“サルサのモータウン”と呼ばれたファニア・レコードの共同創設者、ジョニー・パチェーコが逝去
ラテン音楽レーベル“ファニア・レコード”の共同創設者として、サルサの世界的普及に貢献したバンドリーダーで、ソングライターのジョニー・パチェーコ(Johnny Pacheco)が、2021年2月15日、米ニュージャージー州ティーネックで逝去した。85歳だった
彼の死は、妻であるマリア・エレナ “ククイ”パチェーコによって伝えられたが、同レーベルの共同創設者ジェリー・マスッチの弟であるアレックス・マスッチによると、非公表の病気で入院生活を送っていたという彼の死因はまだ明らかにされていない。
1964年に設立されたファニア・レコードは、1970年代にキューバ発祥のダンス・ミュージックを世界に広めたことで、“サルサのモータウン”と呼ばれるようになった。スペイン語で「ソース」を意味する「サルサ」は、トランペットなどのホーンセクションにパーカッションが加わったその中毒性の高いダンス・サウンドを顕す言葉として、ニューヨークから流行し発展を遂げていった。
<関連記事>
・ラテン・ジャズの先駆的パーカッショニスト、キャンディド・カメロが99歳で逝去
・キューバ音楽とジャズと失敗したカストロによる国営レーベル
作曲家、プロデューサー、そしてレーベル代表を務めたジョニー・パチェーコは、セリア・クルース、ウィリー・コロン、エクトル・ラボー、レイ・バレット、ルーベン・ブラデスといったラテン界の大物ミュージシャンたちと仕事を共にし、そのキャリアを築いていった。また彼は、サルサのスーパーグループ、ファニア・オールスターズ(Fania All-Stars)を率いた他、ピート・エル・コンデ・ロドリゲスやチェオ・フェリシアーノなどの著名アーティストをファニア・レコードから輩出している。彼は、2004年のヴィレッジ・ヴォイス紙のインタビューでこう語っていた。
「私たちはキューバ音楽を一新し、異なるアプローチと、よりプログレッシブなサウンドを取り入れました。ニューヨークでロックやジャズを聴いて育った私たちは、より派手なアレンジを施したんです。ロック・グループの、ヘヴィなドラム・サウンドに慣れ親しんでいたので、リズム・セクションを前面に配置しました」
その生涯
ジョニー・パチェーコこと、本名ファン・アザリア・パチェーコ・ニッピングは、1935年3月25日にドミニカ共和国のサンチアゴで生まれた。キューバの国民音楽であるダンソンを演奏するダンス・バンドを率いていた父親のラファエル・ アザリヤ・パチェーコが、1940年代後半にトルヒーヨ独裁政権から逃れるために家族を連れてニューヨークに移住した頃から音楽に没頭するようになった彼は、数々の楽器を独学で学び、ジュリアード音楽院でパーカッションを学んだ後、引く手あまたのライヴ・ミュージシャンとなった。
彼が1960年に結成したバンド、パチェーコ・イ・ス・チャランガ(Pacheco Y Su Charanga)は、当時ますます人気が高まっていたパチャンガを演奏し、全米をはじめ、世界各地でツアーを敢行。その後、弁護士だったジェリー・マスッチとファニア・レコードを共同設立したジョニー・パチェーコは、ミュージシャン、プロデューサー、レーベル代表としての幅広い才能を発揮し、キューバ音楽の世界的な認知度を高めるために貢献を果たしていく。
ファニア・オールスターズは、ニューヨークのクラブハウス“レッド・ガーター”で定期的に行っていたジャム・セッションから生まれ、1968年に初のライヴ・アルバムを録音。チャーリー・レコード(Charly Records)から1988年にリリースされたラテン・ジャズ・フュージョンのコンピレーションのライナーノーツの中で、デイヴ・ハッカーは次のように記している。
「ラテン音楽界の大物と言われる人物は、誰もが一度や二度はこのグループ(ファニア・オールスターズ)に参加していた。この数年間の参加メンバーを見るだけでも、ラテン音楽界を代表する顔ぶればかりで、簡単に言えば、ジャンルを越えてジャズとソウルを融合し、音楽をさらに進化させるための実験をしているのです」
ファニア・オールスターズとのコラボレーションによって、さらにラテン音楽を世に知らしめたアーティストの一人がスティーヴ・ウィンウッドだ。1977年、彼はサウンズ誌の取材にこう語っていた。
「ジョニー・パチェーコは指揮者としても非常に優れていて、私を心から安心させてくれるのです。心配など何もありませんでした。彼はただ、合図を待って演奏すればいいよ、と言ってくれました。本当に素晴らしかったです」
さらにジョニー・パチェーコは、ジョージ・ベンソン、ケニー・バレル、マッコイ・タイナー、レス・マッキャンなど、ジャズ界の大物ミュージシャンのアルバムにも参加。セリア・クルースとのアルバム『The Celia & Johnny』はゴールド・ディスクに認定され、彼女に“サルサの女王”の称号をもたらした他、その生涯を通して通算10枚のゴールド・ディスク認定作品と、9度のグラミー賞にノミネートされている。ファニタ・レコードは1980年代半ばに解散し、そのカタログは2005年にマイアミの会社、エムジカ(Emusica)に買収された。
彼は、晩年も愛する音楽とファニタ・レコードについて講演を行いながら、レコーディングやツアーも精力的にこなし、自身のバンド、ジョニー・パチェーコ・イ・ス・チャランガトゥンバオ・アネホ(Johnny Pacheco Y Su Tumbao Añejo)を率いた。数え切れないほどの名誉の中で、1996年には、当時ドミニカ共和国の大統領だったホアキン・バラゲールから大統領栄誉勲章を授与されている。
Written By Paul Sexton
- ジャズの関連記事
- ラテン・ジャズの先駆的パーカッショニスト、キャンディド・カメロが99歳で逝去
- ブラジルのリズム:モダン・ジャズとボサ・ノヴァの出会い
- キューバ音楽とジャズと失敗したカストロによる国営レーベル
- ミュージシャンらによるカスタムメイド楽器ベスト10
- 史上最も奇妙な楽器リスト15選:テルミンからトランシアフォーンまで
- 最高のジャズ・アルバム・ベスト50
- 最高のジャズ・ピアニスト・リスト BEST36
- 最高のブルーノート・アルバム50選
- 最高のジャズ・アルバム・カヴァー100選
- ジャズ100年の歴史を彩る100曲