トゥーツ・アンド・ザ・メイタルズのフレデリック・“トゥーツ”・ヒバートが逝去。その功績を辿る
ジャマイカで最も有名なレゲエ・スカ・グループの1つであるトゥーツ・アンド・ザ・メイタルズ(Toots & the Maytals)のリーダー、フレデリック・“トゥーツ”・
グループの公式ツイッターからは次のような声明が発表されている。
「9月12日夜、フレデリック・ナサニエル・“トゥーツ”・
<関連記事>
・英国レゲエ発展記:キングストンからロンドンへ
・ルーツ・ミュージック:ボブ・マーリーの家系図
・ボブ・マーリーはどのようにして銃撃から生き残り、偉業を成し遂げたのか
It is with the heaviest of hearts to announce that Frederick Nathaniel “Toots” Hibbert passed away peacefully tonight, surrounded by his family at the University Hospital of the West Indies in Kingston, Jamaica… pic.twitter.com/zOb6yRpJ7n
— Toots & The Maytals (@tootsmaytals) September 12, 2020
トゥーツ・ヒバートの訃報を受けて、ネット上はすでに彼への追悼の言葉で溢れている。
ジギー・マーリーは「数週間前に彼と話をした時に、どれだけ彼のことを愛しているかを伝えていました。僕たちは一緒に笑い合い、お互いを尊重していました。私にとって父親のような存在で、彼の精神は私たちと共にあり、彼の音楽は私たちをエネルギーで満たしてくれます。彼のことは一生忘れません」と記し、ミック・ジャガーもまた、「トゥーツ・ヒバートの訃報を知ってとても悲しいです。彼は非常にパワフルな声の持ち主で、ステージではいつも観客のために全力でパフォーマンスしていました。音楽界にとって悲しい損失です」と自身のソーシャルメディア上で哀悼を捧げている。
トゥーツ・アンド・ザ・メイタルズは、先日、10年振りとなるオリジナル・アルバム『Toots and The Maytals’ Got To Be Tough』をTrojan Jamaica/BMGからリースしたばかりだった。
聖歌隊でゴスペルを歌って育った
フレデリック・ナサニエル・“トゥーツ”・
1960年代初頭、13歳の時にキングストンのトレンチタウンへと移住したトゥーツ・ヒバートは、ラルファス(ヘンリー)・‘ラリー’・
トゥーツ・アンド・ザ・メイタルズは、コクソン・ドッド、プリンス・バスター、バイロン・リー、ロニー・ナスララ、レスリー・コングといった錚々たるプロデューサーの面々と作品を制作し、1960年代にジャマイカで最も有名なヴォーカル・グループの1つへと成長を遂げた。トゥーツ・ヒバートはまた、ジャマイカのナショナル・ポピュラー・ソング・コンテストにて、自身が書いた1966年の「Bam Bam」、1969年の「Sweet and Dandy」、1972年の「Pomps & Pride」で3度の優勝を果たしている。
1964年、アトランティック・レコードから数十作のスカ・レコードを発表したトゥーツ・アンド・ザ・メイタルズは、当時のアメリカで高まりつつあったレゲエ人気の一端を担っていた。ビルボードの記事には、同レーベルの社長だったアーメット・アーティガンが、ジャマイカ政府主催によるパーティーで初めてジャマイカのスカを聴いた後、ジャマイカへと飛び「彼とエンジニアのトム・ダウドは、ケン・コウリが所有するフェデラル・レコーディング・スタジオにて、10日間で40曲を録音した」と記されている。彼らはそこでブルース・バスターズ、ストレンジャー・アンド・パッツィ、チャーマーズ、そしてトゥーツ・アンド・ザ・メイタルズと契約を交わしレコーディングを行った。
レゲエをジャンルとして確立した「Do the Reggay」
トゥーツ・ヒバートは、1968年に発表した「Do the Reggay」で“レゲエ”という言葉を最初に使ったアーティストの1人である。レスリー・コングがプロデュースを手掛け、1968年にジャマイカではビヴァリーズ・レコード(Beverley’s Records)から、イギリスではピラミッド・レコード(Pyramid Records)からリリースされた同トラックは、”レゲエ “という言葉を使った最初のポピュラー・ソングであり、当時発展途上だったジャンルを定義づける名前となった。リリース当時、“レゲエ”はジャマイカで流行していたダンス・ファッションを指す言葉だったが、この言葉と音楽そのものが結びついたことで、そこから発展した音楽のスタイルを表す名称として使われるようになった。
クリス・ブラックウェルのアイランド・レコーズ(Island Records)からリリースされたトゥーツ・アンド・ザ・メイタルズの最初のアルバムは『Funky Kingston』だった。音楽評論家のレスター・バングスは、ステレオ・レビュー誌で、このアルバムを「完璧であり、一つのグループによる最もエキサイティングで多様性に富んだレゲエ・トラック集である」と評している。
クリス・ブラックウェルはトゥーツ・アンド・ザ・メイタルズに強いこだわりを持っていた。2018年のレッドブル・ミュージック・アカデミーのインタビューの中で、彼は「トゥーツのことは誰よりも長く、ボブ(・マーリー)よりもずっと長く知っています。トゥーツは、私が人生で出会った中で最も純粋な人間の一人であり、純粋過ぎるほどでした」と語っている。
トゥーツ・ヒバートは、ペリー・ヘンゼル監督と、トレヴァー・D・ローヌが共同脚本を手掛け、ジミー・クリフがアイヴァンホー ‘イヴァン’・マーティン役で主演を務めた、1972年の画期的なジャマイカ映画『ハーダー・ゼイ・カム』にも出演している。国際的な成功を収めた同映画は、“ジャマイカ映画の中で最も影響力のある作品であり、カリブ海から生まれた最重要作の一つ”と評されている。また、トゥーツ・アンド・ザ・メイタルズの1969年のヒット曲「Pressure Drop」が同映画のサウンドトラックに起用されたことによって、彼らはジャマイカ国外へと活動の幅を広げていった。
もともとは1970年のアルバム『Monkey Man』に収録されてた同曲は、1971年に、彼らがクリス・ブラックウェルのアイランド・レコードとレコーディング契約を結ぶきっかけをつくり、その後、彼らはジャマイカで最も有名なグループとして、国際的な評価を獲得していく。
クリス・ブラックウェルは当初、過去にもジャマイカのグループが成功を収めていたイギリス市場に焦点を絞っていたが、彼らは、ワーウィック・リンとクリス・ブラックウェルが共同プロデュースを手掛けた3作のベストセラー・アルバムをリリースし、中でも1973年の『Funky Kingston』、1975年の『Reggae Got Soul』は世界的なヒットを記録した。『Reggae Got Soul』のリリース後、トゥーツ・アンド・ザ・メイタルズは、ザ・フーが1975から76年にかけて敢行した全米ツアーのオープニングに招かれている。
70年代後半にリバイバル到来
1978年から80年にかけては、イギリスで巻き起こったレゲエ・パンクとスカのリバイバルによって、トゥーツ・アンド・メイタルズ作品の人気も復活した。ザ・スペシャルズは、1979年のデビュー・アルバムで「Monkey Man」をカヴァーし、ザ・クラッシュは、1979年の彼らのヒット曲「English Civil War」のB面のために「Pressure Drop」をカヴァーした。同時期、彼らはボブ・マーリー&ザ・ウェイラーズの曲「Punky Reggae Party」の歌詞の中でも次のように言及されている。
「ザ・ウェイラーズがいる。ダムドやザ・ジャム、ザ・クラッシュも、メイタルズだって来るんだ。ドクター・フィールグッドも」
1981年にアルバム『Knockout』をリリース後、トゥーツ・アンド・メイタルズは解散したが、1982年には彼らの「Beautiful Woman」がニュージーランドで1位を獲得した。一方で、トゥーツ・ヒバートは1980年代を通してソロ活動に専念し、レコーディングを続けた。1990年代初頭になって、新たなラインナップで再結成を果たしたトゥーツ・アンド・メイタルズは、1990年2月に、ナイル・ロジャースがゲスト・ホストを務めたVH1の「New Visions World Beat」でパフォーマンスを披露。その後もツアーとレコーディングを続け、1990年代半ばにはレゲエ・フェスティバル<Reggae Sunsplash>に2度出演している。
2004年には、ボニー・レイット、ウィリー・ネルソン、エリック・クラプトン、キース・リチャーズ、トレイ・アナスタシオ、ノー・ダウト、ベン・ハーパー、ザ・ルーツ、シャギーら、豪華ミュージシャンたちをゲストに迎えて、彼らの初期のヒット曲を再録音したアルバム『True Love』をリリースした。同アルバムは、NPRやローリング・ストーンなどの音楽メディアから絶賛され、その年のグラミー賞で“最優秀レゲエ・アルバム”を受賞した。
豪華ミュージシャンが出演するドキュメンタリーの制作
2011年、監督のジョージ・スコットとプロデューサーのニック・デ・グランワルドが、ドキュメンタリー映画『Reggae Got Soul: The Story of Toots And The Maytals』を制作し、BBCで放送された。“ジャマイカで最も影響力のある音楽グループのひとつの知られざる物語”と解説された今作には、マーシャ・グリフィス、ジミー・クリフ、ボニー・レイット、エリック・クラプトン、キース・リチャーズ、ウィリー・ネルソン、アンソニー・デカーティス、ジギー・マーリー、クリス・ブラックウェル、パオロ・ヌティーニ、スライ・ダンバー、ロビー・シェークスピアらが出演している。
このドキュメンタリー作品がきっかけとなり、トゥーツ・ヒバートは、2012年のライヴ・アルバム『Unplugged On Strawberry Hill』で再びグラミー賞にノミネートされている。さらに近年では、2017年のコーチェラ、グラストンベリー、ウォーマッドなど、世界最大級のフェスティバルで披露したパフォーマンスが大絶賛されていた。
トゥーツ・ヒバートの録音作品の多くには、キリスト教の教えが反映されている。彼はまた、ラスタファリアンの宗教的なテーマについて書くことでも知られていた。トゥーツ・アンド・メイタルズの初期作品で、1963年の「Six And Seven Books of Moses」の中で、彼はオベアの魔術や、“モーセの第6巻と第7巻”といった、聖書に関わる魔術書などのオカルト文学について歌っている。
「ジャマイカのブラック・ゴールド」
トゥーツ・アンド・ザ・メイタルズの文化的、創作的な重要性は、チャートの歴史には十分に反映されていなかった。アメリカでのアルバム最高位は1976年の『Reggae Got Soul』で記録した157位だったが、驚くべきことにイギリスでは一度もチャート入りしていない。それでも彼らの真価は、メディアやファンには十分に理解されており、1972年にメロディー・メーカー誌は、トゥーツ・アンド・ザ・メイタルズとボブ・マーリー&ザ・ウェイラーズを「ジャマイカのブラック・ゴールド」と称した。
1976年、トゥーツ・ヒバートはNMEにこう語っている。
「私の歌は、人々を愛し、人々を変え、人々に正しい道を示せというメッセージです。そのために彼らには自分のことをわかってもらいたい。自分自身を知るということです。私のことを知る前に、まず自らを知らなければならないのです」
Written By Tim Peacock
- ヴァイナル盤で手に入れたいエッセンシャル・レゲエ・アルバム10選
- レゲエがユネスコによって世界文化遺産に正式登録
- ジャマイカ映画はいかにしてレゲエを大衆に広めたか
- ジャマイカ初の商業映画『ハーダー・ゼイ・カム』はサントラも強烈だった
- レゲエを作ったスタジオとプロデューサー達
- 英国レゲエ発展記:キングストンからロンドンへ
- ボブ・マーリー:アルバム制作秘話
- ルーツ・ミュージック:ボブ・マーリーの家系図
- ボブ・マーリーはどのようにして銃撃から生き残り、偉業を成し遂げたのか
- レゲエ 関連記事