ザ・ビートルズのプロモーター、イミディエイト・レコードの共同創設者トニー・カルダーが死去

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ザ・ビートルズの活動初期にプロモーションを行い、1960年代に先駆的でインディペンデントな印象を残したイミディエイト・レコードを共同設立したトニー・カルダー(写真左)が74歳で亡くなった。報道によると、トニー・カルダーは肺炎による合併症により1月2日、ロンドンのチェルシー・アンド・ウェストミンスター病院にて亡くなった。

サリー州に生まれたトニー・カルダーは1960年代初頭にデッカ・レコードで勤務、そして1962年にはザ・ビートルズの最初のシングル「Love Me Do」がリリースされてから最初の一週間にラジオで一度も放送されなかったという失敗から、ブライアン・エプスタインにプロモーションの任務を与えられた。トニー・カルダーは“フロアを満員にする保証のある曲” と主張したノートを添え、イギリス中のクラブにシングルを100枚ほど個人的に送った。

「私たちは月曜日に発送を行い、そして水曜日には全員があの曲をかけていた」とトニー・カルダーは語った。曲はイギリスのシングルチャートで17位まで到達し、ザ・ビートルズの伝説的キャリアの幕開けとなった。

トニー・カルダーはザ・ローリング・ストーンズのマネージャー、アンドリュー・ルーグ・オールダムとともに、短命ではあったものの影響力のあったインディペンデント・レーベル、イミディエイト・レコードを1965年に設立し、スモール・フェイセスやロッド・スチュワート、ニコ、クリス・ファーロウ、そしてフリートウッド・マックなど多数のアーティストたちと契約した。大きな成功を収めたにも関わらず、論争になるほどの大金、数百万ポンドを失った後、1970年、彼らは破産した。

1965年、トニー・カルダーはアンドリュー・ルーグ・オールダムの代理としてマリアンヌ・フェイスフルと仕事をしたことがきっかけとなり、彼一人で制作の世界へと足を踏み入れることになった。そのときに制作した彼女の2曲のヒット曲「Come And Stay With Me」と「This Little Bird」は、イギリスチャートでそれぞれ4位と6位にランクインした。

70年代に、トニー・カルダーはベイ・シティ・ローラーズとブラック・サバスといったグループと契約し、そして最終的にはエディ・グラントのキャリアにおいて最も成功していた期間のマネージメントを行い、後にエディ・グラントのレーベル、アイス・レコードを形成する手助けも行った。忘れられていたデモになっていたエディ・グラントの「I Don’t Wanna Dance」をシングル曲としてリリースするよう強く推し、そしてエディ・グラントは高い評価を得ることになる。

80年代から90年代を通じて、トニー・カルダーは88年にビッグ・ウェーブ・グループを形成し、ジャイブ・バニー&ザ・マスターミキサーズのためにUKナンバー・ワンのヒット曲を3曲連続でプロモーションしながら、この業界に絶えず存在する者としてあり続けた。1994年、彼は再びアンドリュー・ルーグ・オールダムとパートナーを組み、アバの伝記『Abba: The Name Of The Game』を2人で執筆した。トニー・カルダーはエディ・グラントのマネージャーとして再び任務を果たし、彼のキャリアの幕を閉じた。

アンドリュー・ルーグ・オールダムはヴァラエティ紙にこう伝えながら、トニー・カルダーを追悼した。「トニー・カルダーは私がイミディエイト・レコードを作るのを手伝ってくれた。彼は他にも多くの偉業がある。事実、イミディエイトによって、未来のために私たちが前例を作れたことは功績だった。トニーには耳と根性があった。私が愛していた彼の死は惜しまれるだろう」。

Written by Tim Peacock


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