ザ・バンド最後の生存メンバー、ガース・ハドソンが死去。キーボード/サックス奏者の功績を辿る
ザ・バンドのキーボード/サックス奏者のガース・ハドソン(Garth Hudson)が亡くなった。友人たちから「ザ・ベアー」という愛称で呼ばれていたハドソンは、大きなあごひげを生やした大柄で気さくな人間だった。
彼はザ・バンドで歌を歌わないただひとりのメンバーだったが、その両手は多くを物語っていた。彼が弾くオルガンのスタイルはクラシックやジャズから深い影響を受け、やがてはロックの礎石となった。特に、ザ・バンドの1968年のデビュー・アルバム『Music from Big Pink』に収録されていた「Chest Fever」で彼が弾いたイントロは、瞬く間にスタンダードとなった。
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その生涯
エリック・ガース・ハドソンは、1937年8月2日にカナダ・オンタリオ州ロンドンで生まれた。初めて親しんだ楽器は母親のアコーディオンであり、そのアコーディオンを12歳のときにカントリー・バンドで演奏し始めた。また母親は耳で聴いて覚えた曲をピアノを弾いて歌い、時には歌の本『Canada Sings』に載っている曲を歌うこともあった。さらに第一次世界大戦中に戦闘機のパイロットだった父親は、ハーモニウムの改造を手伝ってくれた。
ハドソンはウェスタン・オンタリオ大学で1年間音楽を専攻し、バッハの讃美歌やほかのクラシックの定番曲を演奏した。とはいえ、彼の関心はすぐにほかの方面に移っていった。1983年のインタビューで、彼は次のように語っている。
「自分の好きなように即興で演奏ができることに気づいたんだ。たぶんあまりにも若いうちに、そのことに気付いてしまったんだと思う」
こうして彼は大学を中退し、両親の不興を買いながらもミュージシャンとしてフルタイムで働くことにした。
「親はこちらが何をやっているのかわかっていたけれど、息子が酒場で演奏するのは嫌がっていた。幸か不幸か、カントリーやロックのスタイルに慣れるには、時には酒場で演奏する必要もある。酒場はリハーサルの場なんだ」
ハドソンはさまざまなロック・バンドでライヴをやるようになり、さほど離れていないデトロイトまで足を伸ばすことも度々あった。1962年、彼はカナダのロカビリー歌手ロニー・ホーキンスのバック・バンド、ホークスに加入した。
「デトロイトで活動していたときも、ロニーは最高のバンドを従えた最高のロカビリー歌手だと絶賛されていた。エルヴィスを含めて、誰も太刀打ちできなかった。ステージに上がって客を興奮させることにかけては、ロニーとホークスは一番だった」
ホークスは5人編成に固まっていった。つまりハドソン、ピアニストのリチャード・マニュエル、ギタリストのロビー・ロバートソン、ベーシストのリック・ダンコ、そしてドラマーのレヴォン・ヘルムという5人である。ハドソン以外は4人ともヴォーカルをとり、ロバートソンがたいていバック・コーラスを歌い、ほかの3人が代わる代わるリード・ヴォーカルを担当した。
2年後の1964年、ホークスはホーキンスから離れてニューヨークに移り住み、フォーク歌手のジョン・ハモンド・ジュニアのアルバム『So Many Roads』に参加した (このアルバムは翌年発表されている)。 ニューヨークではボブ・ディランの目に留まり、ディランのバック・バンドとしても雇われた。
ボブ・ディランとの出会い
ディランは、ニューポート・フォーク・フェスティヴァルで「エレキに転向」したことで有名になった後、1965年と1966年のツアーでホークスをバック・バンドとして起用した。そうして訪れたツアーの公演地の多くでは、観客からの敵意にさらされることになった。ハドソンは次のように振り返っている。
「フォーク・ムーヴメントに加わっていた人全員が怒っていたんだと思う。僕たちは、そういう感情が爆発する矢面に立たされていた」
パリでは、ディランとホークスは巨大なアメリカ国旗の前で演奏し、大ブーイングを浴びた。それでも、ディランとの海外ツアーはポジティブな経験になった。
「ボブが励ましてくれたおかげで、僕たちも自力で曲が作れると思うようになった。ボブがタイプライターの前に座って曲作りをしている姿には発想を刺激された。一緒に演奏するようになった直後から、ボブとの付き合いはロックの歴史に残ることになるだろうとわかっていたんだ」
1966年夏、ディランはオートバイの事故に遭い、その後のツアーの予定はご破算となった。そのため、1967年のはじめ、彼とホークスは身を潜めた。
その当時、ハドソンは、ニューヨーク州ウッドストックにあったサーモン色の大きな家、通称「ビック・ピンク」にダンコとマニュエルと一緒に住んでいた。その地下室に持ち込んだテープ・デッキを使い、レコーディングが始まった。そこで録音したのは主にディランとホークスが作っていた自由奔放な楽曲で、時にはほかのアーティストの曲のカヴァー・ヴァージョンも演奏されていた。
1967年9月、ハドソンはディランの新曲10曲を自分の音楽出版社ドワーフ・ミュージックに聞かせるため、オープン・リール・テープにダビングした。それから数カ月後には、さらに5曲がダビングされた。これらはファンのあいだで「ベースメント・テープ」として知られるようになった。ここに収められていたのはディランがほかのアーティストに提供する予定だった曲で、その中にはのちに名曲として讃えられるようになった作品も含まれていた(たとえば「I Shall Be Released」、「Tears of Rage (怒りの涙) 」、「Quinn the Eskimo」など)。この音源は、ブートレグとして広く出回っていった。
ザ・バンドへ
やがてホークスはザ・バンドと改名し、1968年にコロンビア・レコードからファースト・アルバム『Music from Big Pink』を発表した。約2週間でレコーディングされたこのアルバムの内容は、このころ流行していた音楽スタイルとは対照的だった。サマー・オブ・ラヴの後、ほかのロック・バンドはワウ・ペダルや逆回転テープを好むことが多かった。一方このアルバムでは、基本的な楽器が基本からかけ離れた方法で演奏されていた。そのほとんどは生演奏で、オーバーダビングは最小限に抑えられている。
このアルバムのハイライトとなったのが、ローリー・フェスティヴァル・オルガンでハドソンが演奏した「Chest Fever」の堂々たるイントロである。そのサウンドは素朴でありながら未来的で、ひとつの部屋のように大きく聞こえた。
ザ・バンドのリラックスして打ち解けた音楽性は、新鮮な息吹として受けとめられた。ビートルズのジョージ・ハリスンはこのアルバムに大きな刺激を受けた結果、大西洋を越えてウッドストックに赴き、ザ・バンドのメンバーたちと親しく付き合った。さらには「If Not for You」の録音でディランと共演している。
1965年のニューポート・フォーク・フェスティヴァルでディランのバックで演奏したアル・クーパーは、『ローリング・ストーン』誌に次のように記している。
「『Music from Big Pink』は注目すべき大事件であり、そのように扱われるべきだ」
彼はまたハドソンを「今まで会った中で最も奇妙な人物のひとり」と呼び、ディランの「Ballad of a Thin Man (やせっぽちのバラッド) 」のバックでハドソンが弾いたオルガンを「4次元の演奏」と呼んだ。
大物に、そして解散へ
こうしてザ・バンドの面々は大物アーティストになった。1969年にはウッドストック・フェスティヴァルに出演し、1973年にはワトキンス・グレンで開催されたサマー・ジャムの共同ヘッドライナーとして60万人の前で演奏した。これはロック・コンサートとしては記録的な観客動員数だった。とはいえザ・バンドのメンバーたち、特にハドソンはツアーに疲れを感じ始めていたため、2年間ツアー活動から遠ざかかることになった。
やがて1974年、ボブ・ディランが8年ぶりとなる北米ツアーにザ・バンドを招集する。このツアーのチケットは、当時のロック・コンサートとしては史上最速のスピードでチケットが売れていった。このジョイント・ツアーは絶賛された。『トロント・サン』紙は、「ザ・バンドのおかげで、ディランは歌える歌手のように聞こえた」と評した。
1975年、ビッグ・ピンクの地下室で録音された1967年のオリジナル音源16曲と、より新しいザ・バンドの音源8曲が『The Basement Tapes (地下室) 』として正式に発表された。このアルバムは大変な売れ行きで、『ヴィレッジ・ヴォイス』誌のロック評論家の投票で1975年のベスト・アルバムに選ばれた。同誌のロバート・クリストガウは次のように書いている。
「これが1975年のベスト・アルバムになったからといって、私たちは恥じ入る必要はない。これがもし1967年に出ていたら、きっとあの年のベスト・アルバムにもなっていただろう。それに、たとえ1983年になっても、これは素晴らしいアルバムに聞こえるはずだ」
その直後、ザ・バンドは豪勢なかたちで活動を終了した。1976年の感謝祭にサンフランシスコのカウ・パレスで「ラスト・ワルツ」と題した大がかりなさよならコンサートを開催し、ヘッドライナーを務めたのである。
招かれたゲストの中には、ロニー・ホーキンスをはじめ、ディラン、マディ・ウォーターズ、ジョニ・ミッチェルといったさまざまな顔ぶれが並んでいた。このコンサートは、ザ・バンドの歴史を紹介するレヴューであると同時に、60年代のロック世代に送る別れの歌でもあった。
「最初から、ザ・バンドがハードで気ままでハッピーな演奏をするためにここにやってきたことは明らかだった」と『ビルボード』誌は評している。そして「屋根を吹き飛ばすほどの大騒ぎ」になった「This Wheel’s on Fire (火の車) 」の演奏を絶賛し、とりわけハドソンの演奏を次のように誉め讃えた。「締めくくりの華麗な演奏は、それそのものが地獄の業火のように聞こえた」。
マーティン・スコセッシが撮影したこの夜の模様は、ドキュメンタリー映画『The Last Waltz』として1978年に公開され、評論家のあいだでは絶賛の嵐が吹き荒れた。この作品は、史上最高のロック・コンサート映画のひとつとして広く認められている。2019年にはアメリカ議会図書館の国立フィルム登録簿に追加され、半永久的な保存の対象となった。
この「ラスト・ワルツ」コンサートは、ザ・バンドのオリジナル・メンバー5人が共にステージに立つ最後の機会となった。その後のザ・バンドは1980年代初頭から散発的に再結成しているが、その再結成にロバートソンは参加せず、時にはハドソンが参加しないこともあった。
それからのハドソンはスタジオ・ミュージシャンとして積極的に活動。80~90年代にはドン・ヘンリー、トム・ペティ、ロバート・パーマーのアルバムに参加。また2000年代後半には、ニーコ・ケースの2枚のアルバム『Fox Confessor Brings the Flood』と『Middle Cyclone』に参加している。
またハドソンは再結成ザ・バンドのアルバム (たとえば1993年の『Jericho』) や、ロバートソン、ヘルム、ダンコといった元メンバーのソロ作品にも参加している。さらには新たな音楽スタイルも探求し続け、とりわけポルカの熱心な愛好家となった。2004年、彼は自らのアコーディオンのレパートリーとして「340曲のポルカ、ワルツ、マズルカ」をマスターしたと自慢していた。2010年代半ばには、ハドソンのテープ保管庫から発掘された音源も収録した『The Basement Tapes Complete』が発表されている。これは収録時間が6時間にも及ぶボックス・セットで、33曲の未発表曲を含んでいた。
「ガース・ハドソンと一緒に演奏するチャンスを得たのに、一緒に演奏しないような奴はバカだ」とヘルムはかつて語っていた。「ザ・バンドに関して言えば、ガースは性格がほかのメンバーに伝染していくような奴だった。そのおかげで、僕たちはあんな良いサウンドになったんだ」。
Written By Michaelangelo Matos
ザ・バンド『Music From Big Pink(50th Anniversary Edition)』
1968年7月1日発売
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