ハスカー・ドゥのドラマー、グラント・ハート死去。享年56歳

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グラント・ハート、後世に影響を与えたオルタナティブ・ロックバンド、ハスカー・ドゥのドラマー兼シンガーが癌との闘病の末、56歳で亡くなった。このニュースは、元バンドメイトであるボブ・モールドのFacebookへの長文の投稿で明らかとなった。

「グラントが亡くなったという悲しいニュースは、(癌で闘病中と知っていた)私にとって予期せぬことではありませんでした」とボブ・モールドは書いている。「グラントの家族、友人、そして世界中のファンにお悔やみ申し上げます。グラントは才能あるヴィジュアル・アーティストであり、素晴らしいストーリーテラーであり、恐ろしいほどの才能を持ったミュージシャンでした。彼の魂に触れた者全てが彼を忘れることはないでしょう」。

ミネソタ州、セント・ポールで生まれたグラント・ハートは、1970年台後半にハスカー・ドゥ(デンマーク語で「憶えてる?」の意)をヴォーカル/ギタリストのボブ・モールドとベーシストであるグレッグ・ノートンと共に結成。結成の経緯は当時大学生だったボブ・モールドがグレッグ・ノートンとグラント・ハートが働いていたレコード屋によく通っていたことがきっかけだった。

「1978年の秋のことでした」とボブ・モールドはFacebookに綴っている。「私はミネソタ州、セント・ポールのマカレスター大学の学生でした。寮からワン・ブロック離れたところにチーポー・レコーズというレコード屋があったんです。店の入り口のすぐ側にPAシステムが組んであって、パンク・ロックが爆音で流れていました。店に入るとそこに唯一いた人物とつるむようになっりました。彼の名前はグラント・ハート」。

グラント・ハートは、元々ミネソタを拠点にした他のバンドでキーボードを担当しており、ハスカー・ドゥでは仕方なくドラムを担当することになった。彼には年上の兄がいたのだが、グラント・ハートが10歳の時に酔ったドライバーが運転していた車にはねられ亡くなってしまった。その兄のドラムが家にあり、バンドが他にドラマーを見つけれなかった為、彼がドラムを叩くことになった。

結成当時から初期のハスカー・ドゥの作品、1982年のライブ・アルバム『Land Speed Record』や1983年のアルバム『Everything Falls Apart』ではボブ・モールドがほとんどのソングライティングを担っていたが、「Statues」「Wheels」「What Do I Want」といったポスト・パンク的な楽曲はグラント・ハートが手がけたものであった。

拡大し続け確立されていくハードコア・シーンの中、仲間であるリプレイスメンツやソウル・アサイラムら同じツイン・シティー出身のハスカー・ドゥも全国的な活躍を目指していた。しかしグラント・ハートが長髪で裸足でドラムを叩くスタイルから「ヒッピー」と呼ばれていたように、ハスカー・ドゥはルックスも音もジャンルにすんなり収まってはいなかった。

ボブ・モールドの危機迫るソング・ライティングのスタイルがトレードマークとなっていったに対し、グラント・ハートのヴォーカルはよりポップでトラディショナルな傾向になっていった。グラントの才能が開花していく様は『Metal Circus』に収められてる表面的にはミネソタのウェイトレスが殺されたことを歌った「Diane」や「It’s Not Funny Anymore」で聞くことができる。

ハスカー・ドゥが、ブラック・フラッグのギタリストであるグレッグ・ギンが主宰するハードコア・レーベルであるSSTからリリースしたEP『Metal Circus』ではハードコアから離れ、より発展的にパンクとフォークやアンセム的なロックン・ロールの要素を織り交ぜており、ソングライティング面でのターニング・ポイントとなった作品となった。結果的にハスカー・ドゥはデイヴィッド・フリックに「スラッシュ版”四重人格”」と批評された先駆的な2枚組のコンセプト・アルバム『Zen Arcade』を生み出し、後のUS・オルタナティブ・ミュージック・シーンの青写真となる余波を残した。

『Zen Arcade』はローリング・ストーン誌の「1980年代のベスト・アルバム100」の中で33位を記録、歴史上最も偉大なパンク・アルバムでは13位を記録し、金字塔的アルバムとなった。グラント・ハートはオーバードースをテーマに扱った名作「Pink Turns to Blue」や「Standing By The See」、そしてアコースティック曲の「Never Talking To You Again」やロックの殿堂が選ぶ「ロックン・ロールを形成した500曲」に選ばれた「Turn On The News」を作曲している。

『Zen Arcade』から6ヶ月後にリリースされた1985年のアルバム『New Day Rising』では、グラントのピアノがフィーチャーされているファンに人気の「Book About UFO’s」や「The Girl Who Lives on Heaven Hill」などハートが残した傑作が収録された。同年の12月にハスカー・ドゥは『Flip Your Wig』をリリースし、よりドライブ感のあるパワーポップ・サウンドを強固なものにした。グラント・ハートは「Green Eyes」、「Flexible Flyer」そして「Keep Hanging On」とアルバムのハイライトとなる曲を作りあげた。これがSSTから最後のリリースとなり、その後メジャーのワーナー・ブラザーズと契約を結ぶことになる。

1986年にリリースしたアルバム『Candy Apple Gray』は、「人間関係と個人的な感情的の苦悩の表現の頂点を極めた」とハスカー・ドゥの1987年のツアーをドキュメントしたライブ・アルバム『The Living End』のライナーノーツの中に音楽ジャーナリストのデイビット・フリックは書いている。この作品には後にグリーン・デイによってカバーされたグラント・ハート作曲の「Don’t Want to Know If You Are Lonely」が収録されている。

グラント・ハートとボブ・モールドの作曲力が成熟していく中、2人は1987年の2枚組アルバム『Songs and Stories』で創作面で対立することになる。収録曲20曲のうちボブ・モールドが11曲を書き、ハートが9曲を書いた。その後バンド内の不仲により、87年暮れにバンドは解散する。

ハスカー・ドゥのキャリアを引き続き、グラント・ハートは1989年にソロ活動を始め『Intolerance』をリリース、その後ノヴァ・モブを結成しラフ・トレードから1991年に『Last Days Of Pompeii』、1994年に最も過小評価された『Nova Mob』をリリースした。バンド名はウィリアム・S・バロウズの小説『The Nova Express』からインスパイアされたものだった。グラント・ハートとこの伝説的なビート作家の友人関係はバロウズの晩年に築かれ、グラント・ハートはバロウズの1997年にカンザス州ローレンスで行われた葬儀に参列、さらにバロウズを通じパティ・スミスとも親交を深め、彼女の2000年の作品『Persuasion』にピアノで参加している。

グラント・ハートは1999年に『Good News For The Modern Man』でソロ活動を再開。2013年に発売したジョン・ミルトンの『失楽園』を題材にした『The Argument』が最後の作品となった。グレッグ・ノートンによると、グラント・ハートは亡くなる直前までユナボマーの名で知られるテッド・カンジンスキーを題材にしたコンセプト・アルバムを制作していたという。

Written By Tim Peacock


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