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素晴らしきアメリカン・ソウルブック
1969年にリリースされたシュープリームスの22枚目の全米ヒットは、「The Composer」だった。この曲は、恋人にかけられた魔法をソングライターの仕事に例えたものだ。ダイアナ・ロスは“あなたは、私の心が歌う曲のコンポーザー”と、愛し気に歌う。彼女は、作曲家を称賛するのに最適な立場だった。22枚のヒットはあっても、彼女の名がライターとしてクレジットされたものは1曲もなかった。『Great American Soulbook』の土台であるモータウンの偉大なソングライターたちがいなければ、彼女は、百貨店の売り子として悪戦苦闘し、“なぜ、前途有望な私のグループは私をこの単調な仕事から解放してくれないのかしら”と嘆いていたかもしれない。
「The Composer」を作ったのはスモーキー・ロビンソンだ。ロマンチックなメロディの作り方を知っている人がいるとしたら、それはスモーキーだ。彼に対して書かれたロマンチック・メロディがあるほどに崇拝されるソングライターだ。彼は、メアリー・ウェルズのために「My Guy」を、テンプテーションズに「My Girl」、マーヴィン・ゲイに「Ain’t That Peculiar」、マーヴェレッツに「The Hunger Gets Captured By The Game」、自身のグループ、ミラクルズのために「The Tears Of A Clown」「Ooo Baby Baby」「Going To A Go Go」などを作った。スモーキーは1000を超える曲を書いている。彼にはノウハウ、こつ、才能が備わっている。彼は『Great American Soulbook』の中で最も崇拝される人物の1人だ。畏敬の念を抱かせるこれらの曲は、ソウルの名のもと作られた。しかし、簡単だったわけではない。
[layerslider id=”0“]スモーキーが初めて曲を作ったのは6歳のときだった。オーディションでジャッキー・ウィルソンのソングライターに会ったとき、すでに100曲以上を作曲していた。ウィルソンのソングライターはベリー・ゴーディだった。彼はスモーキーの作品20曲を聴き、全てをボツにした。しかし、ゴーディはスモーキーの声が気に入った。1959年、彼はミラクルズを自身のレーベル、タムラが契約する初のアーティストに選び、スモーキーが曲を整理するのを手伝った。「1つの曲の中で5つの曲が行き交っていたんだ」と、スモーキーは2016年、ジョン・ワイルドに話している。ゴーディはスモーキーに曲全体を考え、テーマに焦点を合わせるよう教えた。優秀な生徒だったスモーキーは、師を追い越した。ボブ・ディランは彼のことを、アメリカで最高の詩人と評したが、彼はそれ以上だった。55年のキャリアで、彼はどの詩人より多くの人々を感動させた。本当だ。
素晴らしい曲には、覚えやすいメロディと頭に残る歌詞が必要だ。共感を持たれるものでなくてはならない。ドラマ、機知、悲劇、答えが必要だ。一度聴いたら、それで終わりと感じさせてはいけないのだ。しかし、『Great American Soulbook』に選ばれるには、もう1つ必要だ。他のジャンルでは必須ではないが、ソウルの曲の大半は、人々を踊らせる。
タムラ・モータウンは、ファンの心をその足元から知ることができた。スモーキーは心と身体両方を動かす曲を書いた。「Get Ready」(テンプテーションズ)、「One More Heartache」(マーヴィン・ゲイ)、「Shop Around」(ミラクルズ)――全てがダンスフロアのお薦めだ。時代が変わると、スモーキーも変わった。「Still Water (Love)」(フォー・トップス)で70年代、ソウルが「What’s Going On」時代へ転換するのを助け、自身が歌った「Quiet Storm」でその名を冠したクワイエット・ストームというジャンルを誕生させた。スモーキーは何もかも手に入れた…ライバルさえも。
エディ&ブライアン・ホーランド兄弟とラモント・ドジャーから成るホーランド=ドジャー=ホーランド(HDH)は、モータウン初の真に素晴らしいソングライター・チームだった。50年代終わり、3人はモータウンやそのサブレーベルでそれぞれソロ活動を行なっていたが、スイッチが入ったのは、60年代終わりに共作し始めたときだ。マーサ&ザ・ヴァンデラス(「Heat Wave」)、マーヴェレッツ(「Locking Up My Heart」)、ミラクルズ(「Mickey’s Monkey」)らの初期のヒット曲により、才能はあるが曲がない2つのモータウン・グループをブレイクさせる任務に就いた。シュープリームスとフォー・トップスだ。HDHはソングライターのレジェンドになった。「Baby I Need Your Loving」「Baby Love」「I Can’t Help Myself (Sugar Pie Honey Bunch)」「Come See About Me」「It’s The Same Old Song」…トリオは、この2組のヴォーカル・グループのために、60年代半ばのモータウンを象徴するレコードの数々を生み出した。
モータウンは、争うことなくHDHを手放したわけではない。ただ、「海にはたくさん過ぎるほどの魚がいる」と言ったことは許されてもいいだろう。モータウンは才能で溢れていた。67年、ノーマン・ホイットフィールドとバレット・ストロングが、同社の最もダイナミックなソングライター・チームの座を引き継いだ。若くスマートで熱意のあるホイットフィールドは1962年、作詞家バレット・ストロングと最初のヒット、マーヴィン・ゲイの「Wherever I Lay My Hat」を作った(ゲイの名も作曲にクレジットされた)。ホイットフィールドは1966年、テンプテーションズのプロダクションの任務を引き受け、彼らを甘いサウンドのロマンチック・ヒットメーカーからモータウンがサイケデリック・スターに対抗しなくてはならないときの好敵手へと変えた。当初、彼は(エディ・ホーランドと)テンプテーションズのために「Ain’t Too Proud To Beg」を作った。これは、過去にスモーキー・ロビンソンがこのグループのために作り出した明るいサウンドに合っていた。しかし、このトーンは「I Know I’m Losing You」や「I Wish It Would Rain」でダークな方向へ転換した。後者は、Roger Penzabeneとバレット・ストロングと共作した。そしてホイットフィールドとストロングは、永遠の名曲を生み出すことになる。1967年、グラディス・ナイト&ザ・ピップスが発表し1位に輝いた「I Heard It Through The Grapevine(邦題:悲しいうわさ)」だ。この曲はフレッシュでファンキー、エキサイティングだったが、翌年、2人が解き放った革命に比べれば、大したことはなかった。
ソウルはヒッピーのカウンター・カルチャーを吸収し始めていた。多民族のスライ&ザ・ファミリー・ストーンはロックとファンクを一体化した。このサイケ時代にモータウンで曲を作っていたジョージ・クリントンによると、ホイットフィールドは彼のロック・ファンク・バンド、パーラメントを観に来たそうだ。しかし、ホイットフィールドは、テンプテーションズの「Cloud 9」で、完全にサイケデリックでありながら完璧にソウルフルというサウンドを作ることに成功した。サイケデリックのドラッグ、もしくは狂気を通じての逃避を暗示し、ホイットフィールドならではのスタイルで、クレイジーな世界を描き、現実逃避を正当化した。その後、「Runaway Child, Running Wild」「Don’t Let The Joneses Get You Down」と続いた。どちらも社会派の歌詞を取り入れ、「Psychedelic Sack」と混沌とした「Ball Of Confusion」で、テンプテーションズをポップの最先端に押し上げた。しかし、テンプテーションズ自身は、これら新しい音楽について確信が持てず、ラヴ・ソングを好んでいた。リード・シンガーのデニス・エドワーズはとくに、自分たちを無気力な男の息子だと描いたホイットフィールド/ストロングの大作「Papa Was A Rolling Stone」を嫌がった。
テンプテーションズはこの時代、ホイットフィールドの唯一のスターではなかった。彼は、エドウィン・スターのために「War」を、グラディス・ナイト&ザ・ピップスに「It Should Have Been Me」を、マーヴィン・ゲイに「Too Busy Thinking About My Baby(邦題:ハートがいっぱい)」などたくさんの曲を書いた。彼はモータウンを辞めたとき、『Car Wash』のサウンドトラックを制作し、ローズ・ロイスにパフォーマンスさせ、タイトル・トラックと「I Wanna Get Next To You」(1976年)をヒットさせた。彼はまたファンキーな歌姫たちスターガードの黒幕で、彼女たちは「Theme Song From Which Way Is Up」(1978年)がチャート・インした。ホイットフィールドは27年もの間、ヒットを生み続けた。
モータウン工場は、多くのライターを必要としていた。ヘンリー・コスビー、シルヴィア・モイ、ジャニー・ブラッドフォード、ジョニー・ブリストル、ミッキー・スティーヴンソンらは、その一部だ。モータウンのコレクションから我々が最後に選んだのは、夫婦のチーム、ニック・アシュフォードとヴァレリー・シンプソンだ。ハーレムの教会で出会った彼らは、60年代半ば、自分たちのシングルは失敗したが、レイ・チャールズ(アイケッツのジョー・アームステッドとの「Let’s Go Get Stoned」)とマキシン・ブラウン(「One Step At A Time」)のもと、曲作りの経験を積んだ。言うまでもなく、2人は60年代の流行に合った曲を作る才覚があった。1966年モータウンに入り、マーヴィン・ゲイ&タミー・テレルの曲作りに割り当てられると、さらに勢いが増した。彼らは1967年、ゴスペル風の「Ain’t No Mountain High Enough」をヒットさせた。彼らはこの曲がここまでブレイクするとは思っていなかっただろう(1970年、ダイアナ・ロスのソロ・ヴァージョンは全米1位に輝き、その後、エイミー・ワインハウスが、これをもとに「Tears Dry On Their Own」を作った)。
「The Onion Song」(1969年)は、ザ・ビートルズやビー・ジーズなどが得意としたシュールなメタファーを交え、マーヴィン&タミーのヒットとなった。そして「Ain’t Nothing Like The Real Thing(邦題:恋はまぼろし)」「You’re All I Need To Get By」で、デュオの強み――男女のディオだというアシュフォード&シンプソンの利点を実感させた。彼らの作品はよく、本来の目的以上の活路を見出した。例えば、「California Soul」はメッセンジャーズのB面として作られたが、マーヴィン&タミー、フィフス・ディメンション、マリーナ・ショウによりカヴァーされ、デトロイトから西海岸へ移ったモータウンのアンセムにもなった。
タミー・テレルが脳腫瘍で亡くなったときには痛手を受けた。シンプソンは否定したが、タミーの最後の作品の一部で、彼女のパートをシンプソンが歌ったとの噂が流れた。しかし、アシュフォードとシンプソンは、70年代、ダイアナ・ロスのために「Reach Out And Touch (Somebody’s Hand)」、エレガントな「Remember Me」など、情熱的で高揚感のある曲を作り続けた。シンプソンの2枚のソロ・アルバムは、あの時代最高のシンガー・ソングライターの作品に匹敵するが、売れなかった。彼らは1974年にアシュフォード&シンプソンとしてパフォーマーのキャリアを再スタートさせた。「Bourgie Bourgie」(1977年)で社会派のコメントを差し込み、これは後にグラディス・ナイトによりヒットした。自分たちでは「Solid」(1984年)をチャート・インさせた。また、クインシー・ジョーンズとチャカ・カーンのために「Stuff Like That」(1976年)を、チャカにはアンセム「I’m Every Woman」(1978年)も作るなど、勝利の火が消えることはなかった。
デトロイトとモータウンが、音楽の才能を独占していたわけではない。モータウンが動き出そうとしていたころ、シカゴでは、アフリカン・アメリカン音楽の分野の最高に偉大なソングライターの1人が頭角を現し始めていた。インプレッションズの1人、カーティス・メイフィールドは『Great American Soulbook』に深い感銘を与えた。
メイフィールドの作曲家としてのチャート・デビューは、1960年ジェリー・バトラーのために彼と共作した「He Will Break Your Heart」だった。彼らはインプレッションズで一緒で、バトラーがソロに転向したとき、メイフィールドは彼とツアーに出た。この曲は、うわべは、新しいボーイフレンドは彼女のことを、(この歌の)語り手のようには真剣に愛していないと警告するシンブルなバラードだが、そこには奥深い意味が隠されていた。メイフィールドとバトラーが公演のため街を訪れると、パフォーマーだからという理由だけで彼らを欲しがる女性たちがいた。しかし、メイフィールドはこう考えた。彼女たちには彼女たちを愛する男性たちがいて、通りすがりのパフォーマーに気持ちを向けるのは愚かだと。メイフィールドがソウルの領域を超えて物事を見ることができるのを示した最初の証だった。
彼の音楽には優しい面があった。おそらく、彼のファルセットの声はパワフルとは言えなかったため、そうせざるを得なかったのだろう。しかし、インプレッションズに戻ってからの、彼のシングルはパワフルで永続的なインパクトを及ぼした。「Gypsy Woman」(1961年)、「Grow Closer Together」(1962年)、「I’m So Proud」(1963年)は大きな印を残した。「Keep On Pushing」(1962年)ではメッセージが加わり、「People Get Ready」「I’ve Been Trying」(1965年)、「We’re A Winner」(1967年)で、それが偶然の産物ではないことを証明した。トリオが作ったレコードは、ブラック・アメリカや現代主義の英国から大絶賛された。メイフィールドの作品はジャマイカで奪い合いになり、そこで、彼のソングライティングはボブ・マーリーに多大な影響を与えた。マーリーのウェイラーズはインプレッションズを手本にしていた。
これでも十分ではないかのように、メイフィールドは、多くのアーティストに彼の曲を放流し続けた。ジェリー・バトラー(「Need To Belong」)、ジャン・ブラッドリー(「Mama Didn’t Lie」)、メイジャー・ランス(「Um Um Um Um Um」)、ジーン・チャンドラー(「Rainbow」「Nothing Can Stop Me」)はその一部だ。1970年にインプレッションズを脱退したメイフィールドは「Move On Up」(1971年)、「Freddie’s Dead」「Superfly」などのおかげで、ソウルのスーパースターになった。後者2曲は、彼が作ったいくつかの映画サウンドトラックの1枚『Superfly』に収録されている。さらに、リンダ・クリフォード、グラディス・ナイト、メイヴィス・ステイプルズなど他のアーティストのためにも曲を書き続けた。メイフィールドのレーベルのロゴはペンだった。彼はまた、60年代終わりから70年代初め、ファイヴ・ステアステップス、リロイ・ハトソン(メイフィールドの代わりにインプレッションズに加入)、ダニー・ハサウェイといったシカゴのアーティストたちのメンターだった。ピアニスト/ヴォーカリストのハサウェイは、アルバム『Live』など70年代のソウルで最も情熱的なレコードを何枚も発表している。ハサウェイとハトソンは、歌詞の必要などない、メッセージを持つファンキーなグルーヴ「The Ghetto」を共作した。ハサウェイはまた、アンセム「Someday We’ll All Be Free(邦題:いつか自由に)」も共作。これは数えきれないほどカヴァーされてきた。ジョージ・ベンソンによって有名になったハサウェイのインストゥルメンタル「Valdez In The Country」は、ジャズ・ソウルの名作だ。
アメリカにはソウルの要塞となった街がたくさんあった。フィラデルフィアは70年代、その独自のスタイルで一世を風靡した。ほかにも、ニューオーリンズ、メンフィスなどがあり、流行ろうがなかろうが、それぞれのやり方で繁栄していた。60年代から70年代前半、ニューオーリンズの中心にいたのがアラン・トゥーサンだ。正確でファンキーで軽快なピアノ・プレイヤーは、ブラック・ミュージックの偉大なソングライター/プロデューサーの1人だった。もし、ザ・ローリング・ストーンズやヤードバーズ、ザ・フーといったブリティッシュR&Bバンドに何らかの影響が見られるとしたら、そこにはトゥーサンが一枚噛んでいる。英国では違うヴァージョンに変換されたかもしれないが、彼の庇護にあったアーティストのために作られたものは、いまでもニューオーリンズのサウンドに根付いている。アーニー・ケイ・ドウ(「Mother In Law」「Here Come The Girls」、リー・ドーシー(「Working In The Coal Mine」「Yes We Can」)、ベティ・ハリス(「Ride Your Pony」)、ハーブ・アルパート(「Whipped Cream」)、ミーターズ(「Hand Clapping Song」)らが、1960~1975年、トゥーサンの才能の恩恵を受けた。彼は、ラベル(「Lady Marmalade」)とドクター・ジョン(「Right Place, Wrong Time」)をプロデュースし、絶賛されたソロ・アルバムも生み出した。トゥーサンは全てを一人で成し遂げるワン・マン・ミュージシャンだった。
メンフィスは20世紀前半ずっと音楽の中心地だった。ボビー・ブランドやB.B.キング、ルーファス・トーマス、それにエルヴィスという名のネコからジュークボックスまでを世界に送り出した。しかし、60年代には、スタックス(・レコード)のおかげで、力強く霊的でディープなサザン・ソウルをチャートに送り込んでいた。レーベルは、ウィリアム・ベル(「Born Under A Bad Sign」「Private Number」)、ブッカー・T・ジョーンズ(「Green Onions」「I Never Found A Girl」)などの独創的な作曲家に恵まれた。そして、スタックスを有名にした最大のライティング・チームがアイザック・ヘイズとデヴィッド・ポーターだった。
ヘイズは「Theme From Shaft」の軽快な――いまではファンクの定型のようになったサウンドで広く知られているが、彼の作品には陳腐なところは少しもない。メロディーとときに複雑なアレンジが、デヴィッド・ポーターの歌詞によりさらに美しく高められ、幅広い感情を網羅している。2人は1966年に再びタッグを組み、サム&デイヴの「Hold On I’m Comin’」「Soul Sister, Brown Sugar」「Soul Man」など、精力的に曲を作った。カーラ・トーマスの「B-A-B-Y」とマーブル・ジョンの「Your Good Thing (Is About To End)」で、彼らの魔法は女性シンガーにも有効であることを証明してみせた。また、ルーファス・トーマス、ジョニー・テイラー、エモーションズらのためにも曲を作った。さらに、ヘイズはソロ活動も始め、「Do Your Thing」は多くのアーティストによりカヴァーされ、「Joy」は、80年代後半から90年代初めに猛威を振るった “ソウルIIソウル・ビート”の誕生にも一役買った。ヘイズはヘヴィ級だった。
『Great American Soulbook』のフィラデルフィアの章は、70年代が中心だ。この時期、この街はソウルの主要なサウンドを生んだ。洗練され、心のこもったスタイルはモータウンとディスコの間のすき間を埋め、ドゥーワップという副産物も生み出した。ディスコはスタイリックスとデルフォニックスの作品に現れている。デルフォニックスは、トム・ベルの才能のおかげで名声を得た。ベルは1968年、彼らのブレイクスルー「La-La (Means I Love You)」を作り、純真だった時代をリバイバルさせた。その後、グループの人気急上昇中のリード・シンガー、ウィリアム・ハートと「Ready Or Not Here I Come (Can’t Hide From Love)」「Didn’t I (Blow Your Mind This Time)」を共作した。
1971年、ベルはもう1つのグループ、力強いハイ・テナー(ラッセル・トンプキンスJr)が在籍したスタイリスティックスの曲作り、プロデュースを手掛け、きめ細かく優雅な作品でブラック・アメリカの艶やかな面を見せた。「Stop, Look, Listen To Your Heart」「You Are Everything」「Betcha By Golly Wow」「You Make Me Feel Brand New(邦題:誓い)」…このグループのヒットは1974年まで続いた。しかし、滑らかできらびやかなだけではない。スタイリスティックスのアルバムはどれも、「People Make The World Go Round」「Payback Is A Dog」などダークでファンキーな曲も収録していた。作詞家リンダ・クリードがこれらの珠玉に関わった。ベルとクリードは、モータウン難民だったスピナーズのために「Ghetto Child」「The Rubberband Man」という避難所を与えた。クリードはその後、マイケル・マッサーと「The Greatest Love Of All」を作ったが、彼女のキャリアは突如、幕を閉じた。1986年、まだ37歳のとき、乳がんがその命を奪った。
ベルはまた、フィラデルフィア・インターナショナルのオーナー達とも仕事をした。このレコード会社はこの地のソウルの成功の中核だった。ケニー・ギャンブル&レオン・ハフは素晴らしいソングライター&プロデューサーだった。オージェイズの「Love Train」、ジェリー・バトラーの「A Band New Me」、ビリー・ポールの「Me And Mrs Jones」、そしてジャクソンズの「Show You The Way To Go」を作った。オージェイズとビリー・ポールはとくに、それまで何年もレコーディングしてきながらあまりヒットがなかったのに、これで開花した。
最も『Great American Soulbook』に似つかわしくないのが、英国リンカンシャー州、クリートソープス出身のキーボード・プレイヤー、ロッド・テンパートンだろう。彼は、英国で最も有名なディスコ・グループ、ヒートウェイヴの「Boogie Nights」「Always And Forever」でその足跡を残した。これらはクインシー・ジョーンズの目に留まり、彼がプロデュースしていたアーティストの曲作りのため、テンパートンを雇った。その中には、ジェイムス・イングラム&マイケル・マクドナルド(「Yah Mo B There」)、ラフス(「Materjam」)、そして高い声の持つ少年、マイケル・ジャクソンがいた。テンパートンは彼に曲を提供した――300曲もだ。その1つは1979年の『Off The Wall』で衝撃を与えた。「Rock With You」だ。そして、タクシーの中で「Thriller」のアイディアを思いついた。彼はまた、ブラザーズ・ジョンションの「Stomp」、ジョージ・ベンソンの「Give Me The Night」、ハービー・ハンコックやドナ・サマーの曲を作っている。80年代初めのソウル・ダンスのトップに位置する人々ばかりだ。クリートソープスにはソウルがあった。
根が謙虚なソウルは、向上心の強い80年代、ヒップホップやハウスの台頭で悪戦苦闘したが、ビートの中のヴォーカルが重要視されるモダンR&Bという避難先を見つけた。プリンスのファミリー、ザ・タイムからジミー・ジャムとテリー・ルイスが登場し、多くの才能あるアーティストのために作曲とプロデュースをした。彼らの最初のヒットはSOSバンドの「Just Be Good To Me」(1983年 別名 ビーツ・インターナショナルの「Dub Be Good To Me」)で、その後、アレクサンダー・オニールの「Fake」、シェレール(with オニール)の「Saturday Love」と続いた。1986年、ジャム&ルイスはジャネット・ジャクソンからの依頼を承諾し、「What Have You Done For Me Lately(邦題:恋するティーンエイジャー)」と「Nasty」、そして最高傑作『Rhythm Nation 1814』で彼女をメジャー・スターの座に押し上げた。彼らの履歴書は、ヒューマン・リーグ(「Jam」)からラルフ・トレスヴァント(「Sensitivity」)までエレクトロニック・ダンス・グルーヴのアーティストの名前で埋めつくされている。全てとは言えないが、多くはソウルだ。
80年代終わりから90年代、ジャム&ルイスに匹敵した数少ないプロダクション・チームの1つがLA&ベイビーフェイス(アントニオ・リード&ケニー・エドモンズ)だった。彼らはたくさんのアーティストの作曲・プロデュースをしただけでなく、ヒップホップとモダンR&Bを繋ぐミュージック・スタイル、ニュー・ジャック・スウィング(別名 スウィングビート)を発展させた功績もある。TLCの「Baby-Baby-Baby」、ボーイズIIメンの「End Of The Road」、ホイットニー・ヒューストンの「I’m Your Baby Tonight」、ボビー・ブラウンの「Don’t Be Cruel」…60年代、テンプテーションズで知られたソウルではないかもしれないが、モータウンがよく理解していたように、この音楽はいつも変化しているものだ。
“ザ・コンポーザー”はいまでも『Great American Soulbook』を作り続けている。
Ian McCann