90年代大特集:グランジからブリット・ポップ、R&Bやヒップホップの台頭まで
1964年、ほぼ衝動だけで作られたようなザ・ビートルズ主演映画『ハード・デイズ・ナイト』の中で、レポーターがリンゴ・スターにこう尋ねる場面がある。
「あなたはモッドですか、それともロッカー?」
彼女が示唆しているのは長く仁義なき抗争を繰り広げてきたブリティッシュ・サブカルチャーにおける2大勢力、モッズとロッカーズのことで、これは10年後にザ・フーの『Quadrophenia(邦題:四重人格)』でも神経質なほど克明に描かれているテーマだった。ザ・ビートルズのドラマーは何とも手際よく、その場でこしらえた造語で返した。
「あー、いやあ、僕はモッカー(mocker)だよ」。
このジョークの肝は、その両方になることは不可能だ、ということだ。[訳注:mockには嘲(あざけ)る、茶化すといった意味もある]
だが、それから30年の時を経て、90年代音楽業界のざっくりとした景色に照らせば、そうした態度さえもバカげて見える。90年代の素晴らしさは、モッドにもロッカーにもなれるし、あるいはヒップホップの探究者にも、R&Bファンにもカントリー・ファンにもなれるということだった――それも全部いっぺんに。何故ならポピュラー・ミュージックとは何かという概念が、過激なまでに変化を遂げたのがこの年代だったのだ。
90年代の音楽が我々に放った最大のクセ玉は、言うまでもなくグランジである。その屈曲点(ニルヴァーナの『Nevermind』)に至るまでの間、ギターとベースによる音楽とは大まかに言って3つのカテゴリーに分類が可能だった。「オルタナティヴ・ロック」、「クラシック・ロック予備軍」、そして既に斜陽となりつつあった「ヘア・メタル・シーン」だ。1989年の時点でにおけるメタル・シーンの凋落ぶりは、ジェスロ・タルがグラミー賞の最優秀ハード・ロック/メタル部門の受賞者に選ばれた年でもあるという興味深い事実に集約されている。
とは言え、当時はまだユース・カルチャーの審判としてのMTVの権威は侮れないものがあった。ニルヴァーナの「Smells Like Teen Spirit」のビデオがひっそりと初めて公開されたのは、同ネットワークの深夜帯のマイナー番組だったが、このチャンネルのヴィジュアルにおける伝統的なしきたりに照らせば、その中身は殆ど異世界と言っていいほど不適合なものだった。ダークでシニカルで、当時業界に存在した音こそもっとハードだが自意識過剰なロック・アクトたちとは根本的に違う、徹底して貫かれた “I don’t give a f__k”(どうだっていい)という姿勢。
しかも、ニルヴァーナが90年代の音楽の偉大なる小宇宙になり得たのは、彼らのサウンドの世界観が単調ではなかったからだった。そこにはパンクからガレージ・ロック、インディ・ポップにカントリーにブルースまで、ありとあらゆるものが混在していたのである。
ヘヴィ・メタルも姿を消したわけではなかった、ただ自ら変容して行っただけだった。大物バンド( ガンズ・アンド・ローゼズ、メタリカ、エアロスミス)らは流行り廃りを超越し、スタジアム・バンドとなった。それでも、殆どのロック・ファンはグランジへと視線を移しており、『Nevermind』と続く『In Utero』はこのシーンに共感を示す他のバンドたちへの入口として機能した。
ニルヴァーナにとっては元レーベル仲間のマッドハニー、メタルにインスピレーションを得たサウンドガーデン、当時から既にクラシック・ロッカー然としていたパール・ジャム、より陰鬱なアリス・イン・チェインズ。言うまでもなく、シアトル勢ではないブッシュやストーン・テンプル・パイロッツ、プリ・アート・ロックとも言えるレディオヘッドも、本質的には上記の抽出物である。
グランジは圧倒的に男性優位の音楽だった。それでも、ホール(フロントを仕切るのはカート・コバーンの妻コートニー・ラヴ、ステージ・ダイヴを好み煽動癖あり)はグランジ人気で大いに得をしたバンドだ。グループ躍進のきっかけで、その名もまるで未来を予見したかのようなアルバム『Live Through This』が世に出たのは1994年、カート・コバーンの死から僅か1週間というタイミングである。1998年にリリースされた次作『Celebrity Skin』は、結果的にバンドにとって最も売れたアルバムとなった。
女性がフロントのロック・バンドの殆どがチャート上では成功を収められずに終わったことは事実だが、彼女たちが編み出したカルチャー的表現手段が、ワクワクするようなフェミニスト・ロック・シーンを生んだこともまた事実だ。ホールを起点として、ビキニ・キル、ベイブス・イン・トイランド、ブラットモバイル、そして後にはスリーター・キニーまで、コートニー・ラヴの同世代の女性バンドたちにも注目が集まるようになった。そして登場したのがL7である。
フライングVで奏でられるリフ、ロングヘアでのヘッド・バンギング、そして「テメエなんかクソ喰らえ」式の歌詞で、L7は(マッドハニーと共に)ジャンルとしてブレイクする以前にグランジの道を拓いたパイオニアだった。そしてグランジがジャンルとして確立すると、グループの1992年のアルバム『Bricks Are Heavy』は、グランジとオルタナティヴ、ライオット・ガールの世界の境界線を巧みに渡り歩いていることで大いに評価を得た。
90年代が終わりに向かうに従って、この10年間に起こったフェミニズムの台頭(そして女性のセクシュアルなパワーの噴出とでも言うべきもの)が少しずつポップ・チャートを侵食し始めた。この現象がやがて、マルチ・プラチナムの女性シンガー・ソングライターたちの爆発的な出現へと繋がって行くのだ。サラ・マクラクラン、アラニス・モリセット、シェリル・クロウ、リサ・ローブ、ポーラ・コール、フィオナ・アップル、ジュエル、そして孤高の黒人女性シンガー、トレイシー・チャップマン。また、左記に挙げた女性たちは(アラニス・モリセット以外)全員、サラ・マクラクランがロラパルーザへの回答として起ち上げた第一回目のリリス・フェア・ツアーに参加していた顔ぶれである。これは1997年最も大きな売り上げを記録したフェス・ツアーとなった。
それよりも、90年代の音楽シーンに対してグランジが与えた大きなインパクトは、かつてはカウンター・カルチャーと位置付けられていたものがノーマルになるという現象だった。中道主義的な音楽リスナーたちは突如として、以前はインディーズ・ファンの領分と目されていたはずの世界を探求する羽目になり、またインディーズ・ファンたちは当初分け入ってきた彼らをニワカだと決めつけた。
『Nevermind』が爆発的成功を収める前、ヨーロッパで彼らの前座を務めたニルヴァーナをはじめ、数え切れないほど多くのパンク・バンドの憧れの存在のソニック・ユースは遂にラジオやMTVでかかり始める。既にアンダーグラウンドでは崇拝の対象だったピクシーズやR.E.M.は更に支持基盤を拡大し、ペイヴメント、エリオット・スミス、ウィーザーにベックといった、彼らと同様の思想や志向を共有するニューカマーたちも次々に現れた。
一方、ヘヴィ・メタルが退いた後のスペースを占拠したのは、よりラウドなオルタナティヴ・ロック・シーンだった。インダストリアル・ミュージックのナイン・インチ・ネイルズやマリリン・マンソン、ラップ・ロックのレイジ・アゲインスト・ザ・マシーンやフェイス・ノー・モア、ファンク中心のレッド・ホット・チリ・ペッパーズやプライマス、そしてロックを超越したザ・スマッシング・パンプキンズやジェーンズ・アディクションらはいずれも、苦悶に対する渇望という新機軸を主要なテーマに据えていた。
この新たな環境下では、ディストピア主義のゴス・メタルの野獣グレン・ダンジグの「Mother」の再発さえもヒットになった。ジェーンズ・アディクションのエキセントリックなフロントマン、ペリー・ファレルは、当時としては無謀な試みと言われたロラパルーザ・フェスティヴァル(この名称の意味は著名なるウェブスター辞典にごく省略した形で「途方もなく素晴らしいもの」と掲載されている)を幸運の年、1991年に起ち上げたことをきっかけに、この90年代的音楽現象における人物相関図の中心となった。
“スポーツマン対オタク”という構図が物語の典型的構図だった80年代の後、グランジの影響がファッションの美意識まで浸透して行くにつれ、“奇天烈であることはクールである”という概念が出てきた。キャメロン・クロウによるシアトルを舞台にした映画『シングルス』、ベン・スティラーの『リアリティ・バイツ』、アラン・モイルの『エンパイア・レコード』は、もろ手を挙げてアウトサイダーの美徳を讃える内容だ。
90年代の音楽のグランジによる軌道修正が進むにつれ、90年代半ばにはこのジャンル自体が先細りになっていく。影響力のあるバンドの中には壊滅的な薬物中毒症状に苦しめられる者たちも出てきた。その他の者たちも、かつて懸命に脱け出そうともがいてきたはずの主流派に、いつのまにか組み込まれている自分たちの姿に幻滅していった。
生き残った先駆者たち――例えばサウンドガーデンやパール・ジャム――は自らのサウンドを変容させていった。後者はもう一方踏み込み、もはやプロモーション・ビデオは一切作らないという姿勢を打ち出して、惰性で回り続けていたマシーンをストップさせた。パール・ジャムが更に肝の据わったところを見せたのは、興行界の超大手であるチケットマスターとの提携関係を拒否したことだった。
英国では、90年代初頭のグランジのチャート席巻に対する反動がブリットポップという形になって顕現した。ブラーがバンドとしてのサウンドを確立したセカンド・アルバムが『Modern Life Is Rubbish』(意味:現代生活はクズだ)、あるいは当初もうひとつ代案として挙がっていたという『Britain Versus America』(意味:英国対米国)と題されていたのは決して偶然ではない。クール・ブリタニアのムーヴメントは 60年代とその時代が育んだ肥沃なミュージック・シーンに耳を傾け、ザ・ジャムやザ・キンクス、ザ・フーといった音楽界のレジェンドたちを参考にするものだった。
ブラーは英国における90年代音楽シーンの先導役となったが、1993年にバンド名を冠したデビュー・アルバムを引っ提げて登場し、このジャンルの定義の一旦を担っていた自己陶酔型バンドのスウェードとは、同年代のライバルとして苛烈な競争を繰り広げた。
1994年、ブラーが2作目の『Parklife』をリリースすると、シーン全体がそれを中心に集束し、幾つか突出した傑作アルバムが生まれた。パルプの当意即妙な『Different Class』、エラスティカのインディ・クールなバンド名と同タイトルのLP、スーパーグラスの愉快なポップ『I Should Coco』、そして新たなライヴァルとなったオアシスのストレートなロック『Definitely Maybe』。
ブラーとオアシスの間のいがみ合いは1995年、両者が同日にシングルをリリースするという非公式の争い、バトル・オブ・ブリットポップで 大いなるハイライトを迎えた。モッズ対ロッカーズの現代版とも言うべき図式に、それを取り囲むプレスも目まぐるしく入り乱れ、この中流階級と労働者階級のバンド同士の互角の戦いを絶えず取り沙汰した。
数字的に言えば、ブラーの「Country House」はオアシスの「Roll With It」の売上を上回った。だがそれから一年もしないうちに、オアシスは圧倒的な規模で世界的成功を収め、アメリカでも大ブレイクを果たす。これはブラーには成し得なかったことだった。彼らの絶頂はネブワース・パークでの2本のソールドアウト・ショウで、これは記録の上でイングランドの野外コンサートとしては最大規模の動員である。だが、内実はそう単純なものではなかった。
グランジ同様、飽和状態を迎えていたブリットポップは、このイベント以降加速度的にその勢いを失って行く。滅亡の予兆となるセオリーは幾つもあった。オアシスのメディア露出過剰とバンド内の不和、ブラーがローファイ・アルバムを作ったこと、そしてスパイス・ガールズまでが世界的な名声を手に入れるために英国中心主義的なイメージを薄める方向性を打ち出したことである。
話をアメリカに戻すと、コレクティヴ・ソウル、キャンドルマス、グー・グー・ドールズ、クリード、シルヴァーチェアー、インキュバスといった、長髪の間からじっと沈思黙考していたポスト・グランジのアーティストたちは、ジャンル全体をより破滅的でない方向に持っていくことで、ロック・シーンの覇権を手にした。これまでの反動のように(そして恐らくは苦悶することに疲弊してか)、カラフルなスカやポップ・パンクのバンドたち――ノー・ダウト、Blink 182、グリーン・デイやランシド――がチャートを次々に上昇した。
特筆すべきは、シンガーのブラッド・ノーウェルの思いがけない急逝により、バンド名を冠したCDが90年代の終わりまでに500万枚以上のセールスを記録したサブライムである。彼らの明るいサウンドは息長く愛され、次の年代に登場してきた同様の音楽性を持つ多くのバンドの成功も保証してくれた。
再び遡って1991年、音楽業界的にひとつ非常に重要な新事情が起こっていた。これはグランジ云々に留まらず、人々の長年の音楽に対する嗜好を転換させるきっかけにもなったことだ。この年、Billboard誌はチャートの集計システムを刷新し、“実際の”サウンドスキャンによるセールスの数字が反映されるようになったのである。
この時点まで、実はチャートのランキングはレコード店の店員やマネジャーたちの予想によって決定されていたのだった。こうした‘当て推量’はしばしばジャンルにバイアスをかけ、消費者たちによる実際の購買行動を必ずしも正確に反映してはいなかったのである。このシステム導入を機に、チャートに入ってくるジャンルの幅は一気に広がった。
回復力の強いマーケットの客寄せ役、手の込んだ仕掛けの甘いティーン・ポップが消え去ることはなかった。バックストリート・ボーイズにイン・シンク、そして後にはブリトニー・スピアーズやクリスティーナ・アギレラはセールスの上で大きな実績を残し続けた。また、保守派で流行に流されないアダルト・コンテンポラリー支持層から、ケニー・Gやホイットニー・ヒューストン、マイケル・ボルトンにデリーヌ・ディオンといったメガ・スターが生まれた。が、物事が面白くなってくるのはここからである。
フーティー&ザ・ブロウフィッシュやブルーズ・トラヴェラーなど、ぐっとアーシーなバンドがどこからともなく出現し始めたのだ。かつてはラテンの世界だけに追いやられていたティファーノのレジェンド、セリーナの圧倒的な成功ぶりは、メインストリーム・チャートでも徐々に顕在化するようになった。加えて、思いがけずその後の流れの牽引役になったのがガース・ブルックスだ。前述したサウンドスキャンによる集計システム導入から数か月後にリリースされた彼の1991年のアルバム『Ropin’ The Wind』は、カントリー・アーティストの作品として初めて全米アルバム・チャートでNo.1を獲得したアルバムとなったのである。
この流れに間髪入れず続いたのが新人のビリー・レイ・サイラスとティム・マックグロウで、また既に中堅からヴェテランと呼べるアーティストたち(ジョージ・ストレイト、リーバ・マッキンタイア、アラン・ジャクソン、ヴィンス・ギルにクリント・ブラック)に対しても、人々の注目度は上昇曲線を描き続けていた。そして1995年、シャナイア・トゥエインのマルチ・プラチナム・アルバム『The Woman In Me』の爆発的なヒットの力も得て、カントリー・ポップはディキシー・チックスやフェイス・ヒル、リアン・ライムスといったアーティストたちを擁する女性フロントというジャンルを独自に成立させるに至ったのである。
だが、ビルボードが導入した新たな集計方法が実質的に最も大きなインパクトをもたらしたのは、R&Bとヒップホップで、この2つのジャンルが互いに結びつきながら成長し続けているという事実が端的に明らかになったのだ。
ニュー・ジャック・スウィングがパワー全開で幕を開けた90年代初頭、最も影響力を誇ったアーティストと言えばベル・ビヴ・デヴォー、アル・B.シュア、キース・スウェットにボーイズIIメンである。ニュー・ジャック・スウィングの勢いが弱まるにつれ、R&Bはソウルとグルーヴを前面に押し出したサウンドに向かい、ジャネット・ジャクソン、ディアンジェロ、エリカ・バドゥ、アッシャー、トニ・ブラクストン、メアリー・J.ブライジらがその代表格だった。
だが、彼らの間には多少の対抗意識もあった。90年代、多くのラップ・アクトは全米シングル・チャートだけではなく、R&Bチャートにも同時にランクインしていた。これはローリン・ヒルやTLCのような、ヒップホップを採り入れたサウンドを打ち出していたシンガーたちの功績である。中でもマライア・キャリーが1995年の「Fantasy」で実現させたオール・ダーティ・バスタードとのコラボレーションは、クロスオーヴァーの時代たる90年代音楽シーンを象徴する瞬間だったと言えよう。
ヒップホップはそのメリハリの大きさゆえに、非常に邪道の多いものになってしまった。ジャンルとしての成長が興味深くも種々雑多なサブジャンルの急激な増殖を促したのである。パブリック・エネミー、クイーン・ラティーファ、アレステッド・デヴェロップメント、ア・トライブ・コールド・クエスト、サイプレス・ヒルにアウトキャストは、いずれも知的かつ理性的に社会問題をテーマに取り上げた。
またパブリック・エネミー、ソニック・ユースの「Kool Thing」にチャック・Dがカメオ参加したことで、オルタナティヴ・ミュージックからの承認印も得ている。ソルト・ン・ペパ、MCハマー、クーリオ、ウィル・スミス、そして後にはミッシー・エリオットも含めて、一部には明確にポップ・チャート向けにアンセム的なジャムをカットするラッパーたちもいた。そして、大衆の首根っことハートを一緒に掴む者たちもいた。
90年代の幕開けにはギャングスタ・ラップのフレネミー(友人であり最大の敵)同士だったアイス・キューブとイージー・Eが共に自らの道で足場を固め、一方N.W.A.時代のバンドメイトであるDr. ドレーは1992年に打ち立てた金字塔アルバム『The Chronic』でGファンクを生み出した。これがやがて、かの壮大なイーストコースト―ウェストコースト抗争へと発展し(突き詰めて言えば、バッド・ボーイ・レコード対デス・ロウ・レコードの争い)、その最中にもウォーレン・Gにネイト・ドッグ、パフ・ダディ、ジェイ・Z、ナズ、ウータン・クラン、バスタ・ライムズ、スヌープ・ドッグ、エミネムらが次々にシーンで名を挙げた。実のところ、スヌープの『Doggystyle』はアーティストのデビュー作が発売第一週にNo.1でチャートに初登場した史上初のアルバムである。ビギー・スモールズとトゥパック・シャクールの死後、ネイション・オブ・イスラムのリーダー、ルイス・ファラカーンは1997年にピース・サミットを開催し、最後はキューブとコモンがハグして締めくくった。
とは言え、それ以後ラップが幾らかでも穏やかになったかと言えばそれほどでもなく、一方マーケットはますます大きくなっている。この90年代音楽シーンの分水嶺となった出来事が、我々がいま目にしているこのジャンルの圧倒的な優勢状態を呼び込むことになったとすら思える。ロックとポップとR&Bがマッシュアップされた音楽世界を従えたヒップホップ、という勢力図だ。それはひとつだけではない、何もかもがそこに含まれているのである。もしかしたらそれこそが、90年代の音楽が遺した真のレガシーなのかも知れない。
Written By Nisha Gopalan