偉大なるヒップホップ・ソウルの草分け、アップタウン・レコード創設者アンドレ・ハレル逝去:その半生を辿る

Published on

アーバン・ミュージックの礎を築き、ヒップホップ・ソウルの草分けとして知られるアンドレ・ハレル(Andre Harrell)が2020年5月8日に59歳で逝去した。アンドレ・ハレルは自身のレーベル、アップタウン・レコードを通じて、ニュー・ジャック・スイングとヒップホップ・ソウルの時代に、R&Bとヒップホップを融合させ、現代におけるアーバン・ミュージックの景観を創造していった。

1960年、ニューヨーク州ブロンクスに生まれ、ブロンクスデールの団地で育ったアンドレ・オニール・ハレルは、地元のハンツ・ポイント・マーケットで働いていた父親から、何か自分の好きなことを仕事に就くように勧められていた。それを心に留めた彼は、高校在学中はずっと地元の宅配サービスでバイトをしながら、起業家としての本能を養っていった。

リーマン・カレッジを卒業後、最初はゴスペル系ラジオ局で、その後WINS-FMで広告営業を担当しながら下級管理職として着実にラジオ業界で昇進を重ねていったアンドレ・ハレルだったが、真の意味での教育とキャリア・トレーニングを受けたのは、有名ナイトクラブBentley’sのような、当時のニューヨークの人気スポットのゲストリストに載るようになり、そこでの交流を通じて音楽ビジネスや政治について学ぶようになってからだったという。

アーティストからレーベル幹部への転身

アンドレ・ハレルは、幼なじみのアロンゾ・ブラウンと結成したデュオ、ドクター・ジキル&ミスター・ハイドのメンバーとして、ヒップホップの形成期を垣間見る。このデュオは地元で評判になり、1981年のヒット曲「Genius Rap」で成功を収めた。スーツ姿でラップする彼らのスタイルは、後に彼がアップタウン・レコードを通して世に広めることになる“アーバン・ヒップホップ”の先駆けとなったのだ。

程なくしてデフ・ジャムの創立者ラッセル・シモンズと出会い、親交を深めていったアンドレ・ハレルは、ラッシュ・マネージメントに加わるように勧められる。そうしてすぐに副社長へと昇進した彼は、LL Cool Jのようなスーパースターを育てたことがきっかけで、自身のアーティスト活動からは引退し、代わりに新たな才能の発掘とそのプロモーション業に専念するようになった。

アンドレ・ハレルは、彼との契約に興味を示さなかったニューヨーク州マウントバーノンで活動していたラッパー、ヘヴィ・Dを発掘したことがきっかけで自身の会社をつくることを決意し、1986年にMCAの子会社としてアップタウン・レコードを設立した。

当時のヒップホップ・シーンはデフ・ジャムやトミー・ボーイ・レコードといった駆け出しのラップ・レーベルで賑わっていたが、R&Bが好きだったアンドレ・ハレルは、ヒップホップの未来を新しいジャック・スイング・サウンドに見出していた。アップタウン・レコードは、音楽だけでなくカルチャーにおいても、ヒップホップとR&Bを融合させ、ハーレム発信の剥き出しの「ゲットー・ファビュラス(成金趣味)」なスタイルとエネルギーを取り込むための場所として誕生した。

 

R&Bの様相を変えた

アップタウン・レコードは設立後からすぐに、ヒップホップグループのヘヴィ・D&ザ・ボーイズ、R&BシンガーのAL B.シュア!、新人ジャック・スイング・プロデューサーのテディ・ライリー率いるR&Bグループのガイらによるヒット曲をリリースした。

この若いレーベルはただ音楽を売るのではなく、ライフスタイルそのものを売りにしていた。アンドレ・ハレルのアイドルであるモータウンの創設者ベリー・ゴーディ同様に、アンドレはアーティストの育成とイメージ戦略において鋭い勘を持っていた。ヘヴィ・Dの、親しみやすい“ぽっちゃり系の恋人”というキャラクターと無邪気な歌詞の内容が、メインストリームにおける新たなクロスオーヴァーの波を起こすきっかけとなったのだ。

アップタウン・レコードによるイメージ戦略は、後に新人として、ヒップホップとストリートスタイルを融合し、R&Bの様相を変えたメアリー・J.ブライジとジョディシのマーケティングにおいて重要な役割を果たした。

 

アンドレ・ハレルは1991年、コメディTVシリーズ『イン・リビング・カラー』のトミー・デヴィットソンとハル・ベリーが初の主演を演じ、自身が製作を手掛けた映画『Strictly Business』によって、アップタウン・レコードの映画・テレビ業界への進出を狙った。同映画の成功により、1992年にMCAと5,000万ドルのマルチメディア契約を交わしたアンドレ・ハレルは、32歳にして黒人芸能界の大物たちの仲間入りを果たす。

「アンドレのような男はめったに現れないものです。結局のところ、このビジネスにおいては、直感的なクリエイティヴ・ジャッジが重要で、アーティストや音楽、そして観客が何を求めているかについてのアンドレの直感は絶対的に優れています」と、MCAのアル・テラー会長は当時行われたLAタイムズ紙のインタビューの中で語っていた。

その後2年間で、アップタウン・レコードはアンドレ・ハレルのリーダーシップの下、アーバン系レーベルのリーダー的な存在となっていく。彼は、レーベルを軸にした初のMTVアンプラグド特番とコンピレーション・アルバムを展開した他、ベテラン脚本家ディック・ウルフと共同製作したマイアミ・バイスをヒップホップ風にアレンジしたTVドラマ『New York Undercover』を手掛けた。

さらに、当時若く野心的なインターン上がりのA&R幹部だったショーン・コムズ(別名パフ・ダディ)を指導し、彼はこの時学んだ経営戦略を、後に自身で立ち上げ、最高経営責任者となったバッド・ボーイ・エンターテイメント(現バッド・ボーイ・レコード)で活かしていった。

ライフスタイル・エンターテインメントの起業家

1995年、アンドレ・ハレルはアップタウン・レコードを離れ、尊敬するベリー・ゴーディの後を引き継ぐかたちで、当時苦戦していたモータウンの社長に就任。それから2年後には、バッド・ボーイ・エンターテイメントの社長に就任し、急成長を遂げていた同レーベルに知恵と専門知識を提供し、ショーン・コムズを支えた。さらにその後、シンガーソングライターでプロデューサーのケネス・“ベイビーフェイス”・エドモンズ とニュー・アメリカ・レコードを共同設立した彼は、若き日のロビン・シックと契約を結び、その才能発掘における優れた直感の健在ぶりを実証する。再びショーン・コムズによって、彼が設立した音楽ネットワーク “REVOLT” の副会長に迎えられたアンドレ・ハレルは、亡くなるまでその職を全うした。

昨年、米TV局のBETはアンドレ・ハレルとアップタウン・レコードのレガシーを題材に製作したミニTVシリーズを発表していた。メアリー・J.ブライジをはじめ、セレブ・スタイリストのジューン・アンブローズ、映画プロデューサーのブレット・ラトナー、ヒップホップ・プロデューサーのピート・ロック、そしてショーン・“ディディ”・コムズなど、アンドレ・ハレルが育成に貢献した才能は数知れない。

アンドレ・ハレルは、Upscale誌のインタビューの中で、自身を「ライフスタイル・エンターテインメントの起業家」と表現していた。彼は、視聴者を人種で隔てるのではなく、エンターテイメントのためにアフリカ系の魅力的な側面を引き出すことに価値を見出した最初の指導者である。美学と音楽の両方において、鋭さが洗練されたものを創りあげていくことを知っていた彼は、ヒップホップがメインストリームのカルチャーになる未来を見据えていたのだ。

Written By Naima Cochrane



Share this story

Don't Miss

{"vars":{"account":"UA-90870517-1"},"triggers":{"trackPageview":{"on":"visible","request":"pageview"}}}
モバイルバージョンを終了