“ソウルの女王” アレサ・フランクリンが76歳で逝去
多数のグラミー受賞歴を誇るアレサ・フランクリンがその数十年にも渡る輝かしいキャリアに終止符を打ち、76歳で逝去したことが関連メディアとTMZによって報じられた。この死の直前には、新聞などで彼女がデトロイトの病院で危篤であることが伝えられていた。
2010年に癌と診断されていた”ソウルの女王”アレサ・フランクリンが最後にパフォーマンスしたのは2017年11月にニューヨークで開催されたエルトン・ジョン・エイズ基金のチャリティーパーティーで、彼女の一般向けの最後のパフォーマンスは2017年8月のフィラデルフィア公演だった。かねてから彼女は、2019年には音楽シーンから引退することを発表していた。2018年3月に予定されていた公演日程は、医者から2ヶ月の絶対安静を言い渡され、キャンセルを余儀なくされたが、そのうちの1公演は彼女の76歳の誕生日(3月25日)に開催されるはずだった。
追悼の言葉
伝説のモータウン・レコードの創設者、ベリー・ゴーディーは公式声明の中で、アレサ・フランクリンの死への悲しみをこう表現している。
「全国民の宝であり、私にとってはとてもとても大切な友人だったアレサ・フランクリン。彼女を心から愛していました。彼女が子供の頃に、初めて彼女の父の教会でピアノで弾き、歌い始めた日から、ホワイト・ハウスで心奮い立つようなパフォーマンスを披露した瞬間まで、ずっと変わらず素晴らしい才能の持ち主でした。時の経過と共に、音楽があり方が変わろうとも、彼女の存在意義は変わることはありませんでした」
「モータウン・レコードとは一度も契約することはありませんでしたが、私は彼女を家族同然に思っています。私たちはこの街、デトロイトで人生や様々な素晴らしい思い出を共有してきました。彼女の死は、私個人にとってだけでなく、彼女の類い稀な才能と素晴らしい魂に触れた世界中の人々にとっても、とてつもなく大きな喪失となることでしょう」
「アレサ・フランクリンはこれからも絶対的な”ソウルの女王”であり、彼女が遺してくれたものは永遠に生き続けます。彼女の息子たちや、ご家族、ご友人、そしてファンの皆さんに心からお悔やみ申し上げます。彼女が恋しくなります」
彼女の長年の友人であるスモーキー・ロビンソンは哀悼の意をこう述べている。
「今朝、私にとってこの世で最も長く時を共にした友人が私たちの父(神)の元へ帰りました。彼女がとても恋しくなりますが、きっと今頃平穏に包まれていることでしょう」
その生涯
1942年3月25日に生まれたアレサ・ルイーズ・フランクリンは子供の頃、彼女の父、C. L. フランクリンが牧師を務めていたデトロイトにあるニュー・べセル・バプテスト教会でゴスペルと出会い、彼女の歌手としてのキャリアが始まった。若きアレサ・フランクリンが14歳になった時に、彼の父が彼女のマネージャーとなり、”ゴスペル・キャラバン”と名付けられたツアーで父と旅に出発し、様々な教会を歌い巡った。そうして、彼女にとっての初めてのレコード契約をJ.V.B.レーベルを交わし、1956年にデビュー・アルバム『Songs of Faith(”Aretha Gospel”としても知られる)』をリリースした。
1960年、彼女が18歳になった時に、メジャーでのキャリアに乗り出し、コロンビア・レコードと契約を交わしたが、当時はまだ目立った成功を収めることはなかった。1961年初めに、初のビルボード・チャート入りを果たし、R&Bチャートで最高7位を記録したファースト・シングル「Won’t Be Long」を収録したメジャー・デビュー・アルバム『Aretha: With The Ray Bryant Combo』がリリースされた。クライド・オーティスがほぼ全てのプロデュースを担っていたコロンビア時代のレコーディングはスタンダードからヴォーカル・ジャズ、ブルース、ドゥーワップ、R&Bまで多岐に渡るジャンルをカヴァーしていた。その年が終わる前に、アレサ・フランクリンはスタンダードの名曲「Rock-a-Bye Your Baby with a Dixie Melody」のカヴァーで自身初の全米シングル・チャートTOP40入りを記録した。このシングルはオーストラリアとカナダでもTOp40に入り、彼女にとって初のインターナショナル・ヒットとなった。
1964年までに、ポップ・ミュージックのレコーディングも始めたアレサ・フランクリンは、1965年初旬に発表したバラード曲「Runnin’ Out of Fools」でR&BチャートTOP10入りを記録する。その後も1965年と1966年に「One Step Ahead」と「Cry Like A Baby」という2曲のR&Bチャート入りシングルを発表し、バラード曲「You Made Me Love You」と「(No, No) I’m Losing You」ではイージー・リスニング・チャート入りも果たした。1960年代中盤には、ナイトクラブや劇場での数え切れない公演で10万ドルの利益を挙げていた。また、同時期には、『Hollywood A Go-Go』や『Shindig!』などのロックンロール番組にも出演するようになる。
1967年にアトランティック・レコードと契約を交わしてからは、「Respect」や「(You Make Me Feel Like) A Natural Woman」「Spanish Harlem」、そして「Think」など不朽のヒット曲により商業的な評価と成功を獲得し、1960年代の終わりには”ソウルの女王”と呼ばれるようになった。
アレサ・フランクリンのアトランティック・レコードからのデビュー・アルバム『I Never Loved a Man the Way I Love You』も商業的な成功を収め、ゴールド・ディスクを獲得。1967年には「Baby I Love You」と「(You Make Me Feel Like A) Natural Woman」がTOP10入りを果たした。アレサ・フランクリンとプロデューサーのジェリー・ウェックスラーとの関係性が彼女のアトランティック時代の最盛期のレコーディング作品を創り出す支えとなっていた。
1968年には、彼女の代表曲となる「Chain of Fools」「Ain’t No Way」「Think」「I Say a Little Prayer」を収録したベストセラー・アルバム『Lady Soul and Aretha Now』を発表し、”最優秀女性リズム・アンド・ブルース・ヴォーカル・パフォーマンス賞”を含む、自身初のグラミー賞を2部門で受賞した。1968年2月16日、アレサ・フランクリンは長年の友人であるマーティン・ルーサー・キング・ジュニアによって”SCLC Drum Beat Award for Musicians”の名誉が手渡された。彼が亡くなる2ヶ月前のことだった。
1970年代に入り、アレサ・フランクリンは、「Spanish Harlem」「Rock Steady」「Day Dreaming」などのTOP10シングルと、高い評価を得た『Spirit in the Dark』『Young, Gifted and Black』、そして200万枚以上を売り上げたゴスペル作品『Amazing Grace』などのアルバムでさらなる成功を収めていく。
1971年には、後にライヴ・アルバム『Aretha Live at Fillmore West』としてリリースされた、フィルモア・ウエストでヘッドライン公演を飾った初のR&Bアーティストとなる。その後も「Until You Come Back To Me」や「I’m In Love」などの楽曲でR&Bシーンでの成功を続けていくが、1975年頃になると彼女のシングルやアルバムはトップ・セラーには入らなくなる。
1976年にジェリー・ウェックスラーがアトランティック・レコードからワーナー・ブラザースへ移籍した後、彼女はカーティス・メイフィールドと共に映画『スパークル』のサウンドトラックの制作に入る。今作が彼女にとって70年代最後のTOP40アルバムとなり、収録曲「Something He Can Feel」がR&Bチャートで1位を獲得した。
1979年に彼女の父が銃撃を受けた後、アレサ・フランクリンはアトランティック・レコードからアリスタ・レコードへ移籍し、映画『ブルース・ブラザース』への出演や、『Jump to It』や『Who’s Zoomin’ Who?』などのアルバムで成功を収める。1995年には、フォー・トップスがモータウンから発表した人気アルバム『Christmas Here With You』で彼女がフィーチャーされ、1998年にローリン・ヒルがプロデュースを手掛けたシングル「A Rose Is Still a Rose」で、見事TOP40に復帰し、後にリリースされた同タイトルのアルバムはゴールド・ディスクを獲得した。
同年、アレサ・フランクリンはグラミー賞授賞式での「Nessun Dorma」のパフォーマンスで国際的に高い評価を獲得する。2003年にリリースしたアリスタ・レコードからの最後のアルバム『So Damn Happy』にはグラミー賞受賞楽曲「Wonderful」が収録されている。
2014年10月、彼女によるアデルの「Rolling in the Deep」カヴァーがビルボードのHot R&B/Hip-Hopソング・チャートで初登場47位を記録する成功を収め、同チャートにおいて100曲をチャートインさせた初の女性アーティストに認定された。
アレサ・フランクリンはその生涯を通して、18度のグラミー賞受賞に輝き、全世界で7,500万枚以上のセールス記録で、現在でも最も売れたアーティストの一人としてその名を歴史に刻んでいる。彼女の絶大なる影響力と功績は1987年に初の女性アーティストとしてロックの殿堂入りするなどして讃えられている。2005年にはイギリスの音楽の殿堂入りを、そして2012年8月にはゴスペル音楽協会によるゴスペルの殿堂入りも果たしている。
近年では、アンドレ3000と一緒に仕事をしたり、アデルのカヴァーを発表していたが、2015年の彼女の「(You Make Me Feel Like) A Natural Woman」パフォーマンスにアメリカ前大統領のオバマ氏が涙したのは印象深かった。
彼女の死の直前には、スティーヴィー・ワンダーが一部プロデュースを手掛けたとされる、最後のアルバムの制作途中だったと報じられている。
Written By Tim Peacock
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