イギリスで最初パンクのファンジン「Sniffin’ Glue」

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ロンドンで生まれたパンク・シーンで重要とされていた人は皆、1976年7月、イギリスの首都で行われたラモーンズの二度の伝説的なライヴのうち、少なくとも一回のライヴには行っていた。しかし、アメリカ独立200周年を記念した1976年7月4日、セックス・ピストルズとザ・クラッシュは一緒にシェフィールドでライヴをしていたため、ラウンドハウスでの最初のパフォーマンスを見逃していた。しかし、彼らはアメリカから来た同志を見ようと、翌日のディングウォールでのライヴを、ザ・ダムドのメンバーと、のちのプリテンダーズのリーダー、クリッシー・ハインドとともに見に行っていた。

しかし、前日のラウンドハウスでのライヴを見ていた人がいた。それは、サウス・ロンドンの19歳の銀行員、マーク・ペリーだった。彼にとって、ラモーンズのライヴを目の当たりにしたことは、悟りの境地にたどり着いたようなものだった。マーク・ペリーはラモーンズのセルフ・タイトルのデビュー・アルバムの一曲で、物議を醸していた「Now I Wanna Sniff Some Glue」に感銘をうけ、イギリスで最初の(そして最も影響力のあった)パンクのファンジン『Sniffin’ Glue (And Other Rock’n’Roll Habits)』の制作に取り掛かり、そのわずか9日後の7月13日に自費出版したのだ。

「あの初版のすべては、当時自分のベッドルームにあるものだけで作ることのできるような精一杯のものだった」とマーク・ペリーは2002年4月にQ誌に語った。「子供用のタイプライターとマジックがあったから、初版がああいう感じになったんだ。一度限りのものだと思っていたしね」。

プリミティヴで熱烈、そして自己主張のはっきりとした(ザ・クラッシュのメジャー・レーベルCBSとの契約に対する批判など序の口だった)『Sniffin’ Glue』は、パンクのDIY精神を最もピュアな形で実現していた。月刊誌として、メインストリームの音楽誌が賞賛し始めるずっと前から、その急速に発展していったパンク・シーンについて、草の根レベルでレポートした。フォーマットの稚拙さは必要に迫られたものかもしれないが、マーク・ペリーの粗々しいが目的に合ったアプローチが大勢のファンを生んだ。『Sniffin’ Glue』でのスペル間違いや誤った箇所に線を引いて訂正するなどというのは喜んで受け入れられていたし、切り貼りされたグラフィックスやタイプライターでの文字、マジックでの文字があって、急いでコピーしたその完成形は、誰でも十分なモチベーションさえあれば安く、早く自分のファンジンを作ることができると証明したのだ。

『Sniffin’ Glue』はその道を切り開いていったものの、たったの12版で終わった。その頃には、パンクがメインストリームに吸い込まれていくのを感じ、マーク・ペリーは自身のファンジンでのアドバイスを実行し、独自のバンド、オルタナティヴTVを結成した。1977年7月、『Sniffin’ Glue』の最終号の表紙には、もれなくマーク・ペリーのバンドの初リリースで、生意気でレゲエっぽい「Love Lies Lump」が付いていた。

『Sniffin’ Glue』は終わった。しかし、のちのジャーナリスト、そして文学界のスターたちが、この繋いだバトンを受け取っていたのだ。『Sniffin’ Glue』に貢献した人の中には、のちのNME記者/テレビのパーソナリティーとして活動したダニー・ベーカーや、著名なロック・フォトグラファー、ジル・フルマノスキなどがおり、さらにマーク・ペリーに刺激を受けたジョン・サヴェージは、ザ・クラッシュとセックス・ピストルズのライヴを見て、自身のファンジン『London Outrage』を始めた。その後12か月間に渡り、無数の人たちがマーク・ペリーの後を継いだのだ。ロサンゼルスの『Flipside』からオーストラリアの『Suicide Alley』まで、世界中で評価されているファンジンが『Sniffin’ Glue』に影響を受けたことは明らかだった。

Written by Tim Peacock



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