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ブルースの旅:アメリカ南部で生まれたロックの父

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The Blues

 

アメリカ南部、ミシシッピ州デルタの熱、窮状、苦悩から誕生したブルース。やがて、その炎は大西洋を渡り、エリック・クラプトンのような人たちがトーチを掲げ、新世代の信奉者へと受け継がれた。そのデルタでは、ハウリン・ウルフ、ジョン・リー・フッカー、B.B.キングが誕生した。彼らによってシカゴに持ち込まれたブルースは、そこで、マディ・ウォーターズ、バディ・ガイ、チェス・レコードの多くの人達の助けを借り、エレクトリックへと発展していった。英国では60年代、ザ・ローリング・ストーンズ、ジョン・メイオールらブルースを愛する人々により育まれ、最近では、ロバート・クレイに代表される若い世代がそのトーチを掲げている。一緒にこのブルースの旅を探求しよう…。

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The Blues

誰かひとりの人物がブルースを発明したわけでもなければ、それを歌い始めるきっかけとなったひとつの出来事があったわけでもない。男性女性、黒人と白人の両方が、大西洋の両側で、このディープで心を満たす音楽を愛してきた。ブルース初の白人の愛弟子の1人が、エリック・クラプトンだった。ヤードバーズとジョン・メイオールのバンドでプレイした後、ジンジャー・ベイカー、ジャック・ブルースと共にクリームを結成した彼は、その後、ソロ活動で誰よりも素晴らしい成功を収めた。ブルースに対して深い愛情を持つクラプトンは、黒人と白人両方のミュージシャンとレコーディングした。その音楽の中には、『Layla and Other Assorted Love Songs(邦題:いとしのレイラ)』、名作『Slowhand』などがあり、ロックと定義される音楽だが、これらのどれもがブルースなくしては誕生しなかった。

エリック・クラプトンが、ジョン・メイオールと共に大ブレイクしたのは、驚くべきことではない。メイオールは、ブリティッシュ・ブルース・カレッジと呼ばれるものを築き上げていた。メイオールは、ブルースにどっぷりのめり込んだ最初のブリティッシュ・ミュージシャンの一人だった。彼はまずギターを習い、その後、ミード・ルクス・ルイスやアルバート・アモンズのレコードを聴きインスパイアされ、ピアノに転向した。17になった頃にはすでに、マンチェスターでブルースをプレイしており、美術学校に通いながらパワーハウス・フォーを結成し、卒業してからもプレイし続けた。

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アレクシス・コーナーに勧められ、ロンドンへ向かった彼は、1963年30歳のとき、モダン・ミュージック史上、ラインナップの点では誰にも引けを取らないであろうバンド、ブルースブレイカーズを結成した。彼が紹介されたデッカのスタッフ・プロデューサー、マイク・ヴァーノンはバンドと契約するようレコード会社を説得してくれた。ブルースブレイカーズの1stシングル「Crawling Up The Hill」(「Mr. James」とのカップリング)は、1964年5月にリリースされたが、これはヒットしなかった。しかしその後、ジョン・メイオールはミュージシャンを入れ替えつつ、ロック・ミュージック界の大物らと一緒に最高級のブリティッシュ・ブルースのいくつかをレコーディングした。

エリック・クラプトンは1965年10月、ヤードバーズを脱退し、メイオールのバンドに加入した。そして最初のセッションで、彼らはジミー・ペイジがプロデュースしたシングルをイミディエイト・レコーズよりリリースした。翌年初め、彼らは素晴らしいアルバム『John Mayall & The Bluesbreakers with Eric Clapton』を発表。二人にとってブレイクスルーとなった。エリック・クラプトンはロック・アイコン、ギターの神様となったが、ティーンエイジャーのときインスパイアされた音楽への情熱を失うことはなかった。その音楽は、アメリカの未知なる土地で、後に出会うことになるのだが、60年代初めには謎めいた神のような人々によってプレイされていたものだった。

ブルースは、はるか昔まで遡る。感情やムードを“ブルー”と表現し始めたのは16世紀だった。19世紀までには、それは鬱、倦怠感、悲運などを表すときに使われるようになった。とくにアメリカの南部に住む黒人たちと結びついていた。しかし、1912年、W.C.ハンディが「メンフィス・ブルース」を楽譜出版したとき、皮肉にもそれはブルースの曲ではなく、インストゥルメンタルの行進曲だったが、曲のタイトルにブルースという言葉を使うのが流行り、定着した。

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ハンディがメンフィス・ブルースを出す2年前、両親にチェスターと名付けられた一人の赤ちゃんが、ミシシッピ・デルタで誕生した。彼は後に、そのシンギング・スタイルから、ハウリン・ウルフという愛称が付けられた。彼が初めてレコーディングした場所は、テネシー州メンフィスにあるサン・スタジオだった。スタジオおよびサン・レコードのオーナーだったサム・フィリップスは、「Moanin’ at Midnight」をチェス・レコードにリースし、それが1951年、ウルフの最初のヒットとなった。ウルフは、シカゴに移住した南部の黒人たちから称賛され、後にヨーロッパで、エリック・クラプトンを含むブルースの若い熱狂的な愛好家からも感嘆された。クラプトンは70年代、ロンドンでウルフとレコーディングする機会に恵まれている。

ハウリン・ウルフが誕生した2年後、サム・ホプキンスがこの世に生まれ、テキサス州レオナで育った。彼はシガーボックスから彼にとって初めてとなるギターを作り、20年代終わりには従兄のテキサス・アレクサンダーとプレイし、ライトニンと名乗るようになった――ブルースはニックネームが大好きだ。刑務所で過ごした――これもブルース・シンガーの間では珍しいことではない――あと、彼は40年代終わりからレコーディングし続け、20世紀最も多産なレコーディング・アーティストの一人になった。彼のブルースのスタイルは、4枚のCDボックス・セット『100 Years of the Blues』で聴くことができるロバート・ジョンソンとビッグ・ビル・ブルーンジーのような戦前のカントリー・ブルースと密接に結びついていた。

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ライトニンのシンギング・スタイルは独特だ。これもまたブルースの典型的な側面だ。よく、最後の言葉や音節が最後尾から消え、それはパフォーマンスに緩く未完成のサウンドをもたらした。これは、多くの曲が労働歌もしくは霊歌のコール・アンド・レスポンスを起源としていることが一因かもしれない。そこでは、“コーラス”はしばし“コール”が始めた一節で終わるのだ。

サニー・ボーイ・ウィリアムソンは、おそらく19世紀最後の年に誕生し、彼の歌い方のルーツは戦前のスタイルだ。彼は素晴らしいハーモニカ・プレイヤーでもあり、たくさんの英国の若いシンガーたちがその楽器を手にするインスピレーションとなった。彼のレコード・デビューは1951年で、その後、エルモア・ジェイムスの名曲「Dust My Broom」でハーモニカをプレイした。1955年には、チェス傘下のチェッカー・レコードでレコーディングするようになり、「Don’t Start Me Talkin’」はアメリカのR&Bチャートで3位をマークした。

マディ・ウォーターズは1915年ミシシッピの大規模な農園で誕生し、1943年にシカゴへ移り住んだ。そして、チェッカーからのサニー・ボーイのデビュー曲でギターをプレイした。1941年夏、音楽学のパイオニアで、我々のブルースの知識を深めることに大貢献してくれたアラン・ローマックスが、ストーヴァルで国会図書館のフィールド・レコーディングのためにマディを録音した。1944年、マディはエレクトリック・ギターに乗り換え、この変化は彼のキャリアに電気ショックを与えることとなった。彼は伝統的なデルタ・ボトルネックをプレイし続けたが、エレキの使用は戦後のシカゴ・ブルースを“発明”する助けとなった。マディは1948年、「I Can’t Be Satisfied」と「Feel Like Going Home」をチェッカーからリリースし、その年の9月、R&Bチャートの11位につけた。この時点からマディのキャリアは本当に飛躍し、彼はシカゴのシーンで第一級のブルースマンとなった。

デルタのブルースマン、ジョン・リー・フッカーもまた、多産なレコーディング・アーティストだ。しかしながら、キャリア初期に実際、彼が何をレコーディングしたか追うのは難しい。なぜなら、彼はペンネームを使う傾向があったからだ。テキサス・スリム、ジョン・リー・クッカー、デルタ・ジョン、バーミンガム・サム、ジョニー・ウィリアムス、ザ・ブーギー・マン、ジョン・リー・ブッカー、ジョン・L・フッカー、さらにはリトル・ポーク・チョップスなんてものまであった。60年代、何度も英国を訪れ、「Boom Boom」「In The Mood」「Crawling King Snake」などのアイコニックなレコードを通じ、彼もまた白人のパフォーマーにインスピレーションを与えた。

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シカゴにあったチェス・レコードは1940年代終わりから1960年代、ブルースのスピリチュアル・ホームで、マディ・ウォーターズはシカゴ・ブルースの無冠の王だった。その王冠を奪おうとしていた人の中に、ハウリン・ウルフやジョン・リー・フッカーがいた。マディが「ブルースはベイビーを授かった。ロックン・ロールと呼ばれている」と言ったのは有名だ。チャック・ベリー、ジャッキー・ブレンストン(それに、アイク・ターナーも少々)が初めてロック・レコードを作ったと言われ(我々は必ずしも同意できないが…)、そしてボ・ディドリーがその誕生に一役買った。

もう一人のキング・オブ・ブルースは、アルバート・キングだ。彼は、より優れた同輩、ギターの巨匠B.B.キングのおかげでよく見過ごされてしまう。アルバートはメンフィスのスタックス・レコードのもとレコーディングし、クリームやエリック・クラプトンなど多くにインスピレーションを与えた貢献者である。クリームは、彼の「Born Under A Bad Sign」(1967年)をカヴァーしている。

ライリー・B・キング、ビール・ストリート・ブルース・ボーイ、すなわち、ミスター・B.B.キングは1925年、ミシシッピ・デルタで誕生し、1940年代にメンフィスへ移った。そこで1949年、デビュー作「Miss Martha King」をレコーディングした。それは、2012年にリリースされた『The Life Of Riley』のサウンドトラックで聴くことができる。翌年、彼もまたサン・レコードでレコーディングする機会に恵まれ、サム・フィリップスと同スタジオでカットしたレコードは、ビハリ兄弟により彼らのレーベルRPMからリリースされた。これらはヒットするに至らず、ビハリの弟は1951年初め、テネシーへ戻り、YMCAの一室でB.B.をレコーディングした。その一年後、B.B.はロウエル・フルスンの「Three O’clock Blues」をレコーディング。これは1952年初め、5週間1位に輝き、モダン・ブルースの歴史で最も成功したキャリアの始まりとなった。「Three O’clock Blues」はCD10枚セットの『Ladies & Gentlemen, Mr. B.B. King』に収録されている。

ギターを持つブルースマンは、世界中の多くの若いギタリストたちにインスピレーションを与えた。ブルースがなかったら、ロック・ミュージックもなければギター・ゴッドもいなかったと言ってもいいだろう。バディ・ガイは、レコード契約を結ぶのにマディ・ウォーターズから助けられた。そして、ギタリストのレジェンド達に影響を与えた。「First Time I Met The Blues」は、彼のホットなリックスだけでなく、彼をチェスの人気アーティストに押し上げた、うずくようなヴォーカル・スタイルでも魅せる。彼は、メンターであるマディ・ウォーターズと彼のアルバム『Folk Singer』で一緒にプレイした。これは、史上最高のブルース・アルバムの1枚だ。

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サンフランシスコのゴスペル音楽は、若きジェイムセッタ・ホーキンズ――エタ・ジェイムスとしてよく知られている――に、彼女の長いキャリアを支えた音楽の基盤を与えた。彼女は1954年にモダン・レコードのために1stシングル「The Wallflower」をレコーディングし、翌年、R&Bチャートの1位を飾った。彼女はそのとき、たった17歳だった。1960年にはチェスの傘下のアーゴと契約し、ここから彼女のキャリアが飛躍。まだ22歳で、このレーベルからの1stシングル「All I Could Do Is Cry」が2位をマークし、R&Bチャートの常連となった。翌年、グレン・ミラーの1942年のヒット曲「At Last」とミルドレッド・ベイリーの1937年のヒット曲「Trust In Me」をカヴァーしヒットさせた。どちらの曲もブルースではないが、エタは想像し得る限り最高にブルージーなものを生み出した。

エリック・クラプトンとレコーディングしたものの、ロバート・クレイ(左 *写真のこと)がレコード・デビューを果たすには時間がかかり、ブレイクするにはさらなる時を要した。ロバートを、クラプトンなどのオープニング・アクトからグラミー受賞者のヘッドライナーに変えたのは、5枚目のアルバム『Strong Persuader』だった。同作がリリースされてから25年、ロバート・クレイは14枚のアルバムをリリースし、セールス的にも成功し、現代で最高のブルース・パフォーマーの一人としての評価を得るに至った。

もし、この素晴らしい音楽を聴いて感銘を受けたとしたら、それはミュージシャンの作品への献身、ディープなエモーション、秘められた想いに心を打たれたからだろう……、それがブルースというものだ。いいとき、悪いとき、あらゆるときに相応しい音楽だ。ブルースは人生のサウンドトラックだ。なぜなら、ブルースは人生、愛、喪失、いい時期、悪い時期をテーマにしているから。あなたを高揚させることもあれば滅入らせることもある音楽…ブルースは永遠だ。

Written by Richard Havers


 

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