ベルリンの壁と音楽:東西ドイツのベルリンで生まれた音楽と、壁崩壊に寄与したアーティスト
21世紀のベルリンは、”ベルリンの壁”で隔てられていたあの場所と同じ街とは思えない。再建された現在のドイツの首都は活気に満ち、外向的で未来志向である。だが1961年8月13日から1989年11月9日まで30年弱の間、ベルリンは物理的にも思想的にも分断されていた。コンクリートの壁が資本主義の西ベルリンと共産主義の東ベルリンの間を引き裂いていたのだ。
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4メートルの壁ができるまで
ベルリンの街が西側と東側の境界としての独特な存在になったのは、1945年8月のポツダム宣言 (第二次大戦に勝利した米英露の連合国間の政治協定) がきっかけだ。同宣言が大戦後のベルリンの軍事占領と再建に繋がった。
結果として、街の西部は西側諸国 (イギリス、アメリカ、フランス) の、東部はソ連のそれぞれ管理下に置かれた。1949年までにソ連は、東ベルリンを共産国のドイツ民主共和国 (GDR) の首都に決定。だが西側諸国はGDRによる東部の統治を正式には認めなかった。
俗な言い方をすれば、裕福な西ベルリンに住む人の多くは比較的生活水準の高い暮らしをする一方、東ベルリン市民は緊縮財政を強いられることになった。そうして1950年代後半から1960年代前半にかけて、東ドイツから数十万の市民が西に流出。これに頭を悩ませたGDRは、これ以上の流出を防ぐため最終的に壁を建設した (西側諸国から非難を受けたものの阻止されることはなかった) 。
1961年8月にGDRが建設を始めた当時は原始的な有刺鉄線を引いただけだったが、最終的にベルリンの壁は約4メートルの高さになった。それから長い歴史を経て、戦車のバリケードや地雷など壁の防衛は更に強化されていった。(下記ビデオはベルリンの壁を再現したCG)
文化の隆盛:タンジェリン・ドリーム
そんな中、1960年代から1970年代のベルリンでは冷戦期の断絶や社会の分断を背景に、アンダーグラウンドの文化が盛り上がりを見せ、過激さをもった新興の (そしてあらゆる信条の) ミュージシャンが後進に道を開いた。それはベルリンがひとつだった1920年代から1930年代にかけてマレーネ・ディートリッヒやベルトルト・ブレヒト、クルト・ヴァイルらが活躍したのと似ていた。
例えば、現在の電子音楽は西ベルリンの革新的グループ、タンジェリン・ドリームなしでは有り得ないだろう。不屈の精神をもつエドガー・フローゼを中心として1967年に結成された同グループの初期作品 (壮大かつ冷ややかな1972年のアルバム『Zeit』など) は、アンビエント音楽の成立に大きな影響を与え、”クラウトロック”と呼ばれるドイツの実験的音楽の種をまいた。彼らが70年代にヴァージン・レコードから発表した伝説的なアルバム (『Phaedra』『Rubycon』など) では、広く使われるようになるはるか前にシーケンサーが取り入れられた。
タンジェリン・ドリームの歴史においてはベルリンという街の存在感も大きい。1986年発表のライヴ・アルバム『Pergamon』は、彼らが共産主義のGDRで演奏した初めての”ロック”・バンドになった夜のドキュメントで、1980年1月31日、東ベルリンの共和国宮殿で行われたものだ。そして、キャリアの転換点になった1979年作『Force Majeure』は、ベルリンの伝説的なハンザ・スタジオで制作されたものだ。
ハンザ・スタジオ:壁のそばのハンザ
有名なレコーディング・スタジオのルーツは1962年に遡る。ピーターとトーマスのマイゼル兄弟が西ベルリンのヴィルマースドルフにハンザ・レコード (後にボニー・Mやイギー・ポップらの作品のヨーロッパでのリリースを手掛けた) を設立したのが事の始まりだ。
自分たちのスタジオが欲しかった兄弟は、西ベルリンのケーテナー通りにあったスタジオを1965年に借り上げた。そこはもともとアリオラ・レコードの制作施設だったが、1974年にハンザ・スタジオとして生まれ変わった (”Hansa by the Wall / 壁のそばのハンザ’とも呼ばれた) 。
ハンザの音響の良さは評判となり、1970年代には名の知れたスタジオとなった。デヴィッド・ボウイとブライアン・イーノが滞在し、ボウイの名高い、ベルリン3部作 (『Low』『Heroes』『Lodger』) の大半の作曲やレコーディングを行ったこともハンザを有名にした。そしてベルリンの街自体もボウイの生活を一変させた。彼はアメリカでの名声へのプレッシャーから逃れ、1976年には西ベルリンのシェーネバーグ地域で質素な生活を送るようになった。
ボウイの親友であるイギー・ポップは当時、ハウプト通りにあるアパートでボウイと共同生活を送った。そこでボウイは、高い評価を得たイギーのソロ・アルバム『Idiot』と『Lust For Life』 (どちらも1977年のリリース) の作曲や制作に大きく関わった。
SO36とキリング・ジョーク
ベルリン滞在時、ボウイとイギーはベルリンの旬なナイト・スポットであったクロイツベルクのSO36によく通っていた。クロイツベルクの郵便番号にちなんでつけられたSO36は1978年にオープン、ニューヨークの伝説的クラブCBGBのドイツ版ともいわれ、世界の名だたるパンク・バンドやオルタナ・ロックのアーティストのほとんどがそこで演奏してきた。同クラブはすぐにベルリンで訪れるべきスポットとして知られるようになり、ロンドン出身のポスト・パンク・バンド、キリング・ジョークは同クラブにちなんだ「SO36」という楽曲を1980年のデビュー・アルバムに収録したほどだ。
ベルリンの街はキリング・ジョークに強い印象を残したようだ。彼らは後の1984年、ハンザ・スタジオにて彼らのブレイクのきっかけになったアルバム『Night Time (暴虐の夜) 』 (プロデュースはローリング・ストーンズも手掛けたクリス・キムジー) をレコーディング。
ベルリンの壁が崩壊した後も、多くの人に愛された同スタジオは重用され続けた。1980年代を通して、ハンザ・スタジオではデヴィッド・シルヴィアンの『Brilliant Trees』 (1984年) やスージー&ザ・バンシーズの『Tinderbox』 (1986年) などの重要作が生まれ、それ以降も実績を伸ばし続けている。
1991年、U2は音楽性を進化させた『Achtung Baby』の最初のレコーディング・セッションをハンザ・スタジオで行った。スノウ・パトロールの『A Hundred Million Suns』やR.E.M.が2011年に発表したラスト・アルバム『Collapse Into Now』も21世紀に入ってハンザで制作された名作のごく一部にすぎない。
ノイエ・ドイチェ・ヴェレ:東ベルリンのアーティスト
ベルリンの壁にほど近いハンザ・スタジオは時代を象徴するレコードの数々を生み出してきたが、東側では厳しい共産主義政権に芸術表現が抑圧されていた。歌詞は当局に検閲され、演奏は日々GDRの悪名高い秘密警察 (シュタージ) に監視されることで、東ドイツの才能は大きく損なわれた。それでも1970年代から1980年代にかけて、地元からプーディスやカラット、シティといった”オストロック” (東のロックの意) のグループが登場し、壁の両側で人気を集めた。
また、東ベルリンからは真の世界的スターも生まれた。パンク黎明期のスターであるニーナ・ハーゲンは、1976年に義父でシンガー・ソングライターのヴォルフ・ビーアマンが市民権をはく奪されると、彼を追って西ドイツのハンブルグに渡った。1978年に彼女がCBSからリリースしたデビュー・アルバム『Nina Hagen Band』は批評家から高い評価を得て商業的にも成功した。
ニーナ・ハーゲンは、D.A.Fやトリオ、ネオンベイビーズら新興の” Neue Deutsche Welle (ドイツのニュー・ウェイヴの意) ” を代表するグループらに影響を与えた。しかし、小さいが活発な東ベルリンのパンク・コミュニティ出身で長く活躍したのは彼女だけではない。後にラムシュタインを結成するパウル・ランダースとクリスチャン・ロレンツも、1980年代中盤にフィーリング・Bというオストパンク・グループから出発した。
「最もエモーショナルなパフォーマンスのひとつになった」
1980年代後半にベルリンで行われたいくつかの音楽イベントは、その都市の後の激変に寄与している。1987年6月、デヴィッド・ボウイはベルリンに凱旋し帝国議会前でコンサートを行った。会場は壁のすぐ近くだったため、多くの東ベルリン市民が壁のそばに集まり、禁止されていた西側の音楽を漏れ聴いていた。こうして双方のベルリン市民が同じ演奏を、隔てられてはいるがほとんど一緒に聴くことになったのだ。
ステージに上がったボウイは、観客にドイツ語でこう言った。「壁の向こう側にいる友人たちにも挨拶をしよう」その後で彼は「Heroes」を歌った。その約10年前、冷戦の恐怖と暴虐の真っただ中にあったベルリンでレコーディングした曲だ。ボウイは後年、パフォーミング・ソングライター誌の取材でこう回想している。
「僕の最もエモーショナルなパフォーマンスのひとつになった。涙が出てきたよ。東ベルリンの人も何人かは会場に来ていると聞いていたけど、向こう側の壁のそばには何千人も集まっていた。壁に隔てられたダブル・コンサートのようなものだった。向こう側からも歓声や、一緒に歌う声が聴こえてきたんだ。ああ、今でも言葉に詰まってしまう。僕は心を痛めていたんだ。あんなことは人生で初めてだったし、もう二度と起こらないだろう」
「この壁を壊すんだ」
ボウイのステージから一週間後、米国大統領のロナルド・レーガンは西ベルリンを訪れた。有名なブランデンブルク門の前に立ち、レーガンはソ連最高指揮者のミハイル・ゴルバチョフに「この壁を壊すんだ」と求めた。レーガンの言葉はボウイのコンサートとともに、そのころにはひと世代分以上存在していた壁に関する情勢を変化させていった。
翌年の1988年7月19日、ブルース・スプリングスティーンとE・ストリート・バンドはその一歩先へ進んだ。”Rocking The Wall”と銘打ったこのコンサートは東ベルリンで行われ、30万の観客を集めてテレビでも放映された。スプリングスティーンがドイツ語で観客に語った言葉は有名だ。
「おれは政府に反対しに来たんじゃない。いつかすべての障壁がなくなることを願ってロックンロールをやりに来たのさ」
1989年の前半、東ドイツを長らく統治してきたエーリッヒ・ホーネッカーは、ベルリンの壁は50年、100年経っても崩れないと不吉にも予言した。だがポーランドやハンガリーなど近隣国での同年の共産主義政権の終結は、その後数か月での東ドイツの解体を引き起こした。そして、ホーネッカーの失脚と彼の政権の壊滅で、1989年11月9日に以前は考えられなかった壁の崩壊が起こった。ニュースの速報ではこう報じられた。
「今日は歴史的な日だ。GDRは、ただちに国境をすべての人に開放すると宣言した。壁に作られた門戸は開かれている」
それに続くベルリンの様相の変化は、1990年夏のドイツ再統一に繋がった。当然のように、音楽も街の変化を反映していた。曲自体は数年前に完成していたものの、マリウス・ミュラー=ヴェステルンハーゲンの「Freiheit」(表題は”自由”を意味する) は人々のあいだで統一のアンセムとみなされた。また、スコーピオンズの代表的なパワー・バラード「Wind Of Change」(同じく作曲はベルリンの壁崩壊前) はドイツに留まらずヨーロッパ中のチャートで頂点に立ち、アメリカでも最高4位を記録した。
1990年7月21日、ピンク・フロイドの元中心メンバーだったロジャー・ウォーターズがコンサートを開催。バンドの1979年のアルバム『The Wall』所収の楽曲を演奏し、同ステージは世界的な称賛を浴びた。会場はポツダム広場とブランデンブルク門の間の空き地で、かつてはベルリンの壁沿いの無人地帯であった場所だった。
新たな創造性の爆発
しかし壁崩壊にまつわるサウンドトラックを集めようとすると、どうしてもテクノやハウス・ミュージックが中心になる。ベルリンにおける伝説的なクラブ文化は1988年、壁がまだ存在した時代に興った。ドクター・モッテやウエストバム、キッド・ポールらベルリンのテクノ・シーンの重鎮たちが、クロイツベルクのケーペニック通りにある地下のクラブUFOでオール・ナイトのアシッド・クラブ・レイヴをやるようになったのが事の始まりだ。
ドクター・モッテはこのパーティを街の中で開こうと思い立った。人を集めてトラックを使い、大音量を流すのだ。ラヴパレードと名付けられたこのイベントは1989年に初めて開催され、2003年まで毎年行われていた。最も大きな話題となった1999年には150万人がベルリンの街で楽しげに踊った。
ベルリンの壁の崩壊は芸術の空白地帯を生むどころか、様々なジャンルで新たな創造性の爆発を引き起こし、テクノや電子音楽はその中でも大きな役割を果たしてきた。これはトレゾアやビーピッチ・コントロール、シットカタプルトなどの名レーベルが1990年代のベルリンに作られたことが大きい。
しかしそれは物語の一部にすぎない。ベルリン出身のパンク、インディ、オルタナなどのグループも新 (ビートステイクス、ヴィア・ズィンド・ヘルデン) 、旧 (アインシュテュルツェンデ・ノイバウテン) 問わず世界的に知られるようになった。その後21世紀に入ると、ダウンテンポからダンスホール、地元のヒップホップまで無数のジャンルがベルリンに生まれた。
悪名高い壁の崩壊から30年が経ち、今や変化と多様性への飽くなき探求がベルリンのもつ創造性への渇望を満たした。これからも、ひとつになった大都市は永遠に結束を保つだろう。
Written By Tim Peacock
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