モータウンを支えた作曲家兼プロデューサーのラモント・ドジャーが81歳で逝去。その功績を辿る

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Lamont Dozier - Photo: Courtesy of Douglas A. Sonders/WireImage for The Recording Academy

ブライアンとエディのホーランド兄弟とともに多くの名曲を生み、モータウン・サウンドの創造に貢献したソングライター兼プロデューサーのラモント・ドジャー(Lamont Dozier)が81歳で逝去した。

過去に14曲もの全米No.1シングルを共同作曲・プロデュースしてきたラモント・ドジャーの名は、1960年代に“サウンド・オブ・ヤング・アメリカ”と称されたデトロイト発のモータウン・サウンドと切っても切り離すことはできない。

マーサ&ザ・ヴァンデラス、マーヴィン・ゲイ、フォー・トップス、アイズレー・ブラザーズ、そしておそらく最も記憶に刻まれているシュープリームスなど、モータウンのかの有名なスネイクピット(スタジオA)で制作された数えきれないほどの名盤の中心的存在だったのが、彼ら3人から成る作曲/プロデューサー・チームの“ホーランド=ドジャー=ホーランド”だ。

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1941年6月16日にデトロイトで生まれたラモント・ハーバート・ドジャーは、10代の頃にロミオズ、ヴォイス・マスターズといった地元のグループで歌手活動をスタートさせた。その後、作曲家でプロデューサーのベリー・ゴーディが設立して間もなかったモータウンと契約し、1960年にラモント・アンソニー名義でアンナ・レコードから最初のシングル「Let’s Talk It Over」を発表。

一方で、作曲家やプロデューサーとして、他のアーティストの作品で優れた手腕を発揮していた彼は、とりわけ1963年にホーランド兄弟と共作を始めてからは、“ホーランド=ドジャー=ホーランド”としてモータウンにとってなくてはならない存在になっていく。

同年、トリオが作曲し、ラモント・ドジャーとブライアン・ホーランドがプロデュースを手掛けたマーサ&ザ・ヴァンデラスの「Come and Get These Memories」で初めて全米R&BチャートTOP10入りの成功を収め、続く「Heat Wave」は同チャートで初のNo.1に輝いた。

その後も、マーヴィン・ゲイの「Can I Get A Witness」「You’re A Wonderful One」「How Sweet It Is (To Be Loved by You)」、フォー・トップスの「Baby, I Need Your Loving」「I Can’t Help Myself (Sugar Pie, Honey Bunch) 」「It’s The Same Old Song」、キム・ウェストン、ミラクルズ、ジュニア・ウォーカー&オール・スターズなど、彼らが作曲・プロデュースを手掛けたモータウンのほぼ全主要アーティストのヒット曲を通して、何年にも亘る比類なき成功を収めていった彼らだが、とりわけシュープリームス作品では功績を残している。

ホーランド=ドジャー=ホーランドがプロデュースを手掛けたシュープリームスのシングルは、1964年の「Where Did Our Love Go」を皮切りに、「Baby Love」「Come See About Me」「Stop! In the Name of Love」「Back in My Arms Again」と、5曲連続で全米1位を獲得する快挙を成し遂げ、「I Hear A Symphony」「You Can’t Hurry Love」「You Keep Me Hangin’ On」「Love Is Here and Now You’re Gone」「The Happening」など、計10曲が全米No.1ヒットを記録した。

1968年に印税問題でモータウンから独立した彼らは、自身のレーベル“Invictus”と“Hot Wax”を設立し、前者ではフレダ・ペインやチェアマン・オブ・ザ・ボード、後者ではハニー・コーンや100プルーフ・エイジド・イン・ソウルらの新たなヒット曲が生まれた。

また、ラモント・ドジャーは、Invictusからリリースしたソロ名義のシングル「Why Can’t We Be Lovers」で全米R&BチャートTOP10入りを果たしている。

彼は、1973年のデビュー・アルバム『Out Here On My Own』を筆頭に、1974年の『Black Bach』、1977年の『Peddlin’ Music on the Side』(彼が作曲したオデッセイの1981年のヒット曲「Going Back To My Roots」も収録)、1981年の『Lamont』とソロ名義のアルバムも残りしており、デビュー作からは「Trying To Hold On To My Woman」「Fish Ain’t Bitin」「Let’s Start Tonite」がそれぞれR&Bチャートで4位を記録。

1980年代にさらに評価を高めていったラモント・ドジャーは、ゴールデングローブ賞に輝いた映画『フィル・コリンズ in バスター』のサウンドトラックに収録された「Two Hearts」や、フォー・トップスの「Loco In Acapulco」などで共作したフィル・コリンズをはじめ、新たなコラボレーションを実現させていく。

英国人歌手、アリソン・モイエのために「Invisible」を作曲し、同じくイギリス出身のソングライター兼アーティストのミック・ハックネルとはシンプリー・レッドのアルバム『A New Flame』と『Men and Women』で共作。ホーランド=ドジャー=ホーランドは1990年にロックの殿堂入りを果たしている。

Written By Paul Sexton




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