デジタル・アンダーグラウンドのショック・Gが57歳で逝去。その功績を辿る
90年代に活躍したヒップホップグループ、デジタル・アンダーグラウンド(Digital Underground)の創設メンバーでありリーダーのショック・G(Shock G)が2021年4月22日にフロリダ州タンパのホテルで遺体にて発見された。享年57だった。
<関連記事>
・2021年に亡くなったミュージシャン、音楽業界の関係者たち
・人気ラッパー、DMXが50歳で逝去。その功績を辿る
デジタル・アンダーグラウンドは、90年代前半にヒット曲を連発し、中でも当時まだあまり知られていなかったラッパーのトゥパック・シャカールをフックアップしたことで知られている。彼らのサウンドは、ラップとファンクの中間に位置しており、ショック・Gは「デジタル・アンダーグラウンドはパーラメントが去った場所に存在している」と公言していた。
1987年、地元タンパから北カリフォルニアに移住したショック・Gは、デジタル・アンダーグラウンドの自主制作シングル「Underwater Rimes」を制作。このシングルがトミー・ボーイ・レコードの目に留まり、1990年にデジタル・アンダーグラウンドのファースト・アルバム『Sex Packets』が発売された。ヒットシングル「The Humpty Dance」を収録したこのアルバムは100万枚の売り上げを記録した。
ショック・Gがヒップホップや音楽に最も影響を与えたのは、Genius.comによると2パックが初めてボーカルで登場した曲であるヒット曲「Same Song」をリリースした時かもしれない。この曲で最初に登場するショック・Gがホスト役を務めている。
2パックはショック・Gのオーディションを受け、デジタル・アンダーグラウンドのロードクルーとして採用された。やがてグループでレコーディングを行うようになり、同グループの『This Is an EP Release』や、グラミー賞にノミネートされた『Sons of the P』に参加している。
しかし、1991年には、50万枚の売り上げを記録した2パックのアルバム『2Pacalypse Now』で、2Pacはソロ・レコーディングのキャリアをスタートし、1993年には2パックは全米で人気者となっていた。2パックのセカンド・アルバム『Strictly 4 My N.*.*.*.Z.』には、ショック・Gとデジタル・アンダーグラウンドのメンバーであるマネーBが参加し、2パックの最初の大ヒット曲「I Get Around」の制作に貢献した。ラップスターであると同時に才能の発掘者でもあったショック・Gは、ラップの歴史に他に類を見ない足跡を残したのだ。
最後にニュー・ヨーク・タイムス紙にショック・Gが語ったインタビューを引用しよう。
「ファンクはロックでもあり、ジャズでもあり、ソウルでもある。多くの人は、良いポップソングとは何かというチェックリストを持っている。それは、3分でなければならない、繰り返されるコーラスがなければならない、キャッチーなフックがなければならない、というものです。それが音楽を陳腐にしている。俺たちは“気持ちのいいことをやれ”と言っている。3分で気に入れるんなら、30分でも気に入るんだ」
Written By Will Schube
- 【特集】ヒップホップ・ゴールデン・エイジ
- カーティス・ブロウの功績:いかにしてラップ初の50万枚を売りあげたのか
- パブリック・エネミー「Fight the Power」の背景
- ヒップホップと政治問題の歴史:グランドマスターからケンドリックまで
- 30年前のヒップホップ名作・生誕ラッシュ
- パブリック・エネミー結成35年後の脱退劇の真相と大統領選挙