クリーム、ブラインド・フェイスのドラマー、ジンジャー・ベイカーが80歳で逝去。その半生を辿る
英国を代表する伝説的ドラマー、ジンジャー・ベイカーが80歳で逝去したことが、彼の親族によって報告された。
彼の親族がツイッターに投稿したメッセージにはこうある。「大変悲しいお知らせですが、今朝、ジンジャーが病院で静かに息を引き取りました。ここ数週間、優しいお言葉をかけてくださった皆様には心から感謝しております」。
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1939年8月19日に、サウス・ロンドンのルイシャムに生まれたピーター・エドワード・ベイカーは、スーパー・ロック・バンド、クリームのメンバーとして、エリック・クラプトンとジャック・ブルースと共に名声をあげ、世界初のスーパー・スター・ドラマーとなった。上記の彼の娘のネッティ・ベイカー(上写真左手)の好意によって提供された家族写真には若き日のジンジャー・ベイカーが写っている。
ジンジャー・ベイカーの音楽キャリアは、60年代初頭のグレアム・ボンド・オーガニゼーションから始まり、クリーム、ブラインド・フェイス、そしてジンジャー・ベイカーズ・エアフォースから現在まで何十年にもわたる。英国のジャズ・ドラマー、フィル・シーマンからドラムを学んだ彼は、R&B、ハード・ロック、アフリカン・リズムのテクニックを取り入れた独自のスタイルを生み出し、自らの作品でそれを実践していった。狂信者の気質に満ちたジンジャー・ベイカーは、楽譜を読むことができ、2つのバスドラムとクラッシュ・シンバルを巧みに操る、派手で才能に溢れる生粋のショウマンだった。
クリーム時代には、そのより短く、よりポップな作品の中でフュージョン・スタイルを開拓していった。クリームの1966年のデビュー・アルバム『Fresh Cream』に収録の「Toad」での彼のドラム・ソロは、影響力のあるその演奏スタイルをよく表した楽曲のひとつで、そのビートを維持する熟達した技や即興演奏は、「Strange Brew」「Spoonful」「Tales Of Brave Ulysses」などの代表曲でも披露されている。
1967年の『Disraeli Gears 』、そして1968年の『Wheels Of Fire』へと続くクリームの革新的な進化において、彼の存在は欠かせないものであり、その爆発力を秘めた演奏スタイルによって彼はカルト的な地位を確立した。
クリームの短い活動期間中の1967年初頭に、ジンジャー・ベイカーは、メロディ・メイカー誌のクリス・ウェルチにこう語っていた。「僕はこのバンドができてとても嬉しいんです。エリックが一緒にやってくれるなら大丈夫だろうってわかっていました。いつになく、大方うまくやってます。僕は気性が荒いんですが、彼らはそれに我慢してくれている。僕たちはいつも違う音楽をやっているので、そうやって進歩しながら、続いていくのでしょう」
クリーム解散後もエリック・クラプトンと活動を続けたジンジャー・ベイカーは、スティーヴ・ウィンウッド(トラフィック)、リック・グレッチ(ファミリー)らと共にブラインド・フェイスを結成し、グループ唯一のアルバムに収録の開放的なトラック「Do What You Like」では刺激的な演奏を披露している。
その後、ソロ名義で結成したジンジャー・ベイカーズ・エアフォースでは、デニー・レイン、トラフィックのフルート奏者クリス・ウッドといった大物ゲストや、フィル・シーマン、リック・グレッチ、グレアム・ボンド、スティーヴ・ウィンウッドら馴染みの顔ぶれを迎えて、2作のアルバムをリリース。
また彼は、ゲイリー・ムーア、ホークウインド、フェラ・クティ、パブリック・イメージ・リミテッド(PiL )、アトミック・ルースター、そして自身のお気に入りだったジャズ・ミュージシャンであるビル・フリゼールやチャーリー・ヘイデンらの作品にゲスト参加を果たし、そのプロの殺し屋のような演奏を披露している。PiLのプロデューサーであるビル・ラズウェルは、サウンド・オン・サウンド誌の取材にこう語っていた。「ジンジャーの演奏は、フュージョンでもなく、メタルでもない。それが部族音楽のようなサウンドだとわかって、合点がいきました」。
ジンジャー・ベイカーが残した遺産は偉大である。彼は“ワールド・ミュージック”と呼ばれているものが流行する前に、その基礎を築いた代表的人物であり、生涯にわたってアフリカン・ドラムを追求し続けていた。彼がナイジェリアのラゴスに住んでいた頃にフェラ・クティと出会い、その後はフェラ・クティが彼の家族と暮らすためにイギリスのケントに移住するまでの長い時間を、彼と共にサウス・アフリカで過ごした。2012年には、彼らと共にサウス・アフリカで過ごしたジェイ・バルジャーが脚本・監督を務め、ジンジャー・ベイカーの現地での生き様を描いた映画『Beware Of Mr. Baker』が公開され、高く評価されている。
病とかんしゃく持ちに長く悩まされていたジンジャー・ベイカーの愚行が容認されることはなかったが、彼は見かけほど気性が悪くはなく、うちなる優しさも持ち合わせていた。また、ミュージシャンとしては、ジョン・ボーナム、スチュワート・コープランド、イアン・ペイス、ビル・ブルーフォード、そしてニック・メイスンらに多大な影響を与えた。
前述の1967年に行われたメロディ・メイカー誌のインタビューの中で、ジンジャー・ベイカーはこう考察している。「僕の演奏スタイルは、音楽的でもあり、体育会系でもあると思っています。毎晩ソロ演奏の度に気を失いかけて、時には立つこともできなくなります。他のメンバーがどこで入ってくるべきかがわかるように、僕はソロをあるパターンに則って演奏していますが、そこに毎回新しいことも取り入れるようにしている。同じソロを二度と演奏しませんが、バンドをやっている限りはあるパターンに従って演奏しなくてはならないんです。2つのバスドラのセットには慣れてきましたが、ティンパニも気に入っています。最高潮の演奏するために、ドラムの音に興奮を掻き立てられたいんです」。
ジンジャー・ベイカーの親友であり続けたスティーヴ・ウィンウッド、エリック・クラプトンは彼の晩年の苦境を援助し、彼の妻、クデュ・マッコーコトと彼の3人の子供は彼を支え続けた。娘のネッティ・ベイカーは、彼の人生を2冊の伝記本としてまとめ、ジンジャーの遺産の主要後見人となっている。
Written By Max Bell
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