ハッピー・マンデーズのベーシスト、ポール・ライダーが58歳で逝去。その功績を辿る

Published on

Paul Ryder - Photo: Mick Hutson/Redferns

マンチェスター・ムーヴメントを牽引したハッピー・マンデーズ(Happy Mondays)のベーシスト、ポール・ライダー(Paul Ryder)が2022年7月15日に58歳で逝去した。死因は公表されていない。

ハッピー・マンデーズは、バレアリック・ビート・シーンからインスピレーションを得た独自のスタイルで評価され、1987年の楽曲「24 Hour Party People」は2002年に映画『24アワー・パーティー・ピープル』のタイトルにもなった。バンドはこの訃報を受け、SNSには次のようなメッセージを投稿している。

「ライダーの家族とハッピー・マンデーズのバンドメンバーは、ポール・ライダーが今朝亡くなったことに深い悲しみと衝撃を受けています。真のパイオニアであり、伝説的な人物。彼は永遠に惜しまれることでしょう。我々は、関係者全員のプライバシーを尊重してくれたことに感謝します。彼のファンクに万歳」

兄のショーン・ライダーと一緒にバンドをスタートしたポールは、1980年の結成当時からのメンバーで、一時脱退していたが2012年の再結成の際に再加入していた。

<関連記事>
2022年に亡くなったミュージシャン、音楽業界の関係者たち
ノエルが歌うケミカル・ブラザーズの「Setting Sun」

この発表に際して、ピート・ワイリーは、「ポール、NO! なんてひどいニュースなんだ! RIPポール・ライダー。素敵で、面白くて、才能のある男だった。偉大なベーシストで、マンデーズの狂気にファンクをもたらした。彼がいなくなるのはとても悲しいよ。リバプールからショーンとライダー家、友人、そしてバンドに愛を込めて。ホース・ライダーに乗ってくれ」と投稿。

イアン・ブラウンは「ポール・ライダー、偉大な友人、偉大なミュージシャン、偉大な男、アメリア、ジェイコブ、ソニー、チコ、家族とバンドに大きな愛を! ずっと愛しているよ」と追悼。

また、マンチェスターのDJで元ハシエンダのデイヴ・ハスラムは、ライダーが「ハッピー・マンデーズに大きく貢献し、良い仲間で最高の男だった」とコメントを寄せている。

 

その生涯

郵便配達員と看護師の間に生まれた労働者階級出身のポール・ライダーは1964年にサルフォードで生まれ、独学でギターを習得した。ギターについては「弦の種類を知ったのは後になってからだ。太い弦、細い弦、太い弦の下の弦とか呼んでいたよ」と話している。

モータウンのアーティストやサウンドに影響されたポール・ライダーは、その後1980年代のシカゴのハウスミュージックに惹かれ、そのベースラインについて「そのスタイルを再現しようとしたけど、俺はコンピュータではなく本物の楽器を使ったんだ」と語っている。

1980年代後半から90年代初頭にかけてのハッピー・マンデーズの全盛期には、UKのインディー・ダンス・クロスオーバー・シーンに欠かせない存在として活躍。マーティン・ハネットがプロデュースしたセカンドアルバム『Bummed』でそこそこの知名度を得た後、1990年にリリースした『Pills ‘n’ Thrills and Bellyaches』で大ヒットを記録した。このアルバムは、シングル「Step On」と「Kinky Afro」の全英トップ10入りの成功をおさめ、1年後にプラチナ認定された。

1993年にバンドは解散するも、1999年には再結成。ポールは当時メロディーメーカー誌の取材に応じ、心境を次のように語っていた。

「自分がバンドのベーシストであること、そして自分の母親や父親よりも多くのお金を稼いでいることを受け入れるのに、これほど長い時間がかかってしまった。最初、俺たちが再び集まった時、バンドは2つの陣営に分かれていたんだ。俺とガズ(ゲイリー)とベン(・リーチ)、それからショーンと彼の新しい仲間ナッツとワグズ、それとベズが中立みたいな感じだった。でも、ツアーが進むにつれて、この2つの陣営が一緒になってきたんだ」

ハッピー・マンデーズを離れていた間、ポール・ライダーは2008年に別のグループ、ビッグ・アームでアルバムをリリースし、00年代後半にはロサンゼルスに移り住んだ。

Written By Sam Armstrong




Share this story

Don't Miss

{"vars":{"account":"UA-90870517-1"},"triggers":{"trackPageview":{"on":"visible","request":"pageview"}}}
モバイルバージョンを終了