フリートウッド・マック創設メンバーでギターの名手ピーター・グリーンが逝去。その半生を辿る
フリートウッド・マック(Fleetwood Mac)の共同創設メンバーで、ブルース・ロックの草分けとして知られる、ギタリストのピーター・グリーン(Peter Green)が2020年7月25日に73歳で逝去した。彼の遺族を代表して、法定代理人が次のような声明を発表している。
「深い悲しみと共に、この週末、ピーター・グリーンが安らかに息を引き取ったことをご報告します。近日中に更なる声明を発表する予定です」
1946年10月29日、ロンドンのベスナル・グリーンに暮らすユダヤ人家庭に、4人兄弟の末っ子として生まれたピーター・グリーンこと本名ピーター・アレン・グリーンバウム(Peter Allen Greenbaum)は、常に音楽に強い感情を抱く繊細な幼少期を送った。ディズニー映画の『バンビ』のテーマ曲を聞いた時には、小鹿の苦しみを思うあまりに、耐えきれず号泣してしまったそうだ。
関連記事:2020年に亡くなったミュージシャン、音楽業界の関係者たち
11歳の頃に独学でギターを弾くようになった
兄のマイケルから初めてギターのコードを教わった彼は、11歳の頃には独学でギターを弾くようになり、15歳になると、ロンドン東部の運送会社で働く傍ら、プロのミュージシャンとしての活動を始める。彼が最初にベースを務めたのは、ボビー、デニス・アンド・ザ・ドミノス(Bobby, Dennis And The Dominoes)というバンドで、当時のヒット曲のカヴァーやロックンロールのスタンダードを演奏していた。
その後も、R&Bバンド、ザ・マスクラッツ(The Muskrats)を経て、ザ・トライデンツ(The Tridents)でベースを担当。1965年のクリスマスまで、後にキャメルのメンバーとなるピーター・バーデンス(Pete Bardens)率いるPeter B’s Loonersでリード・ギターを務めていたピーター・グリーンは、そこでドラマーのミック・フリートウッド(Mick Fleetwood)と出会う。彼にとってのレコード・デビューは、同グループでリリースしたシングル「If You Wanna Be Happy」だった。
1965年10月、ピーター・バーデンスのバンドに参加する以前には、ジョン・メイオール&ザ・ブルースブレイカーズ( John Mayall&the Bluesbreakers)のエリック・クラプトンの代役として4度ほどライヴに参加する機会を得た。程なくして、エリック・クラプトンがジョン・メイオール&ザ・ブルースブレイカーズから脱退すると、彼の後任として、1966年7月からピーター・グリーンがフル・タイム・メンバーとしてバンドに加わる。
ピーター・グリーンにとってのアルバム・デビューとなる、ジョン・メイオール&ザ・ブルースブレイカーズの『A Hard Road』には、彼の自作曲「The Same Way」と「The Supernatural」が収録されている。後者は、彼が手掛けた最初のインストゥルメンタル楽曲の1つで、そのスタイルはやがて自身のトレードマークとして定着していった。その熟達した仕事ぶりによって、ミュージシャン仲間から “The Green God”というニックネームで呼ばれた彼は、1967年、自身のブルース・バンドを結成することを決意し、ジョン・メイオール&ザ・ブルースブレイカーズを脱退する。
ピーター・グリーンとミック・フリートウッドは、バンド名のもとにもなったジョン・マクヴィーを、ベーシストとしてフリートウッド・マックに加入させるべく説得した。ピーター・グリーンはスターの座に就くことには消極的だったが、彼の指揮の下、彼らは 『Fleetwood Mac』、『Mr. Wonderful』、そして『Then Play On』という高く評価された3作のアルバムを制作していく。『Mr. Wonderful』に収録されている「Trying So Hard To Forget」の中で、ピーター・グリーンは自身の幼少期のトラウマについて明確に言及している。
“心の痛みや傷、喪失感”をブルースで表現した
ミック・フリートウッドは、後にMOJO誌によるインタビューの中で同曲「Trying So Hard To Forget」についてこう振り返っている。
「ピーター・グリーンバウムが、ロンドン市内の貧しいユダヤ人街、ホワイトチャペルで生まれ育った自身の幼少期の思いを打ち明けた曲なんです。おそらく私は、その時初めて、ピーターがブルースという慰めの中に表現しようとしていた心の痛みや傷、喪失感を感じることができました」
フリートウッド・マックの在籍期間中にピーター・グリーンが手掛けた「Black Magic Woman」(後にサンタナによってカヴァーされた)はヒットを記録し、ギター・インストゥルメンタルの「Albatross」は全英シングル・チャートで1位を獲得した。
その後も、英国ポップス界を代表曲として知られる「Oh Well」(「自分の体型に耐えられない、だから僕は歌えない、カッコよくないし、足は細すぎる」と歌う)、「Man of the World」(「僕の人生について語ってもいいかい?」と歌う)、また暗くて不吉な「The Green Manalishi (With the Two Prong Crown) 」などのヒット曲を生んだ。
フリートウッド・マックでの成功に精神的葛藤を抱いていたピーター・グリーンは、1970年の公演を最後にバンドを脱退。最終的に統合失調症と診断され、70年代半ばに入院生活を送った。1979年、プロとしての活動を再開した彼は、弟マイケルの助けを借りて、Peter Vernon-Kellのレーベル、PVKと契約し、好評を得た1979年の『In the Skies』を皮切りに、一連のソロ・アルバムの制作に乗り出していく。また、クレジットされてはいないものの、フリートウッド・マックが同年リリースした2枚組アルバム『Tusk』に収録の「Brown Eyes」にも参加している。
1981年には、ミック・フリートウッドのソロ・アルバム『The Visitor』に収録された「Rattlesnake Shake」と「Super Brains」のニュー・ヴァージョンに参加し、その後もマンゴ・ジェリーのレイ・ドーセット、クレイジー・ワールド・オブ・アーサー・ブラウンのヴィンセント・クレイン、ナッシュビル・ティーンズのレン・サーティースら、ブルース・ギターの名手たちと結成した短命バンド、カトマンズ(Katmandu)の『A Case for the Blues』をはじめ、その他多くのミュージシャンと様々なセッションを重ねていった。
1990年代後半には、ナイジェル・ワトソンとコージー・パウエルらと共にピーター・グリーン・スプリンター・グループを結成し、同グループは、1997年から2004年にかけて9作のアルバムをリリースした。
2008年に、英サンデー・タイムズ紙の特集記事のために、ピーター・グリーンにインタビュー取材を行った、uDiscover Musicのライター、ポール・セクストンは、慎ましく静かな暮らしを送っていた当時のピーター・グリーンについて、「話し好きで、晩年の慎ましい生活にとても満足している様子だった」と記していた。その頃には、再び隠居生活を送っていたピーター・グリーンは、この記事の中で、自身の形成期の音楽経験を振り返っている。
「兄のミッキーがハンフリー・リッテルトンの”Bad Penny Blues”のレコードを持ってきて、裏面には”Basin Street Blues”が収録されていたんですが、その作品が本当に素晴らしかった。ある日、僕たちは喧嘩して、彼に部屋中を追いかけ回されて、レコードプレイヤーの前を通りかかった時にそのレコードを割ってしまったんだ。その後、兄が結婚して、彼らが初期のエルヴィス・プレスリーやビル・ヘイリー、それからサント&ジョニーの”Sleepwalk”の45回転レコードを持っていたんです。‘Albatross’は、おそらくそこから来ているんでしょうね」
と彼は、1959年のギター・インストゥルメンタルが、フリートウッド・マックの1968年の全英No.1ヒットに影響を与えたことに言及していた。
2009年2月、ピーター・グリーンは、ピーター・グリーン&フレンズとしてツアー活動を再開した。同年5月には、ヘンリー・ハダウェイが、BBC Fourのために、彼を題材にしたドキュメンタリー「Peter Green. Man of the World』を製作している。ピーター・グリーンと彼のバンドはその後、アイルランド、ドイツ、イギリスでツアーを敢行し、2010年3月には、オーストラリア最大のブルース&ルーツ・フェスティバル、
ピーター・グリーンはフリートウッド・マックの8人のメンバーの1人で、1998年には、ミック・フリートウッド、スティーヴィー・ニックス、リンジー・バッキンガム、ジョン・マクヴィー、クリスティン・マクヴィー、ダニー・カーワン、ジェレミー・スペンサーと共に、“ロックの殿堂入り”を果たした。
今年2月には、盟友ミック・フリートウッドの呼び掛けのもと、ピンク・フロイドのデヴィッド・ギルモア、ZZトップのビリー・ギボンズ、ギタリストのジョニー・ラング、アンディ・フェアウェザー・ロウ、ピート・タウンゼント、スティーヴン・タイラー、ビル・ワイマン、カーク・ハメット、ノエル・ギャラガー、ジョン・メイオールら錚々たる顔ぶれが、ロンドン・パラディアムに集結し、ピーター・グリーンの音楽と初期のフリートウッド・マックを称えるオールスター・トリビュート公演が開催されている。
“気取らないブルースの巨匠”
ピーター・グリーンは長年、ロック界で最も優れたギタリストの一人として称賛されてきた。1994年5月のMOJO誌のインタビューで、彼の元バンドメイトであるミック・フリートウッドは彼についてこう語っている。
「気取らないブルースの巨匠がブライアン・ウィルソンになったような存在で、非常に深い音楽的表現について考えながら、そのフォーマットを用いていました」
ジョン・メイオールやフリートウッド・マックのプロデューサーであるマイク・ヴァーノンは、「私の個人的な評価では、ピーター・グリーンはこの国が生んだ史上最高のブルース・ギタリストでした」と付け加えた。
ピーター・グリーンは、1996年のMOJO誌のインタビューの中で、「私はギターのサウンドを、絵を描くときのクレヨンのように、色や陰影として捉えています」と自身のギター演奏について、独自の識見を述べていた。
“今日は彼の音楽を聴いて追悼します”
ピーター・グリーンの訃報を受けて、ホワイトスネイクのデイヴィッド・カヴァデールは、自身のツイッターでこう追悼している。
「本当に大好きな、敬愛してやまないアーティストでした。私が地元のバンドで活動していた頃、Redcar Jazz Clubで初期のフリートウッド・マックのサポートアクトを務めたことがありました。彼は息をのむほど素晴らしいシンガー、ギタリスト、作曲家でした。今日は、彼の音楽を聴いて追悼します。安らかにお眠りください」
さらに、ピーター・グリーンと同世代であるピーター・フランプトンは、「なんとも悲しいことに、史上最高のセンスを持ったギタリストの一人を失ってしまいました」とツイートし、ユスフ(キャット・スティーヴンス)は「音楽的品位、革新性と精神性に溢れた知られざるヒーローの1人で、言葉で表現できないほど偉大なピーター・グリーンに神のご加護がありますように。1970年に、彼が実生活と向き合うためにフリートウッド・マックを脱退し、その富を慈善事業に寄付したと聞いた時から、彼は私にとってお手本のような存在になりました」とコメントしている。
Written By Tim Peacock
- フリートウッド・マック関連記事
- フリートウッド・マック初期の重要メンバー、ダニー・カーワン永眠
- フリートウッド・マックのクリスティーンがデニス・ウィルソンとの恋、無人島に持っていく8枚のレコードを語る
- 音楽史に残るアイコニックなアルバム・ジャケット25選
- 史上最高のギター・ソロ100選
- 誰が最初のブルース・ギター・ヒーローか?
- 史上最高のブルース・アルバム100選
- 史上最高のギタリスト50人
- ブルース 関連記事