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米音楽界が誇る多才な巨匠、クインシー・ジョーンズが91歳で逝去。その功績を辿る

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Photo: Gai Terrell/Redferns/Getty Images

米音楽界が誇る多才な巨匠、クインシー・ジョーンズ(Quincy Jones)が2024年11月3日に91歳で逝去した。SNS上で溢れかえっている彼に対する賞賛と哀悼の声は、彼がジャンルを超え、ポピュラー音楽に与えた影響の大きさを物語っている。

彼の揺るぎないセンスと判断力は、ジャズ、ポップ、ソウル、R&Bといった音楽分野だけでなく、映画やテレビの世界においても、多くのアーティストのキャリアを豊かなものにした。彼は、ロックの殿堂入りを果たし、グラミー賞 特別功労賞伝説賞、国民芸術勲章、ジョン・F・ケネディ・センター名誉賞など、数多くの栄誉を受けた偉大な人物だった。

クインシー・ジョーンズは、レイ・チャールズやエラ・フィッツジェラルド、ダイナ・ワシントン、サラ・ヴォーン、フランク・シナトラ、マイケル・ジャクソンといった偉大なアーティストたちと仕事を共にし、レスリー・ゴーアやブラザーズ・ジョンソン、ドナ・サマー、ジョージ・ベンソン、ジェームス・イングラムなど、数多くのアーティストのキャリアにも影響を与えた。そして、彼がプロデュースを手掛けた、マイケル・ジャクソンの『Thriller』は、今なお史上最も売れたアルバムであり続け、その前作の『Off The Wall』や後の『Bad』もまた、音楽史に残る作品として知られている。

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The Dude

その生い立ち

1933年3月14日にシカゴで生まれたクインシー・ディライト・ジョーンズ・ジュニアは、幼少期に両親が離婚し、10歳のとき、義母エルヴェラと家族とともにワシントン州ブレマートンに移り住んだ。実母サラは多くのパーソナルな問題を抱えていたものの、彼が音楽への情熱を育む手助けをし、高校では早くからジャズのトランペット奏者とアレンジャーとしての才能を発揮し始めた。

2018年のポッドキャストシリーズ“What It Takes”で、クインシー・ジョーンズは、音楽が彼の人生を正しい方向へと導いたことを振り返りこう語っている。

「ある夜、別のドアを破って入ったんだ。そこにはピアノがあった。まず部屋をぐるっと歩き回って、手が自然と鍵盤に触れたんだ。そして、シカゴに住んでいた頃を思い出した。隣の家にルーシーという女の子がいて、ピアノを弾いていたのを覚えている。その瞬間、鍵盤に触れてこう思ったんだ。“これだ。他のことはもうやめよう。この道に進むんだ”って。そうして僕は音楽の道に進むことになった」

クインシーが14歳の時、当時16歳だったレイ・チャールズに出会った。レイは若くして才能を発揮し、数々の困難を乗り越えて成功を収め、クインシーにとって絶えずインスピレーションを与える存在だった。その後、クインシーはシアトル大学に奨学金で進学し、同級生にはクリント・イーストウッドもいた。また、彼は後にバークリー音楽大学となる学校で音楽を学び、1983年には名誉音楽博士号を授与されている。

 

ジャズ界での台頭

やがて彼の多才ぶりは需要を集め、ライオネル・ハンプトンのバンドとツアーを共にした後、ニューヨークへと移住し、そこでデューク・エリントン、カウント・ベイシー、サラ・ヴォーン、ダイナ・ワシントンといった名だたるアーティストのためにフリーランスとして編曲を手掛けていく。彼の活動はアメリカ国内にとどまらず、1953年にはライオネル・ハンプトンと共にヨーロッパを巡り、さらに20代前半でディジー・ガレスピーの音楽監督として中東ツアーに帯同した。

1955年、彼は、過去2年間にジャズドラマーのロイ・ヘインズと共にスウェーデンで録音したライヴ音源を収録した『Jazz Abroad』をエマーシー・レコードから発表した。その後、自身がバンドリーダーを務めた初のフル・アルバム『This Is How I Feel About Jazz』をABCパラマウントからリリース。クリード・テイラーがプロデュースを手掛け、9人編成から15人編成のビッグバンドまで、多彩なバンド編成の中でクインシーがその卓越した技量を披露したこの作品には、アート・ファーマー、フィル・ウッズ、ミルト・ジャクソン、アート・ペッパー、ズート・シムズ、ハービー・マンといった偉大なミュージシャンたちが参加している。

米ビルボードはこのアルバムのレビューの中で、クインシーの才能をこう絶賛した。

「クインシー・ジョーンズは、近年のジャズ界で起こっている最高の出来事のひとつだ。彼は現代的な作品を書きながらも、同時にその音楽スタイルの基本的で時代を超えた精神を理解している若き編曲家・作曲家である」

Stockholm Sweetnin'

ABCパラマウントからの2作目のアルバム『Go West, Man!』に続いて、1958年には『Quincy’s Home Again』をメトロノーム・レコードから発表。同年、25歳でフランク・シナトラと出会ったクインシーは、彼が後にリリースする優れたアルバムのいくつかのアレンジを手掛け、終生の友人となった。しかし、名声は必ずしも経済的利益に結びつくわけではなく、当時の彼は生活費を稼ぐのに苦労していた。

移籍したマーキュリー・レコードでの仕事は、彼により安定した収入をもたらしただけでなく、音楽ビジネスの基礎を身につけることで、彼を探究心の乏しいミュージシャンとは一線を画す存在にした。ビジネスとクリエイティブな役割を巧みに組み合わせていった彼は、1959年にリリースされた『The Birth of a Band!』でマーキュリーとの長期的なレコーディングの活動を開始し、このアルバムは米ビルボードのジャズ・チャートにランクインした。

クインシー・ジョーンズは、1961年までに同レーベルの副社長に昇進し、アフリカ系アメリカ人のエグゼクティブとして新たな道を切り開いた。その後、数枚のアルバムをリリースした彼は、1962年、マーキュリーから発表したアルバム『Big Band Bossa Nova』でオール・ジャンルのアルバム・チャートに初めてランクイン。同アルバムに収録の「Soul Bossa Nova」はその曲名を言えなくても誰もが知っている名曲のひとつだ。

彼は1963年に行われたMelody Maker誌のインタビューの中で、自身のアレンジ技術について次のように語っていた。

「レコードを計画するとき、プログラムを作るか、ある特定のムード、もしくは変化に富んだムードを決めるのか、まず方向性を見出さなければならない。セッションをどこでやるのかにも理由が必要になる。どうやって決めるかというと、アーティストのカタログやレパートリー、過去に何を作ったかを考慮するんだ。それ以後は、ほとんど直感に頼る」

Soul Bossa Nova

ポップ・プロデューサーとしての才能

ポップ音楽の才能を見抜く力を備えたクインシー・ジョーンズは、1963年にプロデューサーとして初のヒット・シングルを生み出した。それは当時の典型的なポップの45回転シングルの一つであり、彼のスキルが広く認められるきっかけとなった。

彼がプロデュースを手掛けた「It’s My Party」が全米シングル・チャートで1位を獲得した時、ニューヨークで発掘されたレスリー・ゴーアはまだ16歳にも満たない若さだった。その後もレスリー・ゴーアは、クインシーがプロデュースした「Judy’s Turn to Cry」「She’s a Fool」「You Don’t Own Me 」で立て続けにスマッシュ・ヒットを記録。

Lesley Gore – It's My Party (Official Audio)

1964年、クインシー・ジョーンズのキャリアは、現代風に言えば“マルチメディア”へとさらなる広がりを見せていく。この年、彼はシドニー・ルメット監督の『質屋』のために、約40本にのぼる映画音楽の最初のスコアを手掛けた。この成功を足がかりに彼はロサンゼルスへと移住し、その後手掛けたサウンドトラックには、『夜の大捜査線』『ミニミニ大作戦』『ボブ&キャロル&テッド&アリス』『アウト・オブ・タウナーズ』『続・夜の大捜査線』、そして『カラーパープル』など、多くの名作が含まれる。

彼はまた、『サンフォード・アンド・サン』やレイモンド・バーが主演する『鬼警部アイアンサイド』、そして壮大なシリーズ『ルーツ』の初回エピソードなど、長く愛されるTVドラマの印象深いテーマ曲も手掛けている。1971年には、アカデミー賞授賞式の音楽を指揮・演出を務め、アフリカ系アメリカ人として初の快挙を成し遂げた。

レコーディング・アーティストとしては、1969年の『Walking In Space』と1971年の『Smackwater Jack』でグラミー賞を受賞し、1974年の『Body Heat』と1977年の『Roots』のサウンドトラックはアメリカでゴールド・ディスクを獲得。1978年発表の『Sounds…And Stuff Like That!』はアメリカでプラチナ・セールスを記録し、チャカ・カーンをフィーチャーしたヒット・シングル「Stuff Like That」によって国際的な成功を収めていった。

このアルバムは、以降もクインシー・ジョーンズが再び用いることになる “一流のヴォーカリストや演奏者をゲストとして起用する” というテンプレートを確立した。そうして制作された1981年の『The Dude』はメガヒットを記録し、「Ai No Corrida (愛のコリーダ)」、ジェームス・イングラムのソウルフルな歌声を世に広く知らしめた「Just Once」や「One Hundred Ways」といったヒット・シングルに加え、パティ・オースティンが歌う「Betcha Wouldn’t Hurt Me」や、ロッド・テンパートン作曲よる「Razzmatazz」といった数々の名曲が生まれた。

Ai No Corrida

 

マイケル・ジャクソンとの仕事

クインシー・ジョーンズとロッド・テンパートンとの絆は、すでに不動のものとなっていた。1979年、クインシーはマイケル・ジャクソンと初めてタッグを組んだ。二人が初めて出会ったとき、マイケルは12歳で、その後の彼の世界的アイコンとしての台頭にクインシーが重要な役割を果たした。

その最初の成果がアルバム『Off The Wall』であり、ロッド・テンパートンはタイトル曲を含む3曲の作曲を担当している。同アルバムは、2021年2月に全米で9度目のプラチナ認定(900万枚)を受け、全世界での推定セールスは2000万枚に達した。

しかし、その成功をもってしても、マイケルとの次なるコラボ作品『Thriller』に比べれば色褪せてしまうほどだった。1982年11月にリリースされたこの不朽のアルバムは、音楽業界のあらゆる販売記録を塗り替えた。『Thriller』は史上最も売れたアルバムとして今なお君臨し続け、7つのヒット曲と8つのグラミー賞受賞をはじめとする数え切れないほどの業績を収めた。クインシーがマイケルとタッグ組んだ3作目にして最後のスタジオ・アルバムは、1987年にリリースされたもう一つの大ヒット作『Bad』だった。

Michael Jackson – Thriller (Official 4K Video)

その頃までに、プロデューサーとしてのクインシー・ジョーンズの評価は、すでに比類ないほど高まっていた。彼は1985年の究極のチャリティー・シングル「We Are The World」の制作に際し、集まったスーパースターたちに「エゴはドアの外に置いておくように」と要求した人物としても知られている。

この曲には、マイケル・ジャクソン、スティーヴィー・ワンダー、レイ・チャールズ、ティナ・ターナー、ビリー・ジョエルをはじめとする無数のスターが参加し、3つのグラミー賞を受賞、さらに2000万枚の売り上げを記録した。この豪華なキャスト陣こそが、まさにクインシー・ジョーンズの並外れた人脈の証ともいえるものだった。

U.S.A. For Africa – We Are the World

 

自身名義の再開

1989年、自身の名義で音楽活動を再開したクインシーが発表したアルバム『Back On The Block』は、グラミー賞で“最優秀アルバム賞”に輝いた。『Back On The Block』は、彼の過去と現在をつなぐ時代を超えた旅であり、ジョージ・ベンソン、ルーサー・ヴァンドロス、アル・B・シュア、さらには12歳の新人テヴィン・キャンベルといった当時のスターたちに加え、エラ・フィッツジェラルド、マイルス・デイヴィス、サラ・ヴォーン、ディジー・ガレスピーといったジャズ界の巨星たちをフィーチャーした。このような顔ぶれを起用できるプロデューサーは彼以外には考えられないだろう。

Tomorrow (A Better You, Better Me)

クインシー・ジョーンズは、1990年のガーディアン紙のインタビューの中で次のように語っていた。

「若者たちがデューク・エリントンを知らないのは恥ずべきことだ。アメリカにおける黒人の歴史は音楽の中に記録されているのに、特に都市部の多くの若者たちには何のつながりも感じられない。それでも、世界中が黒人音楽に共感するのは偶然ではない。なぜなら奴隷制度が人々を押しやった深い場所に、誰もが魂を探求せざるを得なかった。そこには逃げ道もなく、行き先は内なる深みにしかなかったのだ」

クインシー・ジョーンズは、1995年のアルバム『Q’s Jook Joint』で再びプラチナ・セールスを達成し、この作品はエンジニアリングによりグラミー賞を受賞した。同アルバムには、ボノ、スティーヴィー・ワンダー、レイ・チャールズ(「Let The Good Times Roll」で共演)、バリー・ホワイト、グロリア・エステファン、ロナルド・アイズレーなどの豪華ゲストが参加。

2010年には、ヒップホップ、R&B、ソウル・シーンの実力派アーティストが集結し、クインシー・ジョーンズの手掛けた数々の名曲を新たなアレンジでレコーディングした『Q Soul Bossa Nostra』がリリースされている。

Let The Good Times Roll

2001年には自伝『Q: The Autobiography of Quincy Jones』が出版された。クインシー・ジョーンズは晩年まで驚異的なエネルギーで音楽とビジネスの新たな挑戦を続け、2017年にはフランスのプロデューサー、Reza Ackbaralyとともにジャズやインターナショナル・ミュージックの定額配信サービス「Qwest TV」を創設。2018年に行われたGQ誌のインタビューの中で彼は、「まだ始まったばかりのような気がする。これほど忙しかったことは今までないよ」と語っていた。

Written By Paul Sexton



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