ユーライア・ヒープのキーボーディスト、ケン・ヘンズレーが75歳で逝去。その功績を辿る
1970年から1980年にかけてユーライア・ヒープ(Uriah Heep)のキーボード奏者、チーフ・ソングライターとして活躍したケン・ヘンズレー(Ken Hensley)が2020年11月4日に75歳で逝去したことを、彼の弟であるトレヴァー・ヘンズレーが自身のフェイスブックを通して報告した。
トレヴァー・ヘンズレーは次のように記している。
「深い悲しみと共に、私の兄であるケン・ヘンズレーが11月4日の夜、静かに息を引き取ったことをお知らせします。彼の美しい妻モニカが彼の側に付き添い、私達と共に最期の数分間に立ち会いました。私たちは皆、この悲劇的で予想外の出来事に打ちひしがれていますので、この死を受け入れるために私たち家族のプライバシーを尊重していただければと思っております。ケンはスペインでの家族葬で火葬される予定ですが、葬儀についてのお問い合わせにはお答えしかねます。彼はこの世を去っても、永遠に私たちの心の中にいます。安らかな旅立ちでありますように」
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ゴッズのメンバーとして注目を集めたキャリア初期
1945年8月24日生まれのケネス・ウィリアム・デヴィッド・ヘンズレーは、後にザ・ローリング・ストーンズのギタリストとなるミック・テイラーが在籍したゴッズ (The Gods)のメンバーとして注目を集め、1968年の『Genesis』と1969年の『 To Samuel A Son』の2作のアルバムをコロンビア・レコードから発表。このグループはまた、ヘッド・マシン(Head Machine)という別名義でアルバム『Orgasm』をリリースしている。
ロンドン出身のケン・ヘンズレーは、1970年2月にギタリストのミック・ボックス、ヴォーカルのデヴィッド・バイロンと共にスパイス(Spice)というバンドを結成し、その後すぐにバンド名をユーライア・ヒープへと改名した。彼らは、ヴァーティゴ(Vertigo)でレコーディングした『Very ‘Eavy, Very ‘Umble』と『Salisbury』という最初の2作のアルバムを経て、ワーナー・ブラザーズ(Warner Brothers)へと移籍し、後の作品を発表していく。
ミック・ボックスは当時を振り返りこう語っている。
「僕たちのサウンドにはキーボードが合うっていうことがわかって、ファースト・アルバム(1970年代の名盤『Very ‘Eavy…Very ‘Umble』)の半分をレコーディングしました。僕はハモンドオルガンに焼け付くようなギターが乗ってくるヴァニラ・ファッジの大ファンで、高音のビブラートが効いたデヴィッドのヴォーカルを活かして、それを形にすることにしたんです」
大半のユーライア・ヒープ楽曲の作詞・作曲を手掛けていたチーフ・ソングライター
1980年の脱退まで「Easy Livin’」「Stealin’」「Lady In Black」「Free Me」などのヒット・シングルを含む、大半のユーライア・ヒープ楽曲の作詞・作曲を手掛けていたケン・ヘンズレーは、このバンドで今までとは全く違った何かができるのではという可能性を見出していた。
彼は、1972年のアルバム『Demons And Wizards』に収録されているバンド最大のヒット曲「Easy Livin’」をわずか15分で書き上げたことでも知られている。当時の彼らのライフスタイルを第三者の目線で皮肉った同曲は、全英チャート入りは果たせなかったものの、ヨーロッパでTOP20入りするヒットを記録した他、全米シングル・チャートで最高39位を記録し、ラジオから火が付いたことで、同アルバムを全米チャート23位まで押し上げた。
ミック・ボックスはヒット曲「Easy Livin’」について次のように明かしている。
「とにかく刺激的な曲でした。ギターの音が素晴らしくて、まっすぐ攻撃的に怒涛の勢いで繰り広げられていく。曲のタイトルは移動中のバンの中での会話から思いついたものです。僕たちがアメリカへ飛ぶ前に、録音を聴くためにイングランド北部からロンドンのスタジオまで車を走らせていたところ、誰かが冗談で“これって悠々自適な生活だよね”って言った言葉がケンの心に響いたんです。じっくりと時間をかけてつくった曲ではありませんでした」
「アメリカのラジオでこの曲を聴いた時はとてつもなく感動したもので、それから物事がもの凄い速さで動き始めました。ヒット・シングルとは、小さな石がコケを集めて丘を転がっていくようなもので、麓に着く頃には巨大な岩になっているんです。あっという間にアメリカ中の1万席クラスの会場でライヴをやるようになって、どの空港にもリアジェットやリムジンが用意されていました。間違いなく素晴らしい時代でした」
後年、ケン・ヘンズレーはこう述べていた。
「僕たちが一緒にやることで魔法が生まれ、それが膨大なエネルギーと熱意を生み出していたんです。僕たちは皆、同じ目標を持ち、それを達成するために犠牲を払うことを厭わず、とても献身的でした」
ユーライア・ヒープで13作のスタジオ・アルバムを録音したケン・ヘンズレーは、アルバム『Conquest』発表後となる1980年9月にバンドを脱退した。同年には、1973年の『Proud Words on a Dusty Shelf』、1975年の『Eager To Please』に続く、3作目のソロ・アルバム『Free Spirit』をリリースしている。
彼は1980年に渡米し、ブラックフットのリッキー・メドロックによる『Siogo』(1983年)と『Vertical Smiles』(1984年)という2作のアルバムのレコーディングに参加。その後は音楽活動を休止していたが、1989年のW.A.S.P.のアルバム『The Headless Children』で復帰し、さらにその翌年発表されたシンデレラのアルバム『Cinderella’s Heartbreak Station』にも参加している。2000年代初頭にスペインに移住した後も、ソロ作品を発表し続けており、生前最後のアルバムは2012年の『Love & Other Mysteries』だった。
Written By Tim Peacock
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