大物プロデューサーのフィル・スペクターが新型コロナのため81歳で逝去。その功績を辿る
天才的なスタジオ・ワークで多くのミュージシャンたちに影響を与えながらも、私生活では物議を醸したレコード・プロデューサーのフィル・スペクター(Phil Spector)が81歳で逝去した。
ザ・クリスタルズの「He’s A Rebel」、ザ・ロネッツの「Be My Baby」、ライチャス・ブラザーズの「You’ve Lost That Lovin’ Feeling」他、数々のヒット曲を手がけたフィル・スペクターは、音圧を上げるための音楽制作手法「ウォール・オブ・サウンド」で最もよく知られている。
一方で、私生活においては、2003年のラナ・クラークソン殺害事件で有罪判決を受けたことで悪名を残していた。彼はカリフォルニア州の刑務所で長い懲役刑に服していたが、新型コロナウィルスとの闘病の末に亡くなった。
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本名ハーヴェイ・フィリップ・スペクターことフィル・スペクターは、1939年にニューヨーク市ブロンクスで生まれ、1958年にポップグループ“テディ・ベアーズ”を共同結成して音楽活動をスタート。同年秋、彼らは「To Know Him Is to Love Him」でグループ初の全米No.1ヒットを記録したが、その1年後にテディ・ベアーズは解散した。
その後、フィル・スペクターが手掛ける作品が業界関係者の注目を集め、伝説のソングライティング・デュオ、ジェリー・リーバーとマイク・ストーラーのもとで見習い生活を送ることになった彼は、そこでベン・E・キングの全米TOP10ヒット「Spanish Harlem」を共同作曲を手掛ける。
1960年、当時21歳だったフィル・スペクターは、フィレス・レコード(Philles Records)を共同設立し、小規模なインディペンデント・レーベルがまだ一般的ではなかった時代に最年少のレーベル・オーナーの一人となった。それからの数年間、彼はザ・クリスタルズ(「Da Doo Ron Ron」「He’s A Rebel」「Then He Kissed Me」)やダーレン・ラヴの(「(Today I Met) The Boy I’m Gonna Marry」)、ライチャス・ブラザーズ(「You’ve Lost That Lovin’ Feeling」「Unchained Melody」)、アイク&ティナ・ターナー(「River Deep, Mountain High」)、ロネッツ(「Be My Baby」「Baby, I Love You」)など、多彩なポップスやR&Bアーティストたちのために曲を書き、プロデュースすることに精力を注いでいく。
ザ・レッキン・クルーとして知られるようになった一流セッション・ミュージシャンたちから成るレギュラー・チームと共に、猛烈なスピードで次々とヒット曲を手掛けていった彼は、1960年から1965年にかけて、13曲もの全米TOP10ヒットと24曲のTOP40入りシングルを生んだ。
これらのヒット曲の多くは、編曲家のジャック・ニッチェとエンジニアのラリー・レヴィンと共同制作され、彼らはポピュラー・ミュージックのサウンドを永遠に変えていった。インストゥルメンタルとバッキング・ヴォーカルを何層にも重ね合わせたフィル・スペクターの特徴的なスタイルは「ウォール・オブ・サウンド」として知られるようになる。Sound on Sound誌によると、フィル・スペクターは1964年のインタビューの中で「ウォール・オブ・サウンド」についてこう説明していた。
「素材が最高のものでなくても、音そのものがレコードを支える強いサウンドを探していました。補強、補強の繰り返しで、ジグソーパズルのように全てがうまくはまったんです」
多くのアーティストがフィル・スペクターのテクニックに影響を受けているが、中でも最も有名なのはビーチ・ボーイズだろう。ドキュメンタリー映画『Endless Harmony: The Beach Boys Story』の中で、ブライアン・ウィルソンは、フィル・スペクターについて、人生最大のインスピレーション だったと証言している。
この時代にフィル・スペクターが手がけた最も有名なレコードのひとつが、フィレス・レコードからリリースされたクリスマス・コンピレーション『A Christmas Gift for You』だ。ザ・ロネッツによる「Sleigh Bells」やダーレン・ラヴの「Christmas (Baby Please Come Home)」などの現代に残る名曲をフィーチャーしたこの作品は、史上最高のクリスマス・アルバムのひとつとして知られている。
一方で、フィル・スペクターの支配的な人物像は、後に彼と一緒に仕事をしてきた多くの人々によって語られているが、彼がプロデュースとマネージメントを手掛けたザ・ロネッツが、シングル「Be My Baby」で大成功を収めた後に行われた、1963年のDisc誌によるインタビューにもその様子が反映されている。彼は次のように語っていた。
「彼女たちにまだアルバムを作らせるつもりはありません。彼女たちにはまだその準備ができていないんです。ヒット・シングルのためだけにアルバムをカットするというアメリカの従来のやり方に倣うつもりはない。ザ・ロネッツは特別な素材を持っていなければならないし、バンドワゴンに飛び乗るためだけに彼らを安売りするつもりはないのです」
フィル・スペクターは60年代後半に一時的に音楽業界を離れていたが、70年代の幕開けにあわせて、ザ・ビートルズと仕事をするために復帰を果たす。数回のソロ・セッションを経て、アルバム『Let It Be』を録音、完成させるために招かれた彼は、その後ジョン・レノンやジョージ・ハリスンのソロ・プロジェクトにも参加し、ジョン・レノンの『Imagine』や『Plastic Ono Band』、ジョージ・ハリスンの『All Things Must Pass』や『Living in the Material World for Harrison』といった不朽の名作の共同プロデュースを手掛けていった。
フィル・スペクターは、シェール、レナード・コーエン、ラモーンズなど大物アーティストたちとの仕事を経て、長い活動休止期間に入った。彼の最後のプロジェクトはイギリスのバンドスターセイラーの2003年のアルバム『Silence is Easy』で、全英TOP10入りのヒットを記録したタイトル曲を含む2曲をプロデュース。1989年にはロックンロールの殿堂入りを、1997年にはソングライターの殿堂入りを果たした。
2009年、ラナ・クラークソンの殺害事件で第二級殺人罪の判決を受けた彼は、19年の終身刑に服していた。
1964年、Disc誌との別のインタビューの中で、彼は自身のプロダクション・スタイルについて堂々とした口ぶりでこう語っていた。
「私のサウンドはミキシングの賜物ではありません。全てはスタジオで行われているセッションの中で得られるものなんです。いつかそれがどのように行われているかを説明しようとは思ってますが、ほとんどの人は理解できないでしょうね」
Written By uDiscover Team
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