ブラジルの“ロックの女王”、ムタンチスの創設メンバー、ヒタ・リーが75歳で逝去。その功績を辿る

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Rita Lee - Photo: Rui M Leal/Getty Images

1960年代後半のブラジルにおけるトロピカリア・ムーヴメントを代表する先駆的ロック・バンド、ムタンチス(Os Mutantes)の創設メンバーで、“ロックの女王”と称されたヒタ・リー(Rita Lee)が75歳で逝去した。

その60年に及ぶキャリアで5,500万枚以上のセールスを記録し、フェミニストの象徴でもあったヒタ・リーは、2021年に肺がんと診断され、昨年は寛解状態にあったと報じされていたが、5月8日の夜、サンパウロの自宅で亡くなった。

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追悼の言葉

彼女の公式インスタグラムは、「この深い悲しみの時に、家族は皆さまのお気持ちと愛に感謝します」というメッセージと共に、ラテンアメリカ最大の公園の一つであるサンパウロのイビラプエラ公園で行われる公開通夜にファンを招待している。

現代ブラジル音楽界で最も重要な人物の1人であるヒタ・リーの訃報を受けて、多くの関係者がSNSを通して追悼コメントを寄せている。

ブラジル出身のロック・シンガーPittyは自身のツイッターで、「悲しみに打ちのめされています。最も偉大な人物が私たちの元を去ってしまいました。ヒタ・リーのような人は2度と現れないでしょう」と述べている他、ブラジルの文化大臣でもある歌手で作曲家のマルガレッチ・メネーゼスは、“革命的な女性”として彼女の功績を称え、彼女の息子の一人であるジョアン・リーは、「世界は、史上最もユニークで素晴らしい人物の1人を失いました。あなたはなんと濃密で壮大な人生を送ったのでしょう。多くの人々から賞賛され、愛され、常に時代の最先端を行っていました」と哀悼の意を捧げている。

チャールズ国王も大ファンだった

ヒタ・リーは、国内だけでなく、ニルヴァーナのカート・コバーンやチャールズ英国王など、海外にも多くのファンを持っていた。

デイリー・ミラー紙は、1988年にパリで行われた英国大使館の晩餐会の席で、当時プリンス・オブ・ウェールズだったチャールズ3世が、ヒタ・リーのレコードをかけるように依頼し、そのレコードがターンテーブルの上に置かれた時、チャールズ3世は「すでに歌詞を暗記していた」と報じている。

あがり症の幼少期、そしてムタンチスの成功

ブラジルのサンパウロで、アメリカ人の父とブラジル人の母との間に生まれた彼女は、幼い頃からクラシック・ピアノを習っていたが、とある新聞によると、あがり症に悩まされ、ある日のオーディションでは緊張からおしっこを漏らしてしまうほどだったという。

しかし、その後も彼女は音楽活動から退くどころか、ますます没頭するようになり、1966年にアルナルド・バチスタとセルジオ・ヂアスと共にムタンチスを結成する。フォーリャ・ジ・サンパウロ紙に掲載されたキャリア初のインタビューの中で、彼女は「(このバンドは)世界を征服するために別の惑星からやってきた」と宣言していたが、彼女は正しかった。

ムタンチスは、そのドラッグのように中毒性の高い破壊的な音楽で、当時カエターノ・ヴェローゾ、トン・ゼー、ジルベルト・ジルらが牽引していたブラジルにおけるトロピカリア・ムーヴメント(伝統的なブラジル音楽に電気楽器や外国のサウンドを融合させた)の代表的バンドとしてセンセーションを巻き起こし、その後数十年かけて国際的な名声と評価を獲得していく。

ヒタ・リーは、2001年に行われたニューヨーク・タイムズ紙のインタビューで、「要するに、私たちは他の誰よりも何年も先を行っていたのです」と語っている。

ブラジルですぐにセンセーションを巻き起こしたムタンチスは、国際的な名声と評価を得るまでに数十年かかったが、やがてそれは実現した。カート・コバーンは、1993年にブラジルを訪れた際、ムタンチスの“革命的”なサウンドと、1964年から85年の軍事独裁政権下で大胆な音楽を生み出した彼らの“ガッツ”を賞賛していたほどだ。

ヒタ・リーは1972年にバンドを脱退するまでに、「Balada do Louco」「Baby」「Ando Meio Desligado」といったムタンチスの名曲の数々を生み出すのに貢献した。

 

ソロとして

また、ソロ・アーティストとしても、「Amor e Sexo」や「Lança Perfume」などのヒット曲を次々と発表し、成功を収めた。彼女がそのキャリアを通じて発表した40作を超えるアルバムには、2001年のボサノヴァを取り入れたザ・ビートルズへのオマージュ作品『Here, There and Everywhere』も含まれている。

2016年に発表した自伝の中で、ヒタ・リーは自分の墓碑銘してほしいという願いを込めてこう書き記している。

「彼女は決して良いお手本ではなかった。しかし、彼女は良い人間だった」

Written By Tim Peacock




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