D.J.フォンタナ、87歳で死去:プレスリーの名曲を叩いたドラマー
ザ・テネシアン紙(訳注:テネシー州やケンタッキー州南部の日刊新聞)の報道によると、エルヴィス・プレスリーのドラマーを長年務め、ロックン・ロールのバックビート・スウィングを普及させたドミニク・ジョセフ・‘D.J.’フォンタナが2018年6月13日水曜日に死去した。87歳だった。
D.J.フォンタナの息子デイヴィッドは自身のFacebookに「僕の父は今夜9時33分、寝ている間に息を引き取りました。苦しむことなく、安らかな最期でした。詳しい情報はまた明日投稿します。今はプライバシーにご配慮いただくようお願いします。父への愛と祈りに感謝します」と投稿し、D.J.フォンタナの死を発表した。
D.J.フォンタナは14年間エルヴィス・プレスリーのドラマーとして活躍し、「Blue Suede Shoes」「Heartbreak Hotel」「Hound Dog」「Jailhouse Rock(邦題:監獄ロック)」などのロックン・ロール定番曲を含み、RCAレコードから出した460以上の曲でエルヴィス・プレスリーのもとで演奏している。また、1956年に『エド・サリヴァン・ショー』でエルヴィス・プレスリーと共に出演して存在感を示し、エルヴィス・プレスリーの伝説的な出演として語り継がれている『’68カムバック・スペシャル』にも登場した。
D.J.フォンタナは1931年3月15日にルイジアナ州のシュリーブポートで生まれた。高校生の頃にドラムを始め、大物バンドのレコードを聴きながら独学で習得した。1953年にルイジアナ・ヘイライド(訳注:ライヴ・パフォーマンスを生中継で配信していたシュリーブポートのラジオ番組)の専属ドラマーとして雇われ、土曜の夜はウェブ・ピアースやファロン・ヤングなどのカントリー・アーティストのバックでドラムを叩いていた。
D.J.フォンタナは、1954年後半にルイジアナ・ヘイライドでエルヴィス・プレスリーと出会った。「テネシー州のメンフィスからエルヴィス・プレスリーのレコードが送られてきた。最高の音楽だと思ったよ」と1984年にザ・テネシアン紙に語っている。さらに、「彼らの音楽は他とは全然違った。エルヴィス・プレスリー、(ギタリストの)スコッティ・ムーア、そして(ベーシストの)ビル・ブラックのトリオが(ルイジアナ・ヘイライドに)来た時、スコッティが僕にドラマーとして一緒に演奏しないかと聞いてきたんだ。バックステージで”That’s All Right, Mama”を含め2、3曲一緒に演奏させてもらったよ」と述べた。
その後、D.J.フォンタナはエルヴィス・プレスリー等と意気投合し、間もなく彼らのツアーとレコーディングに参加し始めた。D.J.フォンタナはエルヴィス・プレスリーと14年間ステージ、スタジオ、その他のセットで共演し、音楽だけではなく『G.I.ブルース』『闇に響く声』『監獄ロック』『さまよう青春』などのエルヴィス・プレスリーの映画にも登場している。
D.J.フォンタナは1960年にテネシー州のナッシュヴィルに移住し、需要の高いセッション・ミュージシャンとなった。リンゴ・スターがアルバム『Beaucoups Of Blues』を作るため1970年にナッシュヴィルを訪れた時に、D.J.フォンタナと他のセッション・ミュージシャンはこのリンゴとミュージック・シティー・レコーダーズというスタジオで3日間過ごした。ザ・テネシアン紙の記者ユージーン・ワイアットは「女性の謙虚なザ・ビートルズのファンの集団がスタジオの外を徘徊していた」と記事に書いている。
1990年後半にD.J.フォンタナはスコッティ・ムーアと共に、キース・リチャーズ、リヴォン・ヘルム、ジョー・エリーを含むトップ・ミュージシャンをゲストに迎え、アルバム『All The King’s Men』を製作。2009年にはロックン・ロール殿堂入りを果たしている。