ビーチ・ミュージックの歴史:太陽と砂浜と波、そしてサーフィンが音楽に与えてきた影響
大きな波が背後からやってきて、自分のサーフボードがスリリングに加速していってハングテン(*ボードの上に立ってから、ボードの先端に両足をそろえてライディングすること)寸前になったとき、それがどれほど気持ちいいことなのかご存知だろうか? たとえ生まれてから今まで1度も海に入ったことがなくても、そういうときの気分をよく知っているだろう。
なぜなら、そういう気分を「ホーダッズ / Hodads」(「サーファーではない人」を指すサーファーたちの隠語)に翻訳して伝えることを専門とする音楽のジャンルがあるからだ。それはビーチ・ミュージックだ。先に挙げた「ホーダッズ」という言葉も、1960年代のサーフ・アルバムを買った人なら知っているに違いない。
サーフ・ロックやビーチ・ミュージックは、作り手の出身地によってバリエーションがある。多くの人は、ビーチ・ボーイズを真っ先に思い浮かべるだろう。なぜなら、彼らはサーフィンを神話化して世界に広めたバンドだからだ。とはいえ、ブライアン、マイク、カールのウィルソン三兄弟をはじめとする面々が現れる前に、既にサーフ・インストゥルメンタルというジャンルが存在していた。その実質的な創始者と言える人間は、実に皮肉なことに大陸の反対側、ボストン育ちの男だった。
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ディック・デイルと”サーフ・ギター”・サウンド
リチャード・モンスールは、クインシーの郊外に住むポーランド系の父親とレバノン系の母親のあいだに生まれた。少年時代に受けた音楽面での影響は、主に家族がウクレレや小太鼓で演奏する民謡だった。やがてカリフォルニアに移り住み、ディック・デイルと名乗るようになった彼は、その民謡をエレキ楽器で演奏するというアイデアを思いつく。しかもその演奏は、速さが2倍、音量が3倍、おまけに大量のリバーブ付きというものになっていた。
デイルはサーファーだったため、自分が表現しようとしているフィーリングを心得ていた。それ以来、「サーフ・ギター」といえば、トワンギング・ギターとリバーブと打ち鳴らされるドラムスとスリリングなリフを意味するようになった。
とはいえデイルの成功は、もともとはカリフォルニアという地域に限定されていた。彼が世界中でファンを獲得するようになったのは、90年代に大々的なツアーを始めてからのことである。しかしそのサウンドを取り入れるグループは他にもたくさん存在した。
たとえばベンチャーズは、サーフ・ギター・サウンドで半世紀も続くキャリアを築き上げた。一方シャンテイズは一発屋に留まった。とはいえ、シャンテイズの唯一の大ヒット曲「Pipeline」は、このジャンルの最も象徴的なサーフ・インストゥルメンタルと言えるかもしれない。
また別の1960年代初期のバンド、トラッシュメンはレパートリーの大部分がインストゥルメンタルだったが、「Surfin’ Bird」ではドラマーにヴォーカルを任せている。
この曲の純粋なる狂乱状態は、サーフィン後のビール・パーティーの雰囲気を上手く表現していた。彼らに表現できるサーフィン関係の情景といえばそれぐらいしかなかった。というのも、このバンドは海のないミネアポリス出身だったからである。
ビーチ・ボーイズのヴォーカル・ハーモニー
ビーチ・ミュージックのヴォーカル・ヴァージョンを作るには、ビーチ・ボーイズの登場が必要だった。実のところ、彼らのレコードはサーフィンをテーマにしたものである必要はなかった。このグループが生み出したサウンドは、ドゥーワップのコーラスのバリエーションにフォー・フレッシュメン的な要素をたくさん加えたものだった。
それは実に陽気なものだったので、歌詞の内容は何であってもよかった(そして活動を続けていくうちに、彼らはありとあらゆる内容を歌詞に盛り込むことになった)。しかしその手始めとしてちょうどいい題材になったのは、メンバーの一員であるデニス・ウィルソンの大好きなスポーツ、つまりサーフィンだったのだ。
ウィルソン兄弟の長男であるブライアンは実際にサーフィンをしていたわけではないが、それは別に問題ない。彼が歌詞の中で描いていたのは、感情面での経験なのだから。とはいえ、このグループが本格的なサーフィンの曲を作るのは、アルバム『All Summer Long』の「Don’t Back Down」が最後になった。この曲は、サーフィンが危険であることを認めた唯一のビーチ・ボーイズの曲である。そしてその危険は、サーフィンで楽しむスリルの一部だった。
危険といえば、ビーチ・ボーイズの仲間であるジャン&ディーンの「Dead Man’s Curve」も忘れてはならない。この作品は、“デス・ディスク”の伝統にならって、不運なドラッグ・レースを劇的な悲劇の曲に仕立て上げた。言うまでもないことだが、波がないときにサーファーがすることと言えばドラッグ・レースしかなかった。そして「Dead Man’s Curve」は、数年後のジャン・ベリー自身の運命を不気味なかたちで予言していた。
米東海岸のビーチ・ミュージック
ビーチ・ミュージックは、アメリカ東海岸でも盛んになった。ノースカロライナのビーチは白昼堂々とシャグ・ダンスができる唯一の場所であり、この有名なダンスの伴奏となるビーチ・ミュージックはカリフォルニアのサーフィンとはまったく関係のないものになっていた。
カロライナのビーチ・ミュージックは基本的にソウルで、リズムには少しカリブ海風味が含まれており、指を鳴らして歌うような小粋な雰囲気があった。東海岸でリリースされた特に素晴らしい曲のいくつかは、のちのノーザン・ソウル・ムーブメントで再発見されるまでは地域限定ヒットでしかなかった。とはいえそのうちのいくつかは、全米チャート入りを果たしている。
その例としては、オケイジョンズの「Girl Watcher」、ビル・ディール&ザ・ロンデルスの「May I」、タムズの「What Kind of Fool Do You Think I Am?」などが挙げられる。これらの曲は、1960年代ソウルの中でも最高に気取った小生意気な部類に入る。
カロライナのビーチ・ミュージック・サウンドはニュージャージーの海岸にまで伝わり、アズベリー・パークのとある若手ミュージシャン、つまりブルース・スプリングスティーンも注目するようになった。そうして、ビーチ・ミュージックは彼の作品を形づくるさまざまな要素の1つとなった。
さらに彼のE・ストリート・バンドは、下積み時代に本物のビーチにあるクラブで演奏して修行することが多かった。カロライナからの影響はあのバンドにサックス奏者が含まれていることからもはっきりしている。とはいえ、当時のロックが非常にギター主導であったことを忘れてはいけない。スプリングスティーンは、その手の楽曲を時々ストレートに発表している(たとえば「Sherry Darling」やインストゥルメンタル曲「Paradise By The C」など)。
スプリングスティーンが作る一部の曲の歌詞はビーチ・カルチャーに浸り切っており、彼のサウンドはビーチ・ミュージックの代名詞となった。「4th Of July, Asbury Park (Sandy)」が発表されてからは、ある種のイメージを呼び起こすロイ・ビタンのピアノとニュージャージーの海岸を誰もが結びつけるようになる。
とはいえ、ニュージャージーから生まれた最も本質的なビーチ・ソングは、サウスサイド・ジョニー&ジ・アズベリー・ジュークスの「On The Beach」かもしれない。この曲には奥深い思想も何もない。聞けば、ただ純粋に楽しい時間を過ごすことができる。
楽園のジミー・バフェット
一方、ニューヨークの偉大なパンク・アーティストの中にはかなり違うビーチに行った者もいた。パティ・スミスはカリフォルニアのレドンド・ビーチに行き、その地域にいたレズビアンのサブカルチャーの話を曲の中で報告した。
一方ラモーンズはクイーンズのロッカウェイ・ビーチにしか行けなかった。地元の人たちがかわす内輪ネタでは、そこはちょっとしたゴミ捨て場だと言われていた。しかしこの賑々しい歌を聞く限り、そういう場所だとは思いもよらないだろう。
ビーチ・ミュージックは東海岸でも西海岸でも盛り上がり続けた。そしてある意味、当然のことではあるが、どちらの海岸でもカリブ海の音楽から強く影響を受けることになった。フロリダ州キーウェストは自由奔放なボヘミアン的文化圏として長らく知られていたが、70年代にはチーズバーガーとマルガリータを好んだ吟遊詩人、つまりジミー・バフェットのおかげで音楽の世界地図に名前が載るようになった。
彼は音楽のインスピレーションの多くを熱帯地方から得ていた。彼のグループにはスチールドラム奏者が正式メンバーとして在籍しており、アメリカのメジャー・バンドとしては実に珍しい存在となっている。バフェットは誰よりも海の文化をロマンティックに表現してきた。彼のショーに集まるパロットヘッド(バフェット・ファン)の群衆は、さながらビーチのないビーチ・パーティーのような様相を呈している。
サーフ・パンクスの台頭
一方カリフォルニアでは、70年代の本物のサーファーたちがパンク・ロックに熱中していた。カリフォルニア州パサディナのエージェント・オレンジは、ラモーンズとベンチャーズがそれほどかけ離れていないこと、そしてトワングとスラッシュがうまく調和していることに気づいた最初のメジャー・バンドだった。1979年に結成されたこのバンドは今も元気に活動している。
さらにマリブーでは、サーフ・パンクス(一時期ビーチ・ボーイズのドラマーだったデニス・ドラゴンを含む)がコンセプト・アルバムを立て続けに3枚作った。その内容は、ヴァレーからやってくる日帰り旅行者は俺たちのビーチからさっさと出て行けというものだった。彼らのレコードは、これまでに作られたサーフィンやパンクのレコードの中でも飛び抜けて面白い部類に入る。
一方サブライムは、ジャマイカ(あるいはツートーン・ムーブメントが盛り上がったUK(からスカを輸入した。ロングビーチにスポットライトを当てた彼らのおかげで、パンク・スカはディック・デイルのギターやビーチ・ボーイズのヴォーカル・ハーモニーと同じくらいビーチ・サウンドの象徴となった。
ビーチ・ボーイズの「Chug-A-Lug」(この中では、不健康なほど大量のルートビアを飲んでいると主張されていた)から、サブライムのヒット曲「Smoke Two Joints」(曲名にある“Joint”はマリファナを指している)まで行き着くまでの道のりはとても長いものだった。とはいえ、サウンドや嗜好品の種類が変わっても、ビーチはいつまでもビーチのまま変わりはしない。
Written By Brett Milano
2022年6月17日発売
日本盤3CD / 日本盤1CD / 6LP / 2LP
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