名ジャズ・ドラマーのロイ・ヘインズが99歳で逝去。その功績を辿る

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Photo: Tom Copi/Michael Ochs Archives/Getty Images

名ジャズ・ドラマーのロイ・ヘインズ(Roy Haynes)が逝去した。享年99歳。彼は1940年代半ばに名声を得た小さなエリートのドラマー集団の最後の生き残りで、ジャズのリズムに会話的な要素を取り入れ、ドラマーの主な役割はリズムキープであるというそれまでの既成概念に挑んだ。ベーシストのアル・マッキボンは、ロイの独特で歯切れの良いスネアドラムの音を“スナップ・クラックル”と表現した。

ロイはシンバルを巧みに使い、グルーヴを生み出しながら他のミュージシャンの演奏にリズムによる合いの手を加えることで、独自の存在感を示した。打楽器の色彩や陰影を使ってソリストたちを支え、緊張感を高めることで、彼はアート・ブレイキーやケニー・クラーク、マックス・ローチと共に、ジャズ・ドラムを新たな時代の技巧へと進化させていった。

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ロイ・ヘインズは、ビッグバンドのスウィング時代の終わりからその75年に及ぶキャリアをスタートし、ビバップ、フリージャズ、フュージョン、ラテンジャズまで幅広いスタイルで活躍した。チャーリー・パーカーやセロニアス・モンクなどジャズ界の大物たちと共演しながら、これまでに600枚以上のレコードに参加している。

ジャズ界の外ではあまりその名は知られていなかったものの、彼の卓越した技術とエネルギーは、同業者から高く評価されていた。1966年のインタビューの中でジョン・コルトレーンは彼を「これまで共演した中で最高のドラマーの一人」と称賛し、60年代半ばのスタン・ゲッツのバンドで共演したピアニストのチック・コリアは彼を「国宝」と表現。また、1990年代に頻繁に共演していたパット・メセニーは、ロイを「現代ドラムの父」と呼んでいた。

その生い立ち

1925年3月13日にマサチューセッツ州ボストンのロクスベリー地区に生まれたロイ・オーウェン・ヘインズは、4人兄弟の三男で、両親のグスタヴァスとエドナ・ヘインズはバルバドスからの移住者だった。父親はスタンダード・オイル社で働きながら、アマチュア・ミュージシャンとして合唱団で歌い、オルガンも演奏していた。ロイは、幼少期からリズムに強い親和性を示していたという。2007年のグラミー賞のウェブサイトの記事の中で、彼は「ずっとドラムを叩きたかった。母のダイニングテーブルや食器を叩いては、何でも壊してしまっていた」と自身の幼少期を振り返っている。

ロイ・ヘインズは、15歳の時、兄が聴かせてくれたカウント・ベイシーのビッグバンドによる演奏で、ドラマーのジョー・ジョーンズによるシンコペーションの効いたポリリズムが際立つ一曲「The World Is Mad」をきっかけに、真剣にジャズの道を志すことを決意した。彼は2003年にスミソニアン誌で「その曲を聴いたとき、心の底から“ジャズ・ドラマーになりたい”と思った」と語っていた。

 

ドラマーとしてのブレイク

いくつかの地元のスウィング・バンドで経験を積んだ後、1945年に彼に大きな転機が訪れる。ニューヨークを拠点に活動するパナマ出身のピアニスト、ルイス・ラッセルが、10人編成のビッグバンドに彼を招いたのだ。ルイス・ラッセルのリズムへの柔軟なアプローチは、当時20歳だったロイに大きな影響を与えた。彼はスミソニアン誌にそのバンドで過ごした1年間についてこう語っていた。

「音楽には決まったリズムというものはなく、ただ空間があるだけだと学んだ。リズムをもっと自由に感じることができる。でも同時に、コントロールとスウィングが必要なことも学んだよ」

1946年に同バンドを離れた彼は、テナー・サックス奏者レスター・ヤングと2年間の活動を通じてそのスタイルをさらに深めていく。レスター・ヤングの演奏スタイルは、スウィングと、当時新たな音楽的トレンドとしてニューヨークで広がりつつあった、小編成での卓越した技巧が要求される複雑なジャズ形式“ビバップ”を橋渡しした。この頃までに、ロイ・ヘインズは演奏の中でシンバルやスネアを使った巧妙なパターンを取り入れ、ビートから外れたリズムの色彩を加えるようになっていた。

1940年代が終わり、1950年代に入ると、その軽やかでしなやかなアプローチは彼のトレードマークとなり、そのスタイルは、アルト・サックス奏者でビバップの先駆者であるチャーリー・“バード”・パーカーとの共演を通じてさらなる発展を遂げていく。チャーリー・パーカーのメロディー、ハーモニー、リズムに対する実験的なアプローチは、ロイの探求心ともよく調和した。

ロイ・ヘインズの力強さと抑制のバランスを操る能力は、非常に魅力的なサイドマンとして彼の評価を高めていった。1950年代を通して、サラ・ヴォーンやビリー・ホリデイといった歌手と共演し、伴奏者としての感性を磨く一方で、トランペットの巨匠ルイ・アームストロングを含む多くの楽器奏者とも共演。しかし、彼が真にその卓越した才能を発揮したのは、ジャズ界の中でも特に実験的なアーティストたちとの共演だった。

この時期、彼は、マイルス・デイヴィスの『Miles Davis & Horns』(1951年)、バド・パウエルの『The Amazing Bud Powell』(1952年)、ソニー・ロリンズの『The Sound Of Sonny』(1957年)といったモダンジャズの名作の数々に参加。彼はますますアンサンブル演奏を対話のように捉えるようになり、ソリストの演奏を注意深く聴きながら、リズムでの応答や合いの手を入れるというアプローチを見せるようになっていく。

 

最も手ごわい共演相手

1950年代のニューヨーク・シーンで共演した多くのミュージシャンの中で、ロイ・ヘインズにとって最も手ごわい相手といえば、独特なメロディや変則的なコード進行、リズムの変化で知られる風変わりなピアニストで作曲家のセロニアス・モンクだろう。2008年のJazzWaxのインタビューの中で彼はこう語っている。

「モンクとの演奏は一筋縄ではいかないことが多かった。彼の演奏は奇妙なテンポで、しっかり聴いていないとついていけなかった」

それでも、1958年のライヴ・アルバム『Thelonious in Action』や『Misterioso』は、彼がセロニアス・モンクのリズムの奇妙な癖を見事に乗りこなせる数少ないドラマーの一人であることを証明した。作家のロビン・D.G.・ケリーは、2009年のセロニアス・モンクの伝記本『Thelonious Monk: The Life And Times Of An American Original』の中で次のように記している。

「ヘインズはテンポに関係なく、常にモンクのバンドを焚き付けるような演奏をしていた。モンクもまた、ヘインズのドラム・スタイルを“サイドポケットに完璧に入るエイトボール”と評していた」

多忙なサイドマンとしての活動の傍ら、ロイ・ヘインズはそのキャリアを通じて30枚のリーダー・アルバムを発表した。彼のデビュー作は、ビバップ色の強い1954年の『Busman’s Holiday』だった。そして1962年には、オハイオ出身の盲目のマルチ・インストゥルメンタリスト、ローランド・カークを擁するカルテットを率いたクールで穏やかな作品『Out Of The Afternoon』をリリース。

スウィング・スタンダードとハードバップのオリジナル曲を融合させたこのアルバムは、彼が作曲を手掛けたポリリズム曲「Snap Crackle」をはじめ、その卓越した演奏技術のみならず、他のミュージシャンと深くクリエイティブな関係を築く才能が証明された作品であり、彼の代表作として知られている。

40代に差し掛かってもなお、冒険心を失わず、前衛的なジャズの領域へと踏み出していったロイ・ヘインズは、エリック・ドルフィーの『Out There』(1960年)、アンドリュー・ヒルの『Black Fire』(1963年)、ジョン・コルトレーンの『Impressions』(1963年)など、アヴァンギャルドのアイコンたちの一連のアルバムに参加。

また、彼の友人であるマイルス・デイヴィスと同様に、この頃にはスタイル・アイコンとしても注目を集めており、イタリア製のシャープなスーツや速い車を好むことでも知られていた。

「当時は、ドラムの演奏よりもむしろファッションで注目されていた。フィラデルフィアに行くと、若いヒップスターたちは僕のファッションを見に来たものだ」

と、彼はグラミー賞のウェブサイトで語っていた。1960年には、エスクァイア誌が彼を“年間最優秀ベストドレッサー”に選出している。

 

キャリア後期

ジャズ界が商業的に低迷した1970年代から80年代にかけても、ロイ・ヘインズは自らの音楽的な境界を広げ続け、ポップ・ジャズやラテン音楽、エレクトリック・フュージョンなど多彩なスタイルに挑戦した。

1988年には、ピアニストのマッコイ・タイナー、サックス奏者のファラオ・サンダース、ベーシストのセシル・マクビーと共に録音したジョン・コルトレーンへのトリビュート・アルバム『Blues For Coltrane: A Tribute to John Coltrane』で、自身初のグラミー“最優秀ジャズ・インストゥルメンタル・ジャズ・パフォーマンス、グループ”を受賞。

このアルバムは、ジョン・コルトレーンの楽曲を活気あふれるアレンジで再解釈した作品とオリジナル曲を織り交ぜたものだった。マッコイ・タイナーは2003年にスミソニアン誌のインタビューで、「ロイが他のミュージシャンと一線を画しているのは、彼が非常によく聴くことだ。彼は注意深く聴き、的確に反応し、物事を俯瞰で見て、そしてただ自分本位に突き進むべきではないということを教えてくれるんだ」と語っていた。

2002年から2012年にかけて、ロイ・ヘインズは、ジャズ・グループ“ファウンテン・オブ・ユース”を率い、新進気鋭の才能をサポートした。その中には、後にブルーノート・レーベルのアーティストとなるテナーサックス奏者のマーカス・ストリックランドも含まれていた。彼は1996年にフランス最高の芸術勲章「芸術文化勲章」を授与され、その後も多くの栄誉でその功績が讃えられている。

2010年にはグラミー賞の特別功労賞生涯業績賞を受賞し、さらにジョンズ・ホプキンス大学からアメリカ音楽への貢献を称えたジョージ・ピーボディ・メダルを授与されている。

ニューヨーク・シティから数時間のロングアイランドで晩年を過ごしたロイ・ヘインズは、90代に入ってもドラムを叩き続けた。老齢にもかかわらず、写真に写る彼の姿はまるでフライ級のボクサーのように引き締まった筋肉質の体型で、若々しいエネルギーを常に感じさせ、彼の音楽に宿る活力そのものを象徴してかのようだった。

ロイ・ヘインズは、その圧倒的なステージでの存在感とリズムの独創性で、ドラムは単に一定のビートを保つこと以上のものであることを世界に示した。彼は、サポートの役割を担うミュージシャンもまた、ソロを演奏するプレーヤーと同じくらい創造的であり得ることを証明した。彼は2011年のThe Arts Deskのインタビューの中で、こう言葉を残している。

「誰かがソロを演奏しているとき、私は自分の頭に浮かんだことや、聞こえてくることをもとに装飾を加えるんだ。私は絵を描き、物語を語るんだ」

Written By Charles Waring



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