ミニー・リパートンが無理やり押し付けられた芸名”アンドレア・デイヴィス”とチェス・レコード
1966年10月、ほんのいっときだが、アンドレア・デイヴィスという名前の18歳のシンガーが、シカゴの音楽業界で人々の話題にのぼった。
折しもチェス・レコードが「Lonely Girl」というシングルを出したばかりで(B面は 「You Gave Me Soul」)、シカゴの東21丁目にあるギャラクシー・アーティスト・マネジメントの広報はそのリリースに合わせ、ラジオDJや音楽ジャーナリストたちに宛てて、印象的な若い女性シンガー、アンドレア・デイヴィスの写真を一斉に送りつけた。
レコードはイリノイでマイナー・ヒットとなったが、アンドレア・デイヴィスの名前がその後、レコードを飾ることはなかった。ギャラクシーはリトル・ミルトンやザ・デルズといった他のアーティストの売り込みに戻った。
だが、実は件のシンガー、アンドレア・デイヴィスは音楽業界から消えたわけではなかった。間もなく彼女は自らの持って生まれた本名、ミニー・リパートンの名で再び姿を現わし、そこからロータリー・コネクションというバンドのリード・シンガーとして、そしてソロ・アーティストとして、輝かしくも残念ながらごく短い間だったキャリアを築いていったのである。彼女のアルバムの1枚『Perfect Angel』でプロデュースを手掛けたスーパースター・シンガーのスティーヴィー・ワンダーによれば、彼女が“地球上第8の奇跡”とまで称されたあの声で仕事をした中には、本来受けるべきクレジットを受けていないものが幾つもあるのだそうだ。
では、ティーンエイジャーだったミニー・リパートンはどういう経緯で芸名アンドレア・デイヴィスという名前でレコーディングに臨むことになったのだろう? 無論、ミュージシャンが別名を使うのは珍しいことではない。ジョン・リー・フッカーがデルタ・ジョンやバーミンガム・サムといった偽名を使っていたのは、契約上の問題を回避しつつ金を稼ぐためだった。ジョージ・ハリスンはクリームのアルバムに参加する際、正体を隠してランジェロ・ミステリオーゾ(イタリア語直訳=謎の天使)とクレジットさせた。こうした変名・別名のリストはまだまだ引きも切らずだ。クリス・ゲインズと名乗ったガース・ブルックス、ジェリー・ランディスという名前を使ったポール・サイモン、Dr.ウィンストン・オ・ブギーと称したジョン・レノン等々、何しろあまりに多いために、『The Encyclopaedia Of Pop Music Aliases 1950-2000(直訳:ポップ・ミュージシャン変名百科事典1950-2000)』などという大全が出版されているくらいなのだ。
シカゴ生まれのミニー・リパートンは、15歳の時からエタ・ジェイムス、マディ・ウォーターズ、ボ・ディドリーといった有名アーティストのバッキング・シンガーとして、またザ・ジェムズというガール・グループのメンバーとして、チェス・レコードで歌い始めた。グループのメンバーはジェシカ・コリンズ、ドロシー・ハックビーにテレサ・ウェイシャムという顔ぶれで、この面々と共にミニー・リパートンは 「I Can’t Help Myself」「Let Your Hair Down」等 7枚のシングルをレコーディングした。彼女たちはまた、ザ・ガールズ・スリーやジェス、ドット&ミーといった芸名で他のミュージシャンたちのバッキング・シンガーも務めており、ザ・スターレッツ名義でノーザン・ソウルの定番曲 「My Baby’s Real」をレコーディングしたこともあった。.
ザ・ジェムズが消滅した後も、学校の放課後の時間を利用して、会社の受付兼パートタイムの秘書として働いていたミニー・リパートンは、その抜きん出た才能と快活なパーソナリティでチェス・レコードのアイドル的存在となった。音楽業界の実力者で1961年から68年までチェスのA&Rディレクターを務め、60年代ソウル・バンド・ブームを作り出したレーベルの成功の立役者、ビリー・デイヴィスにより、彼女は大事に育てられた。
ビリー・デイヴィスは、ミニー・リパートンの驚異的な歌唱声域に大いに感銘を受けており、後にザ・デルズの「There Is」やフォンテラ・ベースの 「Rescue Me」といったヒットで彼女がバッキング・ヴォーカルとしてフィーチャーされたのもそれが理由だった。彼女はピッグミート・マーカムのコメディ・シングル「Here Comes The Judge」でもその特徴的な声を披露している。エタ・ジェイムスが体調を崩したチトリン・サーキットでピンチヒッターを務めたことで、彼の彼女に対する評価は更に上がった。
ビリー・デイヴィスは彼女の声のレンジを際立たせるように、シュガー・パイ・デサントと共にティーン・バラード「Lonely Girl」を書き上げ、更にそのカップリングとしてよりアップビートな 「You Gave Me Soul」を用意して、「Rescue Me」でピアノを弾いていたチェス御用達のプロデューサーであるレナード・キャストンJr.に共同プロデュースを依頼した。
この時点でビリー・デイヴィスが「彼女のキャリアを指揮するようになっていた」と言うのはレナードの息子のマーシャルとフィル・チェスだ。レコードのカヴァー・アートワークに名前を入れる段になると、ビリー・デイヴィスは芸名を使うべきだと断言し、アンドレア・デイヴィスの方がより「ショウビズらしい名前」だと提案した。レコードはレナードとフィル兄弟がオーナーだったシカゴのラジオ局WVONで頻繁にかかるようになり、シングルは小規模ながら成功を味わった。
この余韻冷めやらぬ中でも、ミニー・リパートンは様々なバンド――レイ・チャールズのレイレッツをはじめとして――のバッキング・ヴォーカルを務めるかたわら、チェスの受付嬢としても仕事をこなした。
かつて、彼女はこの芸名アンドレア・デイヴィスに愛着を持ち、とりわけそれが彼女の“メンター(導師)”であるビリー・デイヴィスに敬意を表する苗字であるところが気に入っていた、という説がまことしやかに伝えられていたが、実際の事実はそこまで無邪気でも単純でもない。レコード制作が行なわれた際、ミニー・リパートンはまだ若く、後に彼女が友人たちに語ったところによれば、アンドレア・デイヴィスという名前でのリリースは彼女の意志に反して行なわれたとのことだった。ルパート・プルーターの著書『Chicago Soul: Music In American Life』によれば、彼女はこの名前を間もなく「毛嫌いするようになり」、レコード会社から無理やり押し付けられただけだと公言していたと言う。
MIT最古の新聞 、Tech紙に掲載されたプロフィールには更に踏み込んで、彼女が「生来のインチキ嫌いの気性から、アンドレア・デイヴィスという名前を放棄した」という記載がある。これは夫のリチャード・ルドルフの言による彼女のイメージとも合致するものだ。「ミニーの作品は昔から一貫して、商業的な成功を当て込んで作られたものではありませんでした。正しかろうが間違っていようが、彼女は自分がやりたいようにやらなければ気が済まない性格だったのです」。
1966年のザ・ジェムズの解散を受けて、レナードの息子のマーシャル・チェスはこのシンガーに新規プロジェクトの打診をし、彼女は新たなチャンスを得ることになった。マーシャル・チェスは自分のレコード・レーベル、カデット・コンセプトを立ち上げたばかりで、自前のバンドを育てたいと考えていたのだ。彼はこう語る「俺の手にはレコーディング・スタジオの鍵があった、そしてそこは夜は殆ど誰も使う人間がいなかったんだ! 俺の頭の中にはロータリー・コネクションていうバンドの構想があったんだよ、色んな人種が入り混じった、サイケデリック/ ソウル/ジャズ・グループさ」。
マーシャル・チェスはミニー・リパートンにこのバンドのリード・シンガーになって欲しいと頼み、彼女は承諾したただし、今回は自分の本名でというのが絶対条件だった。彼は付け加える「彼女はシンガーでもあり、チェスの正面受付の受付嬢でもあったわけで、俺たちはとても仲の良い友人だったんだ。ロータリー・コネクションのアイディアを練っていた時、俺が最初に話を持って行ったのは彼女だった。分かるだろう、彼女のハイノートは絶品だったからね。あの心肺機能は凄いもんだったよ。よく歌える人で思いつくのは彼女だ……そうして俺は若いバンドのメンバーたちと、彼女を引き合わせたんだ」。
マディ・ウォーターズやハウリン・ウルフと共にサイケデリックで実験性の高いアルバムを作っていたバンドは、ミニー・リパートンの加入に歓喜し、彼女と共にそれから6枚のアルバムを制作するに至った。彼らの曲の幾つかは、コンピレーション・アルバム『Minnie Riperton: Her Chess Years』 で聴くことができる。
ミニー・リパートンはその後バンドを離れ、ソロ・アーティストとして成功を収めた。アルバムのプロデューサーにスティーヴィー・ワンダーを迎えた彼女は、幼い娘のマーヤ・ルドルフをあやすために書いたメロディから生まれた至高のポップ・ソング「Lovin’ You」をレコーディングした。 しかし悲しいことに、ミニー・リパートンはまだ31歳の若さで、乳がんのためにこの世を去っている。2014年、俳優となったマーヤ・ルドルフとパートナーの映画監督ポール・トーマス・アンダーソンは、切なくも母を偲んで娘にミニーと名付けた。
ちなみにビリー・デイヴィスはその後広告業界で、自らの本名で仕事をするようになり、コカコーラのCMソング「I’d Like To Teach The World To Sing」の共作者として大いに稼いでいる。
『Minnie Riperton: Her Chess Years』にはアンドレア・デイヴィス名義の‘Lonely Girl’他、リパートンの多くの名曲が収められている。
Written By Martin Chilton
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