Apple TV+のドキュメンタリー『ザ・ヴェルヴェット・アンダーグラウンド』で描かれる10の事柄

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「俺たちはレコードを売る気はなかった。俺たちがやっていたのはそういうことじゃなかった」
(ルー・リード)

彼らほど、当初の評価と解散後高まった悪評との間のギャップの激しかったバンドはこれまでなかっただろう。彼らの最後のアルバムから約50年以上経った今、初めてちゃんとしたヴェルヴェット・アンダーグラウンドについてのドキュメンタリーが作られるべき時期がきたのだ。

監督のトッド・ヘインズがこの作品の前に取り組んだアメリカ音楽の伝説的存在についての作品といえば、これまでとは異なる観点からボブ・ディランの音楽についての伝記映画を定義した2007年の『アイム・ノット・ゼア』だ。だから、60年代の最も型破りな伝説的ロック・バンド、ヴェルヴェット・アンダーグラウンドのドキュメンタリーを作るには、ヘインズはうってつけの人選だと言える。

ヘインズは、現存するメンバーであるジョン・ケイルとモーリン・タッカーに加えて、彼らに影響を与えた人物や仲間のミュージシャン、そして彼らの後継者たちにインタビューしながら、そうした内々のメンバーだけから得られるヴェルヴェット・アンダーグラウンドについての物語を手にして、バンドの音楽、アヴァンギャルドな映画、アート、書籍、音楽などを織り交ぜて、魅力的なタペストリーに仕上げることに成功した。その過程で、より具体的に語られ、実際のところを暴かれた歴史上の事実や、新たに明らかになった事実もあった。

これから紹介するのは、Apple TV+で2021年10月15日から配信されたドキュメンタリー『ザ・ヴェルヴェット・アンダーグラウンド(原題:The Velvet Underground)』の中で明らかになった10個のエピソードだ。

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1. バンド結成前のジョン・ケイルは全米のテレビで笑いを取っていた

1963年、ヴェルヴェット・アンダーグラウンドの創立メンバーの一人、ジョン・ケイルは、アヴァンギャルド音楽に深く傾倒していた。有名人のゲストが出演者の秘密を推測するという当時のテレビ番組『I’ve Got A Secret』に出演したケイルは、ジョン・ケイジのプロデュースで、エリック・サティの「Vexations(ヴェクサシオン〜嫌がらせ)」(シンプルなフレーズを延々840回繰り返すというもの)を見事に演奏してみせた。

彼はスタジオのピアノでその曲の一部を実演したのだが、60年代初期の全米のテレビ視聴者には、ミニマル・ミュージックのコンセプトは先進的すぎた。彼がじっくり時間をかけて真剣に演奏したにもかかわらず、得た反応はスタジオの観客からの神経質なクスクス笑いだけだった。

 

2. ルー・リードは14歳の時、既にレコードを作っていた

50年代、ルー・リードはニューヨークのロング・アイランドに住んでおり、ザ・ジェイズ(The Jades)というバンドで活動していたティーンエイジャーのロックンローラーだった。14歳の時、ルイスという名前で活動し、ギタリスト兼バック・ヴォーカルだったルーは、あのR&Bの巨人キング・カーティスをサックスにフィーチャーしたバンドの唯一のシングルでスローなロックンロール曲のB面曲の作者だった。リードは彼にとって初の録音作品のことを思い出しながらこう語った。

「俺たちは2ドル79セントの印税をもらえたんだ。正直ヴェルヴェット・アンダーグラウンドで稼いだよりもかなり多い金額だったよ」

3. ジョン・ケイルはそのクラシック音楽のキャリアを斧で叩き潰した

1963年にジョン・ケイルがおこしたもう一つのアヴァンギャルドに関する争いは、彼が自分の作品を伝説的なマサチューセッツ州のクラシック音楽イベント、タングルウッド音楽祭で演奏したときのことだった。

会場は、有名な作曲家でタングルウッドでの重要人物、セルゲイ・クーセヴィツキーの未亡人オルガ・クーセヴィツキーをはじめ、若き作曲家ジョン・ケイルがいいところを見せたいと思う観客で一杯だったが、彼の演奏は最後にピアノを斧で叩き割って終わった。

「最前列の観客の一人が立ち上がって逃げ出したのを覚えてるよ」と彼は映画の中で語っている。「それがクーセヴィツキー夫人だったんだ。彼女は泣いてたね」メインストリームのクラシック音楽の世界は、明らかにケイルにとって馬の合うものではなかったようだ。

 

4. ルー・リードとジョン・ケイルはダンス・ブームを巻き起こそうとした

ルー・リードとジョン・ケイルがつるみ始めた時、彼らはザ・プリミティヴス(The Primitives)というバンドにいて、ルー・リードがソングライターとして働いていた低予算レーベルのピックウィックから、「The Ostrich(ダチョウ)」というシングルをカットした。

彼自身によると、ルー・リードはこの曲のために、全ての弦を同じ音程にチューニングするというカスタム・メードのチューニングを考案したようだ。この曲を聴く者は「両膝の間に頭を挟んだダチョウ・ダンス」を踊ることを要求されたが、ツイストみたいな人気ダンス・ステップとはならなかった。しかしヴェルヴェッツは後に、このチューニングを、それほどダンサブルではないSMの物語である「Venus In Furs」や「Heroin」といった曲に採用したと伝えられている。

 

5. 最初のヴェルヴェット・アンダーグラウンドのツアーは最低だった

ヴェルヴェット・アンダーグラウンドは最終的にはニューヨークでの評判を築き上げたが、1966年中頃のパフォーマンスは、彼らのマネージャー兼プロデューサー兼相談相手だったアンディ・ウォーホルによる、音楽、映画、ダンスそしてライトショーを一体にした実験的なマルチメディアの豪華なショー『The Exploding Plastic Inevitable』のツアーの一部を担当する存在だった。モーリン・タッカーは映画の中で笑いながらこう語っている。

「当時はアート・ショーみたいなので演奏することが結構あったんだけど、そういう場合ショーをやるのにアンディが呼ばれて、私たちはそのおまけみたいなものだった。そういうショーに来るのは金持ちや上流階級の連中とかアーティストだったりしたけど、私たちが演奏するとゾロゾロ帰っていくの。あの連中はバンドとか、ましてやその音楽なんか聴きたくなかったのね」

 

6. ビル・グラハムは彼らを毛嫌いしていた

西海岸の人々、特に当時サイケデリック・シーン盛り上げの財政上の支援者だったビル・グラハムも、ヴェルヴェッツに対して好感は持っていなかった。グラハムが経営する有名なライヴ・ハウス、フィルモア・ウェストで、1966年に彼らがフランク・ザッパのマザーズ・オブ・インヴェンションと一緒にやったショーを思い出しながらモーリン・タッカーはこう語る。

「本当にあいつは私たちのことが大嫌いだった。私たちがステージに出ようとすると、あいつはそこに立ってて『お前らクソ野郎どもはコケるといいな』なんて言うんですよ。きっとマルチメディア・ショーの先駆者は自分だって言ってたから、私たちに嫉妬して頭に来てたんだろうね。あいつのショーとアンディがやったショーを比べられるのは気の毒だったね」

 

7. 彼らはエンジニアに見捨てられた

バンドが超攻撃的なセカンド・アルバム『White Light/White Heat(ホワイト・ライト/ホワイト・ヒート)』をレコーディングしていた1967年(ケイルによると「全く最低な年」)、彼らのサウンドの強烈さに彼らのエンジニアたちですら嫌気がさしてしまった。ルー・リードは当時を思い出して語った。

「エンジニアの連中が消えちゃったんだ。あるエンジニアなんて『こんなものは聴く必要がない。録音のスイッチを入れたら俺は帰るよ。終わったら呼びに来てくれ』って言ってたよ」

 

8. ジョナサン・リッチマンは彼らの大ファンであり一番弟子だった

ボストンにはザ・ヴェルヴェット・アンダーグラウンドのファンが多く、ザ・モダン・ラヴァーズを立ち上げる前のジョナサン・リッチマンはそのファンたちの中心人物だった。彼はこう回想する。

「多分彼らのショーは60回から70回くらい観たよ。他で聴いたことがないような音楽だった。ただ新しいだけじゃなくて、過激なくらい他の音楽と違ってた」

そのうち彼はもっとバンドとの交流を深めていった。

「僕にギターの弾き方を教えてくれたのはスターリング・モリソンなんだ。彼らの音楽はとにかく自由で他の音楽にあったような慣習や習慣に縛られてなかったから、僕は高校に縛られてると感じずにすんだし、自分自身の音楽の作り方を考え出す助けになったんだ」

バンドへの尊敬を隠さない少年をバンドは両手を広げて受け入れた。

「彼らはみんな僕によくしてくれたんだ。ある時は、僕に彼らのショーの前座をやらせてくれたんだよ」

 

9. モーリン・タッカーは「After Hours」を歌うのに震え上がっていた

「俺がこの歌を歌っても聴いてるファンは信じないだろうけど彼女なら信じるだろうから」と言って、ルー・リードはドラムセットに座ってたモーリン・タッカーを引っ張り出して、彼らのサード・アルバム『The Velvet Underground(ヴェルヴェット・アンダーグラウンドIII)』に収録された心優しいバラード曲「After Hours」を歌わせた。モーリンはこう当時を思い出す。

「死ぬほど怖かった。それまで歌なんか歌ったことがなくて『絶対無理!』と思ったね。ギターのスターリング・モリソンがあたしのことを笑ったもんだから、彼を部屋から追い出さなきゃいけなかったほど」

彼女はコンサートでもこの曲を歌うのを嫌がったが、ジョナサン・リッチマンはボストンでのあるショーでのことを思い出してこう語っている。

「あの夜、それほどバンドのファンではない連中も、モーリン・タッカーが出てきてこの曲を歌ったら、一発でみんな虜になったんだ」

 

10. ルー・リードはマクシズ・カンザス・シティでバンドを辞めた

ニューヨークにあった、ミュージシャンやアーティスト達が集うライヴ・ハウス兼レストランのマクシズ・カンザス・シティはヴェルヴェッツのホーム・グラウンドだったが、彼らの活動が終焉した場所でもあった。

1970年までには、それまで続いた多大な努力を費やしながらも成功に至らないという苦難が、ルー・リードを臨界点にまで追い詰めていた。それが頂点に達したのは8月23日のマクシズでのショーだった。ウォーホルの親友で影響力のある音楽マネージャーだったダニー・フィールズは当時を思い出してこう語る。

「私はマクシズに彼らのライヴを観に行ったんですが、既にライヴは終わっていて、ルーが出口の方に出てくるところだったんです。私は『やあ、ルー』と声をかけたんですが、彼はただ早足で歩き去ってしまった。そうしたら誰かから『あいつはたった今バンドを辞めたんだよ』って言われたんです。それが全ての終わりでした」

その最後のショーは、彼ら解散後にリリースされ今や名盤とされるアルバム『Live At Max’s Kansas City』に収められて後世に残されている。

トッド・ヘインズ監督によるドキュメンタリー映画『ザ・ヴェルヴェット・アンダーグラウンド』はApple TV+で配信中

Written By Jim Allen



The Velvet Underground: A Documentary Film By Todd Haynes (Music From The Motion Picture Soundtrack)
2021年10月15日配信
iTunes / Apple Music / Spotify / Amazon Music / YouTube Music





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