーベル、モータウンから生まれた。
スモーキー・ロビンソンがその歌詞のアイディアを思いついたのは洗面所だった。彼は2014年のNPRの番組でこう述べている。
「ある日ひげを剃っていて、鏡を見つめていた。それでこう思った。人が涙をたくさん流したら、顔の近くに寄ったときに涙の跡が見えるだろうとね」
イントロのギターとドゥーワップ調のヴォーカルが特徴的な同曲は、失恋について歌ったあらゆる楽曲の中でも最高峰に位置する。だが我々が言うだけでは信用に足らないだろう。同曲はグラミー殿堂入りを果たし、アメリカ・レコード協会が選ぶ「世紀の歌」リストの127番目に選出。それに加えて、「ローリング・ストーン誌が選ぶ歴代最高の500曲」でも50位にランクインしている。
45位 : ジルベルト・ジル「Aquele Abraço」(1969年)
1969年にセンセーションを巻き起こしたサンバ「Aquele Abraço」の最初のヴァースでジルベルトは、まるでギターがガラスで出来ているかのように演奏している。そうとしか言い表せないほどに彼の指弾きは繊細だ。もはや、ほとんど演奏していないと言ってもいいほどである。
だがホイッスル、バック・コーラスと多数のパーカッションを伴って長いコーラス部分に移ると、彼は突然ギターを前世の恨みかのようにかき鳴らす。つまり、彼は楽曲を自由自在に変化させる達人なのだ。
音量やクレッシェンドを巧みに操って、感情の動きを際立たせたり、楽曲にダイナミズムをもたらしたりすることが彼には出来た。恐らく史上最も有名なサンバ曲である「Aquele Abraço」が生まれたころ、ブラジルは軍事独裁政権下にあり、文化的な抑圧が行われていた。ジルは軍事刑務所から出たばかりで、自宅軟禁されていた際に同曲を書き上げた。
1970年に彼がヨーロッパへ亡命した後も、同曲はブラジルで大ヒットを記録し続け、国の変革を強く求める政治活動家たちにとってのスローガンになったのだ。
44位 : ザ・バーズ「Eight Miles High (霧の8マイル)」(1966年)
ザ・バーズは、過小評価され続けてきたジーン・クラークをはじめ、ジム (のちにロジャー) ・マッギン、デヴィッド・クロスビーといったアメリカにおける最高峰のソングライターたちを擁していた。そんな彼らは、インド音楽のラーガからの影響を大胆に取り入れたサイケデリック・ロックを作り上げた。
ラーガは当時、シタール奏者のラヴィ・シャンカールが登場したことや、ジョン・コルトレーンが関心を持っていたことで世間に知られつつあった。その1曲「Eight Miles High」の歌詞は、現在の基準からすると差し障りない内容だが、1960年代にはアメリカのラジオで放送禁止にもなった。
だがそうした逸話よりも重要なのは、同曲が新たな音楽スタイルを先駆けていたことだ。ザ・ビートルズなどのグループが、ジャズのような実験性を取り入れたサイケ・ロックに取り組むきっかけになったのだ。
43位 : ミリアム・マケバ「Pata Pata」(1967年)
ラップが振付師を志す人々のネタとして定着するずっと前から、南アフリカ出身のアーティスト、ミリアム・マケバは伝統的な「パタ・パタ」のダンスを自らの楽曲に取り入れていた。楽曲のタイトル「Pata Pata」というのは、ホサ語で「タッチ・タッチ」という意味。1959年に同曲が作られ、レコードになった際も歌詞はホサ語だった。
元々ダンスの一種である「パタ・パタ」は、ヨハネスブルクの非白人居住区にあったもぐり酒場で人々に親しまれていた。マケバはそこからヒントを得て、最初に彼女のバンド、ザ・スカイラークスと共にレコーディングした。その後アメリカで名を上げた彼女は、1967年にジェリー・ラゴヴォイと共に同曲を再度レコーディング。すると瞬く間にヒットを記録した。
マケバの1960年代のヴァージョンでは、彼女が幼少期から親しんだ力強いアフリカのリズム、繊細なサンバのグルーヴ感と魅力的なヴォーカルのメロディがうまく融合している。
42位 : ザ・シャングリラス「Leader Of The Pack」(1964年)
若さの盛りにあって恋をしているというのは、何より素晴らしいことだ。だが逆に、若い時の失恋は、まるで空前絶後の悲劇のように感じられる。シャングリラスはヒット曲「Leader Of The Pack」で、そんな恋愛の浮き沈みを誰よりも巧みに表現したのだ。
同曲は、ジョージ・“シャドウ”・モートンがジェフ・バリー、エリー・グリニッジと共に作曲したもの。元々はザ・グッディーズのために書かれたが、結局は「Remember (Walking in the Sand) (リメンバー~渚のおもいで)」の次作を探していたシャングリラスに提供されることになった。
名曲として時代を越えて親しまれている同曲だが、それは時代を先駆けて取り入れたバイクの排気音などの効果音や、独創的なパーカッションによるところも大きい。
41位 : タミー・ワイネット「Stand By Your Man」(1969年)
タミー・ワイネット最大のヒット曲である「Stand By Your Man」は、文化的に大きな重要性をもつ1曲だ。それゆえ、純粋にカントリー史上屈指の完成度を誇る楽曲だということは見過ごされがちである。
確かに1960年代後期にリリースされた同曲は、70年代にアメリカで一大勢力となるフェミニズム運動の矢面に立たされた。だがワイネットは、この曲は夫への服従ではなく、愛する人の欠点を大目に見てあげることを歌ったものだと常々主張してきた。彼女はプロデューサーのビリー・シェリルと共に同曲を15分程で書き上げたと言われているが、初めは歌うことに難色を示していた。彼女のそれまでの作品とは明らかに毛色が違っていたし、彼女にとって歌いづらい高音があったからだ。
だがほどなくして、同曲はカントリー・ミュージックにおける象徴的な転換点となり、今日でもワイネットの楽曲で最も大きな人気を集めている。
40位 : デスモンド・デッカー&ジ・エイシズ「Israelites (イスラエルちゃん)」(1968年)
公園で散歩をしているときに素晴らしいアイディアが思い浮かぶことがある。少なくとも、デスモンド・デッカーの見解はそうだ。レゲエの象徴的人物である彼が、最初に傑作「Israelites」のアイディアを得たのは公園でたまたま口論を耳にしたときだった。
彼がポップコーンを食べながら考え事をしていたところへ、お金のやり取りに関してとあるカップルが口論を始めたのだ。デッカーはそこから、一日中働いても十分に賃金が支払われなかった時の感情に発想を広げ、家に帰るまでの間に楽曲を完成させた。
結果として生まれた同曲は、現在までに最も大きな成功を収めたレゲエ曲のひとつになった。ビルボード・チャートでも好成績を残し、ロックステディの雰囲気を馴染みの薄い一般的なリスナーにも知らしめた。
39位 : グレン・キャンベル「Wichita Lineman」(1968年)
グレン・キャンベルは各地の土地柄について好んで歌っていた。1968年の「Wichita Lineman」はもちろんウィチタについて、それに続くヒット曲「Galveston」もテキサス州沿岸部の都市についての楽曲だ。キャンベルがこうしたテーマに惹かれたのは、それぞれの土地がそこに住む人々の性格をよく表すからだ。そんな「Wichita Lineman」を作曲したのはジミー・ウェッブ。オクラホマ州南西部の地方都市、ウォシタ郡に滞在した実体験から着想を得たという。
ウェッブは同曲を自ら形にしてキャピトル・レコードに持ち込んだが、その時点では中間部分が決定的に物足りなかった。そこで、キャンベルがその空白を埋める最高のギター・ソロを考え出したのだった。かの有名なレッキング・クルーのスタジオ・ミュージシャンとして活躍していた、キャリア初期の彼の姿を思い出させるパフォーマンスだ。また同曲にはそのレッキング・クルーから多くのメンバーが採用されてレコーディングに参加している。
38位 : クリーム「Sunshine Of Your Love」(1967年)
もしあなたが過去の失敗に悩んでいたら、1967年にアトランティック・レコード創設者のアーメット・アーティガンと音楽プロデューサーのジェリー・ウェクスラーが犯した酷い間違いを聞いて心を慰めてほしい。
クリームは、デビュー作『Fresh Cream』に続くアルバムをアーティガンのレーベル、アトランティック・レコードからリリースしようとしていた。だがアーティガンとウェクスラーは、激しくハード・ロック調になったクリームの新しいサウンドを毛嫌いした。ウェクスラーはデモ音源を「サイケデリックな雑音」と評したほどだったが、それが間違いだったのは明らかだ。
「Sunshine Of Your Love」は、やがて完成したセカンド・アルバム『Disraeli Gears』の単なる収録曲にとどまらず、シングル化にまで至った。クラプトンの演奏とヴォーカルは確かにアーティガンとウェクスラーを見返すのに十分なものだったが、最終的に彼らにその過ちを認めさせたのはブッカー・T・ジョーンズとオーティス・レディングが揃って太鼓判を押したことだった。
37位 : アイザック・ヘイズ「Walk On By」(1969年)
「Walk On By」に携わった顔ぶれの豪華さには驚かされる。同曲のオリジナル・ヴァージョンは、1963年にディオンヌ・ワーウィックのためにバート・バカラックが作曲、ハル・デヴィッドが作詞した。これを越えようとするのは至難の業だ。だがアイザック・ヘイズは、同曲を焼け付くような大人な雰囲気のセクシーな逸品に仕上げた。
世界的な巨匠たちのクレジットはともかく、ヘイズの1969年のヴァージョンはラップ・プロデューサーたちの定番になり、幾度となくサンプリングされた。楽曲の一部を使用した著名なラッパーたちには、2パック、ノトーリアス・B.I.G、MFドゥーム、ウータン・クランなどがいる。
ヘイズの「Walk On By」は、それ自体に価値ある名曲でありながら別のジャンルの歴史においても重要な役割を果たした、類稀なヒット曲なのだ。
36位 : バッファロー・スプリングフィールド「For What It’s Worth」(1966年)
大抵の人がバッファロー・スプリングフィールドの「For What It’s Worth」を反戦感情と結びつけている。だがスティーヴン・スティルスが描こうとしたのはもう少しスケールの小さいことだった。
同曲の題材となったのは、夜間外出禁止令の発令を受けて1966年11月にサンセット・ストリップで起こった暴動だ。武装した警官と体制に反抗した若者たちが争った事件である (どこかで聞いたことがあるような話だ) 。
そんな本来の意図はともかく、同曲が大きな影響力を持って広く普及した理由は明らかだ。まず、ニール・ヤングがギターを弾く1966年の本曲はパワフルかつキャッチーだった。加えて、人々に関心を高めるよう呼びかける内容のコーラスも、何より皆で一緒に歌うのにうってつけだった。
元々はサンセット・ストリップで起きた騒動に感化されて出来た楽曲だったが、今では1960年代を代表する1曲として、あるいは平和を求める世界中の活動家にとっての定番曲として親しまれている。
35位 : ジョルジ・ベン「Mas, Que Nada!」(1963年)
エスタド・ジ・サンパウロ紙はなんという間違いを犯したのだろう。それはジョルジ・ベンの名作『Samba Esquema Novo』がリリースされたときのこと。
ブラジルで4番目の規模を誇る同紙は、それ以前の彼の作品と同じように、同作もすぐに店頭から姿を消すだろうと報じた。彼らはベンの同アルバム (と特に「Mas, Que Nada!」) がサンバ・ミュージックの未来を大きく変える作品であるということまでは見抜けなかったのだ。
「新しいスタイルのサンバ」という意味のアルバムのタイトルが示すように、同作が目指したものは明らかだった。ベンはサンバというジャンルに新たな視点を加え、そのスタイルは同ジャンルの未来と南米の新世代のミュージシャンたちに影響を与えた。
34位 : ザ・ドアーズ「Light My Fire (ハートに火をつけて)」(1967年)
ドアーズのほかの多くの楽曲と同様、「Light My Fire」は種々さまざまな音楽から影響を受けている。同曲はギターのロビー・クリーガーが「Hey Joe」のメロディとローリング・ストーンズの「Play With Fire」の歌詞をヒントにして作曲したところから始まる。
そこにドラマーのジョン・デンスモアがラテンのリズムを取り入れようと提案。ほどなくしてオルガニストのレイ・マンザレクが、バッハの影響が感じられるイントロのフレーズを加えた。すると再度デンスモアが、曲の始まりはスネア・ドラムの一音からにしようと提案したのだった。
こうしたアイディアを下地に彼らは、ジョン・コルトレーンの「My Favorite Things」を参考にしたソロ・パートを組み立てた。同曲に限らず、ドアーズの魅力的なサイケ・ポップは大抵いつもこうして作られていた。彼らはロックやジャズ、ブルースなどの要素をミキサーのように混ぜ合わせ、誰にも真似出来ない別次元の作品を生み出したのだ。
33位 : ブッカー・T&ザ・MG’s「Green Onions」(1962年)
この世界には2種類の人間しかいない。ブッカー・T&ザ・MG’sの「Green Onions」を知っている人と、曲を聴いたことはあるものの名前が一致しない人だ。この曲はアメリカの音楽史の中でも特に耳に残りやすく、シンプルなブルース・ナンバーなのに色あせることがない。
リズムに乗ってメンバーが代わる代わる即興演奏を繰り広げるが、まず初めにオルガン・ソロがあり、それからラウドで甲高いギターのソロ、またオルガンに戻り、その後またギターに戻る。至ってシンプルな構成だが、シンプルにまとめるのはそうそうできることではない。
なお、楽曲をリードするキャッチーなメロディは、ブッカー・Tが17歳の時に書いたものだという。一般的なアメリカ人が運転免許を取り始めるような年ごろに、彼は未来の世代のためにアメリカのR&Bを再定義していたのだ。
32位 : カエターノ・ヴェローゾ「Tropicália」(1968年)
ストリングスの弦をこする音が渦巻く音世界は、まるでアルフレッド・ヒッチコックの映画『鳥』の音楽のようだ。リスナーは冒頭から目新しい異国の地に誘われる。そこは恐らく、カエターノ・ヴェローゾの故郷であるブラジルだ。
ヴェローゾは、ブラジル人ならではフィルターを通して西洋・東洋のあらゆる音楽を取り入れたトロピカリア・ムーヴメントの先駆者だった。エネルギーに溢れた同曲「Tropicália」のサウンドは、1968年のリリース当時に世間を驚かせた。
エンジンがかかるまでに少々時間のかかる楽曲だが、数々の楽器のけたたましい音にヴェローゾの甘美な歌声が加われば、彼と「Tropicália」の存在がいかに同名のムーヴメントの急成長を支えたかがわかるだろう。
31位 : ビッグ・ブラザー&ザ・ホールディング・カンパニー「Piece Of My Heart (心のカケラ)」(1967年)
ジャニス・ジョプリンの魂にはブルースが刻み込まれていた。だからこそ彼女はそれを容易く広大無辺なロックンロールの形に変えることが出来たのだ。それは本曲「Piece Of My Heart」を筆頭に1960年代の名曲の数々の中に表れている。
また、彼女はあまりにユニークかつ独創的にこの曲を歌い上げたために、1967年に同曲を初めてリリースしたアーマ・フランクリンは、本ヴァージョンをラジオで聴いた際にそれが自分の曲だと分からなかったという。
同曲でブルースの苦悩と喜びの両面を表現してみせたジョプリンは、ベッシー・スミスをはじめとする往年のブルース界のスターを真似てそのスキルを磨いたのだった。
30位 : ジャクソン5「I Want You Back (帰ってほしいの)」(1969年)
信じられないかもしれないが、「I Want You Back」は初めてアメリカ全土で流通したジャクソン5のシングルだ。1969年10月にモータウンからリリースされると、数ヶ月後には彼らにとって初のナンバーワン・ヒットとなった。
マイケル・ジャクソンの存在を世に知らしめた同曲は新しい時代の幕開けになった。最初は兄弟たちと共にグループとして、その後はポップ界で最も成功したソロ・アーティストとして、マイケルはその手で音楽の歴史を変えてみせた。
また、「I Want You Back」は、ダイアナ・ロスの紹介で登場した『ザ・ハリウッド・パレス』や大きな転換点となった『エド・サリヴァン・ショー』など、彼らがテレビ出演し始めたころによく演奏された。だがそんな同曲はジャクソン5が歌っていないかもしれなかった。検討段階ではグラディス・ナイト&ザ・ピップス、それからダイアナ・ロスに提供される予定だったのだ。
29位 : ザ・ママス&パパス「California Dreamin’ (夢のカリフォルニア)」(1965年)
ジョン・フィリップスとミシェル・フィリップスは、ニューヨークのアパートメントで暖を取るために身体を寄せ合っていた。街路から入り込む厳しい寒さを凌ぐため、藁にもすがる思いだったのだ。だがそのとき味わった絶望感のおかげで「California Dreamin’」が生まれたと思えば、苦しんだ甲斐もあっただろう。
陽の光が溢れるロサンゼルスとベイエリアの風景に、ほかのどの楽曲より深く関わった1曲である。ママス&パパス(作曲は主にフィリップス夫妻が担当)は同曲において、西部開拓時代のアメリカ人が抱いた西部への憧れと1960年代のカリフォルニアの姿を重ね合わせ、まったく新しいアイディアや文化、そして彼らにしか作れないハーモニーを生み出した。
28位 : ナンシー・シナトラ「These Boots Are Made For Walkin’ (にくい貴方)」(1965年)
あの下降していくギターのフレーズは一度聴いたら忘れられない。最後の一音に向かって風を切って飛んで行くような特別な感じがあり、分かっていても、最後まで来ると驚いてしまうのだ。
「These Boots Are Made For Walkin’」はもともと、リー・ヘイズルウッドが自分でレコーディングするために作曲したものだった。だがナンシーは、可愛らしくて格好がつかないという女性カントリー歌手の典型的なイメージを利用して、同曲は男が歌うとあまりにも威圧的過ぎるとヘイズルウッドを説得した。そして、結果的にはそれが最善策だった。
同曲はカントリー史に残る象徴的な1曲となり、さまざまなジャンルのアーティストにカヴァーされた。だが本オリジナル・ヴァージョンに匹敵するものはごく僅かだ。
27位 : フランキー・ヴァリ「Can’t Take My Eyes Off You (君の瞳に恋してる)」(1967年)
フォー・シーズンズのオリジナル・メンバーで「Can’t Take My Eyes Off You」の共同作曲者であるボブ・ゴーディオは、同曲が危うく無名のまま終わるところだったと常々回想している。
ゴーディオとヴァリは、1967年に制作した同曲がデトロイト都市圏のラジオ局であるCKLWでローテーションされることを当てにしていた。そうすれば一定のセールスは保証されたようなものだったからだ。だが同局の番組ディレクター、ポール・ドリューは当初この曲の放送を見送ってしまう。それでも彼はヴァリがこの曲をライヴで披露しているのを見て、心を入れ替えてラジオのローテーションに加えた。
そして放送に乗るやいなや同曲は大ヒットとなった。そんな「Can’t Take My Eyes Off You」は時を越え、最近では地球をも飛び出した。2008年、スペース・シャトルのミッションSTS-126で、宇宙飛行士を目覚めさせるための楽曲としてNASAに使用されたのだ。
26位 : ピート・ロドリゲス「I Like It Like That」(1967年)
信じられないかもしれないが、カーディ・Bが「I Like It」で登場するはるか前、1967年にも自分なりの楽しみ方を歌った楽曲が作られていた。
作曲したのは、トニー・パボンとマニー・ロドリゲスというふたりのソングライターだ。パボンがヴォーカルを取り、ピート・ロドリゲス率いるオーケストラがバックの演奏を手がけている。同曲は英語の歌詞、ヴォーカルのコール・アンド・レスポンス、サンバのリズム、キューバ音楽のメロディを組み合わせた先駆的な楽曲として知られているが、そうした多くのスタイルが混在しながら紛れもなくキャッチーに仕上がっている。
また、誰もが好むメロディゆえにカヴァーやサンプリング、アレンジの題材としても好まれている。ザ・ブラックアウト・オールスターズによるカヴァーや、リフレイン部分を使ったバーガーキングのコマーシャルはそのごく一部だ。
25位 : トゥーツ・アンド・ザ・メイタルズ 「54-46 That’s My Number」(1968年)
「54-46 That’s My Number」は、レゲエが世界的に浸透する以前からジャマイカ国内でも広く人気を得た楽曲だ。そして現在でも同ジャンルが世界的に受け入れられるきっかけとなった1曲と見なされている。
肩の力が抜けたトゥーツの歌い方には遊び心が感じられ、ドラムは重厚かつ手数が多い。歌詞にはマリファナの所持で服役したトゥーツの刑務所での経験が描かれているが、投獄されたことによる絶望感は感じさせないポジティヴな曲調だ。
いずれにせよ、同曲は1960年代ジャマイカのロックステディ・シーンを決定付け、レゲエから派生したダブの先駆けとしても広く知られている。ダブは、1990年代から2000年代にかけて成熟していったアメリカの電子音楽においても欠かせない要素となった。
24位 : ザ・シュープリームス「You Can’t Hurry Love (恋はあせらず)」(1966年)
大切なのは忍耐だ、恋は簡単にはやって来ないから。
そんな健全な助言は、シュープリームスのダイアナ・ロスの歌声に乗ると一層優しく響いてくる。彼女はR&B/ソウル界を代表するシンガーだ。「You Can’t Hurry Love」はモータウンが誇るプロデューサー・チームであるホーランド=ドジャー=ホーランドの作。リリース後間もなく驚くほどの成功を収め、ビルボードのポップ・シングル・チャートで1位を獲得した。
シュープリームスが「恋はいずれやって来る」と説いた同曲は、ファンク・ブラザーズの演奏も相まって1960年代のモータウンの楽曲の中でも大きな反響を呼んだ。「Where Did Our Love Go?」や「Stop! In The Name Of Love」といった名曲の数々の中でも特に際立った逸品だ。
23位 : フランク・シナトラ「My Way」(1969年)
フランク・シナトラの青い瞳より魅力的なものはこの世にひとつしかない。それは彼の柔らかな歌声だ。もともと彼はビッグ・バンドとのパフォーマンスで名を上げたが、比較的シンプルな楽曲になるとその歌声の繊細さが引き立つ。その最たる例が1969年の名曲「My Way」である。
いつまでも色あせない同曲に関して、シナトラはポール・アンカに感謝しなければならないだろう。アンカは、休暇で南フランスを訪れていた際にフランス語で歌われた同曲のオリジナル・ヴァージョンを聴き、すぐに楽曲の権利交渉のためパリへ向かったという。そしてシナトラは、静かに聴かせる前半部分から声の限り歌い上げる後半部分まで、その力を遺憾なく発揮してみせた。
22位 : サム・クック「A Change Is Gonna Come」(1964年)
サム・クックの「A Change Is Gonna Come」が書かれた背景には深い逸話がある。
あるときクックは彼の妻バーバラと共にモーテルの一室を予約したが、着いてみると黒人だという理由で宿泊を断られてしまった。クックは抵抗したが、最終的には車のクラクションを鳴らし捨て台詞を吐きながらその場を後にした。彼らは別のモーテルに向かったが、そこには警察が来ており、クックは治安妨害で逮捕されてしまった。
そのころ、クックはボブ・ディランの「Blowin’ In The Wind (風に吹かれて)」を聴いて、これほど力強い抗議のアンセムを白人が書いたという事実に感銘を受けてもいた。前述の事件とディランからの影響がきっかけとなって、クックは人種差別の問題を取り上げた楽曲を書こうと決意したのだ。
その決断により多くの白人リスナーが離れることは彼も覚悟していたが、それでも主張をして変化を起こそうと決め、ストリングスが特徴的な趣深い名曲に思いを乗せた。その決断は人類にとって幸運だったといえよう。
21位 : アルトン・エリス「I’m Still In Love With You」(1967年)
“キング・オブ・ロックステディ”と評されたアルトン・エリスの「I’m Still In Love With You」ほどに、ジャマイカ音楽の精神を巧みに捉えた楽曲は少ない。一度聴けば耳に残る同曲は、1967年のリリース当時から現在に至るまでレゲエ、ロックステディ、その他メインストリーム音楽におけるさまざまな派生ジャンルの進化に多大な影響を及ぼしてきた。
エリスのオリジナル・ヴァージョンの発表以来、そのビートは数多くのスターたちに応用されてきた。1977年に世界的なセンセーションを巻き起こしたアルシア&ドナの「Uptown Top Ranking」や、2002年のショーン・ポールによるカヴァーなどはそのごく一部だ。
同曲は新旧問わず幅広いミュージシャンに影響を与えてきた不朽の名曲だが、オリジナルに匹敵する力強さを持つカヴァーは数少ない。
20位 : アイク&ティナ・ターナー「River Deep Mountain High」(1966年)
「River Deep Mountain High」の始まり方はありふれている。ティナ・ターナーの歌声が見事なのは言うまでもないが、バック・コーラスと賑やかな演奏に乗ったその歌声は、シンガーとして名高い彼女の象徴的なパフォーマンスと比べて特別優れているとは言い難い。
しかし、30秒くらい経つと事態は一変し、彼女の歌声はまるでネオンの看板のように一際輝きを放ち始める。突如として彼女は、同世代で最高のヴォーカリストとしての真価を発揮するのである。かすれ気味の声に激しい感情を込めた、これぞスターといえる名演だ。
同曲のプロデュースを手がけたのはフィル・スペクター。レコーディングには1966年当時としては多額の22,000ドルが投じられ、これは1960年代の楽曲制作費として最高レベルの金額であった。スペクターは彼の代名詞である“ウォール・オブ・サウンド”を作り出すため、21人ものスタジオ・ミュージシャンをターナーのバックに起用。ヴォーカルのレコーディングは特に過酷で、ターナーの語るところによれば、汗をかきすぎて最後にはブラジャー一枚でレコーディングに臨んでいたという。
そんな伝説とドラマのある同曲はターナーのキャリアにおける最高到達点のひとつであり、彼女が携わった数々のヒット曲の中でも驚異的な偉業だ。
19位 : クリーデンス・クリアウォーター・リヴァイヴァル「Fortunate Son」(1969年)
クリーデンス・クリアウォーター・リヴァイヴァルの「Fortunate Son」でジョン・フォガティが叫ぶように歌い始めたとき、どの映画が頭に思い浮かぶだろうか。『フォレスト・ガンプ』『スーサイド・スクワッド』、それとも『ローガン・ラッキー』だろうか。いずれにせよ、同曲は映画業界で引っ張りだこのめずらしいヒット曲である。
また、情熱と解放感に溢れた同曲は、アメリカ音楽史に残る優れたプロテスト・ソングのひとつとしても知られている。そして、幾度となく映画に使用されているにも関わらず、その力が失われることはないのだ。
18位 : ジェファーソン・エアプレイン「White Rabbit」(1967年)
「White Rabbit」の構成は山登りを想起させる。ひたすら盛り上がり続けて頂点に達すると、そこで終わってしまうのだ。
1967年にリリースされた同曲は、『不思議の国のアリス』から直接的に影響を受けている。バンドのヴォーカリスト、グレイス・スリックは、『不思議の国のアリス』のような小説を子供たちに読み聞かせておいて、その子供たちがドラッグに手を出すと困惑する親たちへの非難として歌詞を書いた。
「アリスに聞いて、彼女なら分かると思うから (Go ask Alice, I think she’ll know) 」という一節はまさに1960年代を象徴している。霊が乗り移ったかのようなスリックの歌声に合わせて演奏の緊張感は高まっていき、最後には誰もが知る (しかし誰も高くて歌えない) 恍惚としたコーラスを迎える。
17位 : ニール・ダイアモンド「Sweet Caroline」(1969年)
ニール・ダイアモンドには一度話を整理してもらいたい。1960年代の名曲である「Sweet Caroline」の誕生秘話に関して、この有名シンガーの話は二転三転しているのだ。
当初は、幼少期のキャロライン・ケネディの姿から着想を得て、若さの喜びを明るいサウンドで表現した楽曲だと話していた。だが後になって、彼の妻であるマーシャに捧げた楽曲だが、歌の尺に合うように名前を変えたと別の説明をしている。
いずれにせよ、この曲は時代を越えたアンセムとなり、世界中のニューヨーク・ヤンキース・ファンがひどく恐れる楽曲にもなった。フェンウェイ・パークで、ボストン・レッドソックスが8回裏の打席につく前に流されるようになったからだ。
このように、内容はスポーツとは一切関係ないながらもスポーツ・ソングとして親しまれているめずらしい楽曲であり、ひとりの女性のために書かれた大ヒット曲は今や皆で一緒に歌える定番曲となっているのだ。
16位 : レイ・チャールズ「Georgia On My Mind (我が心のジョージア)」(1960年)
「Georgia On My Mind」は元々1930年にホーギー・カーマイケルとスチュアート・ゴレルが作曲し、同年にホーギー・カーマイケルが初めてレコーディングした。だが同曲は、レイ・チャールズの1960年のアルバム『The Genius Hits The Road』に収録されてから、事実上彼の楽曲になった。
というのもチャールズのヴァージョンは、そこから生まれたウィリー・ネルソン、マイケル・ボルトン、ウェス・モンゴメリーのカヴァーを含め、アメリカの音楽史を代表する人気曲といえるからだ。中でも、ネルソンがチャールズの葬儀で披露したパフォーマンスはこれ以上ないほど感動的だった。
チャールズのヴァージョンでは、彼の滑らかなピアノの和音やバック・コーラス、うねるようなストリングスに乗って彼の声が高らかに響く。1979年には正式にジョージア州の州歌として制定され、州の住民にとって最も大切な音楽として公に認められた。
15位 : ジミ・ヘンドリックス「All Along The Watchtower」(1968年)
1967年、ボブ・ディランのソフト・ロックの名作『John Wesley Harding』がリリースされた後の事だ。ディランのマネージャー、アルバート・グロスマンの下で働いていた広報係のマイケル・ゴールドスタインが、ジミ・ヘンドリックスにそのレコードを渡した。ヘンドリックスはその中から「All Along The Watchtower」を選び、オリジナルとは全く異なる異次元の楽曲に仕上げたのだった。
当初、彼はトラフィックの伝説的メンバーであるデイヴ・メイソンを12弦ギターに起用していた。だがベーシストのノエル・レディングがレコーディングに対する不満から去ってしまったため、ヘンドリックスは予定を変更しメイソンにベースを弾かせている。結果として完成した同曲のように、混沌に満ちたサウンドを何でもないように聴かせるのは並大抵の事ではない。そしてこれほど大胆なアレンジをヘンドリックスほど容易くやってのける者はいないのである。
14位 : マーヴィン・ゲイ「I Heard It Through The Grapevine (悲しいうわさ)」(1968年)
タミー・テレルとのデュエット曲「Ain’t No Mountain High Enough」とどちらを選ぶか悩んだが、こちらの方が1960年代のマーヴィン・ゲイを決定付けた楽曲だと判断した。マーヴィン・ゲイの「I Heard It Through The Grapevine」は、当初シングルとしてリリースされていかったが、モータウンではよくあることだが、同曲もレーベル内の多くのアーティストにレコーディングされていた。そのうちグラディス・ナイト&ザ・ピップスのヴァージョンがヒットしたため、ベリー・ゴーディは同曲をこれ以上シングル・カットしないことにしたのだ。
だがマーヴィン・ゲイのアルバム『In the Groove』に収録されて店頭に並ぶやいなや、同曲はラジオでひっきりなしに流れるようになった。そこで、ゴーディは考えを変えてシングルとしてリリース。同曲はチャートで1位を獲得し、当時のモータウン史上で最も売れたシングルとなった。
なお、それまでその記録を保持していたのは、もうひとつの1960年代の名曲、グラディス・ナイト&ザ・ピップスの「I Heard It Through The Grapevine」だ。
13位 : ムタンチス「A Minha Menina (可愛いあの子)」(1968年)
今でもまだ時代はムタンチスに追いついていない。「A Minha Menina」は、1960年代後期にリリースされた未来の音楽だ。彼らはザ・ビートルズのようなバンドが世界中どこでも人気だと証明するとともに、そうしたスタイルを参考にして驚くようなアイディアを生み出す新しいグループがいることを世界に知らしめた。
南米出身のムタンチスはジョルジ・ベンの楽曲に、ヘンドリックス風のギター・ソロとバーバーショップ音楽を思わせるコーラスを加えて、騒がしく疾走感のある貨物列車のような1曲に変えてみせた。ムタンチスは境界をいとも簡単に壊し、あらゆる先入観を踏み越えて、音楽の力に秘められた唯一の真理を追い求めた。
12位 : マーサ&ザ・ヴァンデラス「Dancing In The Street」(1964年)
「Dancing In The Street」には、最初から大きな意味が込められていたわけではない。作曲はウィリアム・”ミッキー”・スティーヴンソン、アイヴィ・ジョー・ハンター、マーヴィン・ゲイの3人。もともとスティーヴンソンは、デトロイトの路上で壊れた消火栓から水を浴びて涼む子供たちを見たことから一部の着想を得たという。
しかし1960年代中期には人種間の緊張が高まっていたことから、黒人活動家に反抗のアンセムとして使用された同曲は、ジム・クロウ法に反対するデモ参加者たちを街中に溢れさせた。リリース当初から絶大な人気を誇っていたが、時代を越えて力強く響くのはアメリカの歴史における重要な一時代を象徴する楽曲だからでもあるだろう。
11位 : オーティス・レディング「(Sittin’ On) The Dock Of The Bay」(1968年)
哀愁漂う小品「(Sittin’ On) The Dock Of The Bay」をレコーディングした数週間後、オーティス・レディングは飛行機事故でこの世を去った。そのため同曲は、1960年代を通してスタックス・レコードの繁栄に携わった彼を偲ぶ、この上ない遺作になった。
潮の満ち引きを眺めながら自らの人生を省みるというテーマは、一見シンプルながら万人に共感できるもので、リスナーは楽曲の空白を好きなように思い描くことが出来る。また、口笛が入る終結部にも自由な解釈の余地が残されている。
リスナーそれぞれの受け取り方次第で、のんきな感じにも孤独な感じにも聞こえるのだ(共同作曲者のスティーヴ・クロッパーによると、口笛を吹いたのはレディングが単に考えていたアドリブを忘れたかららしい)。
10位 : ザ・フー「My Generation」(1965年)
ピート・タウンゼントが所有していたパッカード社の霊柩車は、ひどくエリザベス女王の気分を害したようだ。女王は日課のドライヴ中にこの車を目障りに思い、レッカー移動するよう指示したという説がある。タウンゼントは、この不当な扱いへの怒りを「My Generation」に込めたのだろう。
「My Generation」は承認欲求を抱えた世界中のはみ出し者たちにとっての1960年代のアンセムだ。この曲は周囲に馴染むことを説いているのではなく、馴染めない者も認められるべきだと歌っている。
また、同曲の歌詞はロックンロールの歴史を変えた。ロジャー・ダルトリーがお得意のあざけるような調子で歌う「老いぼれる前に死にたい (I hope I die before I get old)」という一節は、それ以来反抗的な若者が両親に吐き捨てるお決まりのセリフになった。
演奏面では、モッズ色の強いザ・フー初期の多くの楽曲と同じく、同曲もアメリカのリズム・アンド・ブルースから強い影響を受けている。そのことは、歌詞をコール・アンド・レスポンスの形で歌うアレンジに顕著だ。
加えてダルトリーが時折みせる、どもるような歌い方も議論の的となってきた。覚醒剤でハイになったモッズを真似ているのではとの見方があったからだ。ダルトリーにどのような意図があったにせよ、彼のその歌い方は1960年代でも特に強烈なインパクトを残している。「My Generation」は時代を象徴する楽曲であり、コミュニティに属さない全ての人々にとってのアンセムなのである。
9位 : ザ・ロネッツ「Be My Baby」(1963年)
この曲の「ドン、ドドンチャ」というドラムのパターンは、エルヴィスや星条旗くらいアメリカのポップ・カルチャーに深く根付いている。このハル・ブレインによるドラムは数え切れないほど多くのミュージシャンに模倣されたが、彼のスネア・ドラムのサウンドに匹敵するものはほとんどない。
作曲はフィル・スペクター、ジェフ・ベリー、エリー・グリニッジの3人によるもの。その譜面にロニー・スペクター率いるザ・ロネッツが命を吹き込み、若者の恋愛における純真さと情熱を見事に表現した。スペクターは自らのプロデュースの手法を「ロックンロールへのワーグナー的アプローチ」と表現したが、それはやがて“ウォール・オブ・サウンド”のスタイルに発展していく。
「Be My Baby」はフィル・スペクターがレコーディングにフル・オーケストラを採用し始めた最初期の楽曲であり、以降彼はその編成を何度も取り入れることになる。
8位 : ザ・テンプテーションズ「My Girl」(1965年)
1960年代を代表する1曲「My Girl」にはあらゆる要素が詰め込まれている。映画音楽のようなストリングスに、王様を宮廷に迎えるかのようなホーン隊、そしてカントリー・ウェスタン風の骨のあるギターも聴こえてくる。同曲はデヴィッド・ラフィンをリード・ヴォーカルに起用した最初の楽曲だが、彼にとってこれ以上ないデビューになった。
同曲はもともとスモーキー・ロビンソンが、ラフィンをヴォーカルに迎えることを念頭に、自身のグループであるミラクルズ向けに書いたものだった。だがテンプテーションズのメンバーがロビンソンを説得して、楽曲を譲り受けたのである。ロビンソンのその後のキャリアを考えれば、楽曲を手放したこともあまり大きな損失ではなかっただろう。
7位 : ジェームス・ブラウン「I Got You (I Feel Good)」(1965年)
音楽の歴史において、ジェームス・ブラウンの最も有名な楽曲「I Got You (I Feel Good)」のリリースを越える衝撃的な出来事があっただろうか。確かにこれに“並ぶ”瞬間はいくつかあっただろうが、これを“越える”衝撃はなかなか思い浮かばない。
ブラウンは同曲で1960年代における“クール”を再定義するとともに、自己愛に満ちたファンク・ミュージックでリスナーを虜にし、主流だったロックやソウルの世界にまで勢力を拡大した。同曲は“セルフケア”という単語が生まれる以前に、自らの心の健康を保つその方法論を実践したような内容だった。
また彼は、一般的に各小節の2拍目と4拍目を強調するロックとは対照的に、1拍目を強調することで発展の途上にあったファンクというジャンルの確立に貢献した。この特徴によって、文字通り“ファンク”を“ファンキー”なものにしたのだ。そして同曲や「Papa’s Got A Brand New Bag」その他多くの楽曲によって、現代の音楽の歴史を永遠に変えたのである。
6位 : ボブ・ディラン「Like A Rolling Stone」(1965年)
スネア・ドラムの一音とそれに続く短いバス・ドラムの一音、その後は幕が上がるだけだ。もう二度と元には戻れない、音楽の新たな歴史が始まる。その幕が上がるまでの心の準備の時間は一瞬しかない。
ボブ・ディランはそんな風に、1965年の「Like A Rolling Stone」で音楽史を塗り替えた。この挑戦的な楽曲をディランが書き始めたのは、特に過酷だったUKツアーを終えたころだった。その心理状況から生まれた攻撃的なエネルギーが、暖かく曲がりくねるようなオルガンのフレーズを新鮮な響きに変えている。
タンバリンは弱拍に繊細なアクセントを加え、ラグタイム風のピアノは楽曲に古めかしい感じを与えている。そのように楽器陣が完璧なフォーク・ロック・サウンドを聴かせる中でも、一番際立っているのはやはりディランのパフォーマンスだ。「絶対に妥協はしないと言っただろう (you say you never compromise) 」や「どんな気分だい? (How does it feeeeeel?) 」という詞は、当時の人びとの反抗心を呼び覚ましたのである。
5位 : アレサ・フランクリン「(You Make Me Feel Like) A Natural Woman」(1967年)
「(You Make Me Feel Like) A Natural Woman」でアレサ・フランクリンが見せた不朽のパフォーマンスからは、ゴスペルの影響が色濃く感じられる。作家のアンソニー・ヘイルバットはそのことをこう表現している。
「ザ・ビートルズがインドの導師たちを使って商売をした一方で、アレサはゴスペルのルーツを深掘りした。彼女のキリストは彼らのマハリシに対抗したのだ」
同曲は、アトランティック・レコードの重役であるジェリー・ウェクスラーの助けを借りて、キャロル・キングとジェリー・ゴフィンが作曲したもの。だがその楽曲に巧みな手腕で抑揚をつけ、劇的な演出を加えたのはアレサだ。
ブリッジ部分では直前のコーラスの激しさを保ったまま、最高潮に達する最後のコーラスへと向かっていく。この素晴らしいパフォーマンスが、「(You Make Me Feel Like) A Natural Woman」を1960年代屈指の1曲にした。
4位 : ザ・ローリング・ストーンズ「(I Can’t Get No) Satisfaction」(1965年)
ローリング・ストーンズの代表曲をひとつだけ選ぶのは不可能だ。だが強いてひとつを選ぶとすれば「(I Can’t Get No) Satisfaction」こそが制作背景、インパクト、文化的な重要性から考えてふさわしいだろう。その制作背景を紹介しよう。
キース・リチャーズは寝ている時でさえ、起きている一般人よりも上手く曲を書くことが出来た。リチャーズは全く気が付かないまま「(I Can’t Get No) Satisfaction」のリフを作り、テープ・レコーダーに簡単なデモをレコーディングしたのだという。そのデモの中には、アコースティック・ギターでリフを2分間ほど演奏した後に、彼がレコーダーを落として眠ってしまう音まで入っている。
そんな同曲は、アメリカでは1965年6月にシングルとしてリリースされ、同年7月発表のアルバム『Out Of Our Heads』にも収録。だが本国英国では、歌詞に性的な含みが強すぎるという理由で、当初は海賊放送でしか聴くことが出来なかった。
3位 : ビーチ・ボーイズ「Good Vibrations」(1966年)
当初はサーフィン、車、女の子に目がないジャン&ディーンのようなグループだと見なされていたビーチ・ボーイズは、アルバム『Pet Sounds』や「God Only Knows(神のみぞ知る)」のような楽曲でその芸術性の高さを証明した。
「Good Vibrations」はそんな彼らによる1960年代ポップの傑作で、バンドの伝説的作品『Pet Sounds』をも越えてしまった奇跡の1曲だ。また、同曲の制作に当時最高レベルの費用がかけられたことは驚くに値しないだろう。もちろん、それに相応しいサウンドだからだ。
この渦巻くようなサウンドはブライアン・ウィルソンのプロデュースによって生み出されたが、これはスタジオ技術をひとつの楽器として扱う次世代のアーティストを先駆けたものだった。同曲の基本的なアイディアを考えたのはブライアンで、後からそこに歌詞を付けたマイク・ラヴはこの曲を「サイケデリックのアンセム、あるいはフラワー・パワー運動に捧げる楽曲」と呼んだ。それにしても驚くべき捧げ物だ。
2位 : ザ・ビートルズ「Come Together」(1969年)
イントロの名ドラム・フィルに、クランチ・サウンドのギター、そして印象的なヴォーカル、どこを取っても「Come Together」以上の楽曲はなかなか見当たらない。もちろん本リストに加えるべきザ・ビートルズの楽曲がほかにも25曲くらいあることは認めよう。しかしこの曲こそが本ランキングに相応しい。
そんな同曲には、まさに1960年代らしい逸話がある。誕生のきっかけは、ティモシー・リアリーがロナルド・レーガンの対立候補としてカリフォルニア州知事に出馬する際、選挙運動用に曲を書いて欲しいとジョン・レノンへ依頼したことだった。だが結局、リアリーはマリファナ所持で逮捕。話は白紙になってしまった。
作詞・作曲はジョンによるものだが、彼とポール・マッカートニーのふたりの名がクレジットされている。それでもよく聴けば、自分を自嘲的に描くジョンらしい歌詞であることがわかる。この点については、ザ・ビートルズの歴史に詳しいジョナサン・グールドも同じ見解を示している。
1位 : ニーナ・シモン「Sinnerman」(1962年)
素早く軽快なハイ・ハット、取り憑かれたようなピアノ、疾走感あるギター。「Sinnerman」ではその全てがニーナ・シモンを引き立てている。
同曲におけるパワフルなヴォーカルは、彼女の楽曲の中でも1、2を争うものだ。また、人種、宗教、そして音楽について歌った同曲は、人の心を動かし続けるアンセムであり、アメリカ音楽史における重要性も大きい。そこでは、太陽のようなエネルギーと僧侶のような抑制が見事に共存している。
そして10分という長さながら、一瞬たりとも無駄がない。中間部分の手拍子のひとつひとつから、シモンが歌う「パワー」という言葉のひとつひとつに至るまで全てが完璧なのだ。音楽の力を誰よりも理解していた彼女が作り出した「Sinnerman」は、最高の芸術作品なのである。
Written By Sam Armstrong
本記事に登場する楽曲おさめたプレイリスト
Best 60s Songs
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2022年10月28日発売
フィジカルは全6形態
① 5CDスーパー・デラックス
② 2CDデラックス
③ 1CD
④ 4LP+7インチ・シングル:スーパー・デラックス
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2022年6月17日発売
日本盤3CD / 日本盤1CD / 6LP / 2LP
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