【追悼】ティナ・ターナー、83歳で逝去。クイーン・オブ・ロックンロールの功績を辿る
ロックとR&Bの偉大な歌手の一人、そして最高のエネルギーを持つライブ・パフォーマーであるティナ・ターナー(Tina Turner)が、スイス・チューリッヒ近郊のキュスナハトの自宅で2023年5月24日に亡くなった。83歳だった。
彼女の広報担当者であるバーナード・ドハティは、声明の中で彼女の死を公表した。ティナ・ターナーは、近年、がん、脳卒中、腎不全など、深刻な健康問題を数多く抱えていた。バーナードはまた、彼女の逝去を発表する公式声明を自身のソーシャルで次のように投稿した。
「ティナ・ターナーの逝去を発表することで、我々は大きな悲しみに包まれています。音楽と人生への限りない情熱でもって、彼女は世界中の何百万人ものファンの皆さんを魅了し、未来のスターたちを鼓舞してきました。今日、私たちは、音楽という最高の作品を残してくれた親愛なる友人に別れを告げます。私たちの心からの哀悼の気持ちは、彼女の家族にお送りします。ティナ、私たちはあなたがいなくなって心から寂しく思います」
ハスキーな歌声と深い情感を持つターナーは、20世紀後半で強大な影響力を持つヴォーカリストの一人で、これまでに1000万枚以上のアルバムを売り上げ、夫のアイク・ターナーとは、16年間にわたりR&Bデュオ、アイク&ターナーとして活躍し、多くのヒットを飛ばした。1970年代後半にアイクと離婚した後、1984年のソロ・アルバム『Private Dancer』で、ショービジネス界で最も伝説的なカムバックを果たし、チャートでの成功やアリーナのヘッドライナー公演などを精力的に行った。
ティナ・ターナーはこれまでにグラミー賞の受賞回数は12回を数える。自分で曲を作ることもあったが、超一流の歌手としても有名であり、クリーデンス・クリアウォーター・リヴァイヴァルの「Proud Mary」やザ・ローリング・ストーンズの「Honky Tonk Women」といったロック・ヒット曲を、アイクとともに独特のエネルギーと情熱で変身させ、アル・グリーンやデヴィッド・ボウイの曲をリメイクしてカムバックを果たした。彼女が何度も口にしたように、「私はロックンロール / I am rock and roll」だったのだ。
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その生涯
ティナ・ターナーは1939年11月26日、テネシー州ナットブッシュでアニー・メイ・ブロックとして生まれた。父親が農園の管理人であったため、幼少期は綿花を摘んで過ごしていた。11歳の時に両親が離婚した後は、祖母のもとで数年間暮らし、16歳の時にセントルイスに移り住んで母親のもとで暮らすようになった。
幼い頃からバプティスト教会で歌っていたティナは、いつも社交的な性格だった。しかし、1957年にイースト・セントルイスのクラブ・マンハッタンに行き、アイク・ターナー率いるキング・オブ・リズムとの出会いで彼女は天職を見つけることになる。ある夜、彼女がマイクを持って歌い始めると、たちまちバンド・リーダーの目にとまり、やがてフルタイムでバンドに参加するようになったのだ。ターナーのガッツのある歌声は、すぐに注目を浴びることになった。1984年、彼女は当時のことをこう振り返っている。
「私のような声質でなければ、あそこで歌うことはできなかったでしょうね。ダイアナ・ロスのようなかわいくてか弱い声では、イースト・セントルイスでは通用しませんよ。観客は騎兵隊みたいで、みんあガラスを割るほどの声の大きさだった。でも私の声はとても珍しかった。とても強く、とても豊かで、とっても大きな声だったんです」
当初、ティナと8歳年上のアイクとはプラトニックな関係だったが、1960年にロマンチックな関係へと代わり、その年に息子のロニーが誕生した。アイクとティナは1962年に結婚し、家庭を持つことになった。当時のティナには1958年に生まれたもう一人の息子クレイグがおり(父親はキング・オブ・リズムのサックス奏者、レイモンド・ヒル)、アイクにはアイク・ジュニアとマイケルの2人の息子がいた。
アイク&ティナ・ターナーとしての活躍
1960年にスー・レコードと契約したアイク&ティナ・ターナーは、早くから勝利の方程式を確立していた。アイクの低音のバリトンとティナのパワフルな歌声は、セクシーな火花を散らす陰と陽の組み合わせだった。そして彼らはすぐにセンセーションを巻き起こした。
「A Fool in Love」と「It’s Gonna Work Out Fine」は、それぞれ1960年と1961年にR&Bチャートの2位を記録。彼らはまた、強力なライヴ・パフォーマーとしての地位を急速に確立した。彼女は身長163cmと小柄ながらも、激しいエネルギーと絶え間ない動きでステージを支配し、観客を熱狂の渦に巻き込んだ。アイク&ティナ・ターナーのツアー(レビュー)は、1年のうち11ヵ月をツアーで回った。ツアーについて「1月の最終日から12月までだったよ」と、アイクは後に回想している。
1966年、彼らは複数の演目からなるコンサート映画『The Big T.N.T. Show』に出演。ティナのスクリームはジェームス・ブラウンと同じように響き渡り、屋根を突き上げるようなパフォーマンスを見せたため、このショーの音楽監督だったフィル・スペクターはアイク・&ティナ・ターナーを自身のレーベル、フィル・レコードと契約した。
ロネッツやダーレーン・ラヴなどのプロダクションスタイル“ウォール・オブ・サウンド”の設計者として知られるスペクターは、その年、彼らと「River Deep–Mountain High」を制作。
このレコードは、スペクターが作り上げた最も大きく、ヘヴィな作品であった。ティナは、不可能かと思われる楽曲を可能にするためにシャウトし、彼女の激しいヴォーカルは、スペクターによる反響する壁を圧倒した。この楽曲は、アメリカでは全米シングルチャート88位と振るわなかったが、UKでは3位まで上昇した。
ロックバンドのカヴァー
「River Deep–Mountain High」は彼らを海外でもスターにした。特にミック・ジャガーは彼女にほれ込み、ザ・ローリング・ストーンズは1969年の伝説的な全米ツアーにアイク&ティナ・ターナーを同行させるほどの入れ込みようだった。ヒッピー・ロックの観客に囲まれたことで、夫妻は新たなファン層を獲得し、彼らの作品にもその影響が反映され始めた。アイク&ティナ・ターナーは1970年のアルバム『Come Together』では、ザ・ビートルズのタイトル曲やストーンズの「Honky Tonk Women」をカバーしている。
1971年、アイク&ティナ・ターナーは、クリーデンス・クリアウォーター・リヴァイヴァルの「Proud Mary」をカバーし、全米シングルチャートで4位を獲得。彼らはこの曲をスローなブルースのイントロ、そしてアイクのバリトンとティナのハスキーな歌声でデュエットし、そしてホーンが鳴り響く激しいグルーヴでアレンジしたことが受け、このカヴァーは大ヒットを記録した。
アイクによるDV
最終的には100万枚をも売り上げ、自宅にレコーディングスタジオを新設するための資金となった。しかし、この大金がアイクの邪悪な衝動を刺激することにもなってしまった。彼はスー・レコードと契約して以来、ティナを何年も虐待し続けた。ティナは後にこう語っている。
「ショーの直前に、アイクに顔を殴られ、顎を折られました。口の中に血がにじむ中でしたが、とにかく歌い続けなければなりませんでした」
1976年には、もうティナは限界を迎えていた。その年の7月4日の週末、ダラスにて、アイクがリムジンの中でティナを殴ったのだ。「彼は私を殴り続けましたが、私は一度も泣きませんでした」と彼女は後に記している。そしてアイクが寝静まった頃、彼女は彼の元を去った。アイクの弁護士ネイト・タボールがロサンゼルス行きのチケットを購入し、アン・マーグレットやウェイン・ショーターの妻アナ・マリア・ブッカーなどの友人の家に泊まって、夫から身を隠した。彼女はこう回想する。
「2ヶ月間、場所を転々とし、それぞれの場所で家事や掃除をこなしたんです。エネルギーを削って働いていた…でもそれは懐かしい思い出として残っているんです。そのおかげで生きてこられたのだから、自分を卑下することはなんてありません」
夫婦デュオとしての稼ぎを一切放棄したティナは、1978年3月29日、アイクとの離婚を成立させた。
その後7年間、ティナは自身で家賃を稼ぎ、国税局に睨まれるほどの大金を稼ぐわけでもなく、糊口を凌ぐためにリゾート地でささやかなショーを行ったり、レイクタホで定期的にレジデンス・ショーを実施した。また、離婚の前後に2枚ずつ、計4枚のソロ・アルバムを制作したが、いずれも失敗に終わっている。
新しい出会いと成功への萌芽
そんな時期に、オーストラリアからアメリカに移住してきた、オリヴィア・ニュートン・ジョンのマネージャーだったロジャー・デイヴィスと出会うことになる。ロジャーはこう言った。
「彼女はもちろんまだまだ素晴らしいパフォーマーだったが、このひどいバンドとタキシードのメンバーでは成功しないね」
1980年の晩秋、ロジャー・デイヴィスの要請で、ターナーはバンドを入れ替え、ショーを作り直し、無駄のないロック・サウンドへと移行した。ロジャーは、ニューヨークのリッツやミネアポリスのファースト・アベニューなど、より新しく、より若い観客の前に立つためにロックやポストパンクのクラブで彼女のライヴをブッキングし始めた。1982年の冬には、ABCのニュース番組『20/20』に出演し、アイクとの不遇の時代について語ったこともある。
1982年、ターナーは、ヒューマン・リーグやヘブン17で活躍したUKのマーティン・ウェアとイアン・クレイグ・マーシュの招待を受け、彼らのプロジェクトであるブリティッシュ・エレクトロニック・ファウンデーション(B.E.F.)に歌手として参加。ティナは、フィル・スペクターをアップデートしたような彼らの作品に興味を持った。
「ウォール・オブ・サウンドに似ていると思って、だから受けることにしたんです」
『Private Dancer』の大成功
この後、ウェアとマーシュは彼女のためにシングルを制作し、アル・グリーンの「Let’s Stay Together」のカバーを制作。新しいシンセサイザーをバックに名曲を力強く再現したこの曲は、全英トップ5に入り、25万枚を売り上げた。アメリカでは、ポップチャートで26位、R&Bチャートで5位を記録し、業界の大きな話題となった。
このヒットが後押しとして、ティナはキャピトル・レコードと契約し、次の5枚目のアルバム『Private Dancer』をわずか2週間で完成させた。短い制作期間だったが、ティナの自分自身を証明したいという明確な欲求が、このアルバムにまとまりと熱を与え、選曲もよく、新曲の中にはティナの波乱万丈の人生に関連する歌詞が含まれていた。さらに『Private Dancer』のように多くのプロデューサーやソングライターが参加して作り上げるポップ・アルバムのスタイルが、80年代末には標準的な手法となった。
ティナは当初、このアルバムの大ヒット曲となった「What’s Love Got to Do with It」を嫌っていた。ビルボードの記者によれば、彼女はこの曲を「最初にどう感じたかを説明するために、か細く、小さな、泣き声で」歌ったのだという。しかし、共同作曲者のテリー・ブリテンがこの曲を彼女の好みに合わせて修正した結果、この曲は1984年に1位を獲得し、ティナとって最初で最後の全米1位獲得曲となった。1985年2月には、この曲でレコード・オブ・ザ・イヤーを含むグラミー賞3部門を受賞し、彼女のカムバックは決定的となった。
『Private Dancer』の成熟したロック志向は、ティナ・ターナーのアルバムに新たな方向性を与えた。1986年にリリースされた『Break Every Rule』では、ダイアー・ストレイツのギタリスト、マーク・ノップラーをはじめ、『Private Dancer』の制作と同様に多様な作家やプロデューサーを起用。
また、ブライアン・アダムスは、アイクとの傷ついた関係を終わらせるような楽曲「Back Where You Started」を書いた。(後にブライアンは、「彼女の人生について何も書くなと言われた」と語っている)同年、ローリング・ストーン誌のライター、カート・ローダーと共著したターナーの回顧録『I, Tina』はニューヨーク・タイムズのベストセラーとなった。
1989年に発表したアルバム『Foreign Affair』では、6ヵ月半に及ぶヨーロッパツアーを行い、ザ・ローリング・ストーンズの最近のヨーロッパ公演をも凌ぐ300万人の観客を動員した。また、1991年にはベスト盤『Simply the Best』を発表し、全世界で700万枚を売り上げた。
1993年、ティナ・ターナーの回顧録『I, Tina』は映画『TINA ティナ』(原題:What’s Love Got to Do with It)となり、ターナーをアンジェラ・バセット、アイクをローレンス・フィッシュバーンが演じ、ともにアカデミー賞候補となるなど批評家からも高い評価を受け、興行でもヒットを記録した(しかし、アイクとティナは、ある曲でアイクが演奏した楽器や重要な公演の日付など、この映画の数々の不正確な記述に問題を感じていた)。1999年にはティナの最後のスタジオ・アルバムとなる『Twenty-Four Seven』を発表している。
晩年と功績
ティナ・ターナーは、アイク&ティナ・ターナーのメンバーとして、またソロ・アーティストとして、今までの2度、ロックの殿堂入りを果たしている。グラミー賞では生涯功労賞を含む12部門を受賞し、黒人アーティストとして初めて、また女性として初めてローリング・ストーン誌の表紙を飾ったこともある。
2013年、彼女はヨーロッパでのレコード会社EMIの重役だったエルヴィン・バッハと、20年以上連れ添った末に結婚。同年、米国籍を放棄してスイス国籍を取得した。
2018年、ティナは2冊目の回顧録『My Love Story』を出版し、彼女の人生を舞台化した『Tina: The Tina Turner Musical』をロンドンで上演。その1年後にはブロードウェイで上演され、ティナを演じたアドリアン・ウォーレンがトニー賞を受賞した。2021年には、HBOがこのティナの人生を描いたドキュメンタリー『TINA』を放映している。
この追悼記事の最後に、マーク・ノップラーによるティナ・ターナーのアプローチの表現を記そう。
「彼女はメガウーマンだ。彼女の仕事の仕方はこうだ。家で下調べをしているから、レコーディングに入る頃には、抑揚に至るまで、楽曲の精神を既に吸収しているんだよ」
Written By Michaelangelo Matos
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