ビースティ・ボーイズのMCAことアダム・ヤウク:音楽家であり監督でもある彼の痕跡と革新的生涯

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ハリウッドのヴァイン・ストリートに建つ、かの有名なキャピトル・レコードのビルの屋上には配電盤ボックスがある。そのボックスの扉の内側には、スプレーでペイントされたビースティ・ボーイズ(Beastie Boys)のアダム・ヤウクの愛称“MCA”の文字が残されている。度胸あるこの器物損壊の犯人は、ヒップホップ界に現れた“ルネッサンス・マン”として、この地球上で過ごしたその短い時間の中で、文学的、象徴的な意味において、大きな痕跡を残した。(編注:2020年2月28日、そこに残る二人が追加している)

1964年8月5日に生まれたアダム・ヤウクは、ラップ、パンク、ロック、ファンクといったジャンルを跨ぐ最も崇拝されたグループのメンバーであり、人道主義者、そして音楽・映画ディレクター、プロデューサーとしても活躍した。80年代初期にアンダーグラウンド・パンク・バンドとしてキャリアをスタートさせたビースティ・ボーイズの曲を初めてオンエアしたニューヨーク大学のラジオ局WNYUの番組「ノイズ・ザ・ショー」でホストを務めるティム・ソマーはこう語った。

「ヤウクは出会った時から喜びに満ち溢れた人でした。彼は人に率直に接するように努め、寛容で、ウィットに飛んでいました」

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彼を際立たせたもの

マイク・ダイヤモンド(マイクD)とアダム・ホロヴィッツ(アドロック)のバンドメイトだったアダム・ヤウクを際立たせたのは、その優れた情報吸収力とそれを実生活に活かす能力だった。幼い頃から技術の達人だった彼は、子供の時に、ロードランナーのアニメからインスピレーションを受けて作った起爆装置で家の裏庭の塀を爆破したこともあった。

自叙伝『Beastie Boys Book』の中で、アドロックはアダム・ヤウクについてこう振り返っている。

「ヤウクは、ループが流行る前からテープでループを録音していた。ジミ・ヘンドリックスやスライ・ストーンがループを使ってるって聞いたから自分もやりたい、と言い出して、GoogleもYouTubeもなかった当時の俺たちは、“一体どこでそんな情報を聞いてきたの?”っていう感じだった」

サンプラーで数秒しか録音できない時代に、アダム・ヤウクは試行錯誤を重ねながらレッド・ツェッペリンの「When The Levee Breaks」のイントロ・ドラムをオープンリール式のテープでループ録音し、それが後に1,000万枚を売り上げる1986年のデビュー・アルバム『Licensed To Ill』のファースト・トラック「Rhymin And Stealin」の土台となった。

キャピトル・レコード移籍後の1989年に、主にサンプリングで構成された傑作『Paul’s Boutique』をリリースしたビースティ・ボーイズは、レコーディングで楽器を生演奏するようになり、自らのニューヨークのハードコア・パンク・ルーツを当時のヒップホップ・サウンドに取り入れていった。そうして再びベースに弾き始めたアダム・ヤウクは、ファン人気の高い1992年のアルバム『Check You Head』からの「Gratitude」や1994年の『Ill Communication』からの「Sabotage」のメイン・フックを生み出していった。

 

「彼の自信は必要不可欠で伝染しやすかった」

メンバーたち自らがアルバムのプロデュースを手掛けるようになり、スタジオで行われる様々な実験にアダム・ヤウクは夢中になった。「Check Your Head」では、段ボールで作った3メートル程のチューブをバスドラムにテープで貼り付けるという、圧倒的なドラム・サウンドをつくり出すための完璧な手法を編み出し、さらには戦略的に3本のマイクをその中に設置した。「一体誰がそんなことを思いつくと思う?アダム・ヤウクしかいない」と、マイケル・ダイヤモンドは自伝本『Beastie Boys Book』の中で記している。「彼の自信はグループに必要不可欠であり、伝染しやすいものだった。段ボールに魔法をかけて生み出したあの派手なドラムサウンドは‘Pass The Mic’で聴くことができる」。その後もアダム・ヤウクの世界観は進化を続けた。『Ill Communication』に収録されている「Sure Shot」の歌詞の中で、彼はグループが『Licensed To Ill』のイメージから離れるべきだと告げている。

I want to say a little something that’s long overdue
The disrespect to women has got to be through
To all the mothers and the sisters and the wives and friends
I want to offer my love and respect to the end
ずっと前から言いたかったことを伝えたい
女性に対するディスリスペクトはもう終わりにしょう
すべての母親 姉妹 妻 そして友人たちに
僕の愛情とリスペクトを一生捧げるよ
(“Sure Shot”のMCAのパートより)

 

精神文化、信仰、そして仏教

90年代初期にインドとネパールを広範囲に渡って旅するようになったアダム・ヤウクは、中国政府の迫害により亡命したチベット人たちと親交を深めた。その後ほどなくして仏教へと改宗し、世にその状況を知らしめるために“チベタン・フリーダム・コンサート”を開催した。1996年にサンフランシスコで始まったチベタン・フリーダム・コンサートは、毎年恒例の大規模なチャリティー・コンサートへと成長し、過去にはバディ・ガイやビズ・マーキーらと共に、U2、レッド・ホット・チリ・ペッパーズなどの大物ミュージシャンたちも出演している。

「仏教に惹かれた理由について彼は、(チベット仏教のリーダーである)ダライ・ラマが面白い人だったから、と言ってたよ」とアダム・ホロヴィッツは明かす。「もちろん彼が精神文化、信仰、そして仏教に惹かれた理由は他にもあったと思うけど、面白い人、という理由が彼らしくて納得がいった」

 

“ナサニエル・ホーンブロウワー”とは何者?

アダム・ヤウクのオルター・エゴ(表現上の別人格)であるナサニエル・ホーンブロウワーは、架空の“スイスのニューウェイブ系”映画学校の出身で、アルプスのヨーデル歌手でお馴染みのレーダーホーゼンを着用していた。1994年のMTVビデオミュージック・アワードに全身コスチューム姿で出席したナサニエル・ホーンブロウワーが、スパイク・ジョーンズが監督を務めた彼らの「Sabotage」のミュージック・ビデオが受賞を逃したことに物申すために、受賞者であるR.E.M.を遮って授賞式のステージに乱入し、その後マイケル・スタイプがふざけて彼をシンディ・ローパーと見間違う、という有名な逸話もある。

ナサニエル・ホーンブロウワー(アダム・ヤウク)は、ビースティ・ボーイズの12本のビデオ作品の監督を務め、2006年のドキュメンタリー映画『ビースティ・ボーイズ 撮られっぱなし天国(原題:Awesome; I Fuckin’ Shot That)』も監督している。2002年にアダム・ヤウクがレコーディング・スタジオとして建てた“オシロスコープ・ラボラトリーズ”(ル・ティグレ、フェニックス、そしてバッド・ブレインズがそこでレコーディングを行っている)は、その後2008年に、シンクフィルムの重役デヴィッド・フェンケルと共同設立したインディーズ映画制作・配給会社へと発展していった。同年には、アメリカの高校バスケットボール選手8人を追うドキュメンタリー『Gunnin’ For That #1 Spot』を監督。2012年に彼が亡くなった後も、オシロスコープ・ラボラトリーズは存続している。

 

一生に一度の友

2013年にはブルックリン・ハイツにあるパルメット公園が、地元の最も影響力のある人物を称えるべく“アダム・ヤウク公園”へと改名された。自叙伝『Beastie Boys Book』の中でアダム・ホロヴィッツは、アダム・ヤウクについて、“モチベーションを与えてくれる”稀有な友人だと記している。

「自らを奮い立たせて偉大なことを成し遂げるだけでなく、“みんなで集まってこれをやろうぜ”って言ってきて、それを実現させる。アダム・ヤウクはそういう奴だった。一生に一度の、それを実現させてくれる友だった。大きなことを成し遂げようと奮い立たせてくれる友だった」

Written By Ben Merlis




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