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ロックン・ロールは永遠に:ロックの歴史
ロックン・ロールは世代の夢、感情、ライフスタイルを定義し、エルヴィス・プレスリーやミック・ジャガーといったアイコニックなヒーローを輩出しながら、全世界にポピュラー・カルチャーを届けた。ロックの黄金時代はとうの昔に過ぎ去ったかもしれないが、進化を続けながら存在している。
ロックン・ロールは過去のジャンルにしっかりと根差しており、およそ100年の歴史を誇る。1922年9月、“ロック/揺らす”という言葉が曲中に使われ、音楽とセックスの密接な関係が明らかにされた。当時27歳だったトリクシー・スミスは、ザ・ジャズ・マスターズ(伝説的なジャズ・ミュージシャン、フレッチャー・ヘンダーソンを擁したバンド)と「My Daddy Rocks Me」という曲をリリースした。その中で彼女は「私の彼はしっかりロールしながら私をロック/彼が掴んだら、決して滑り落ちることはない」と歌われた。
1930年代前半までに、民俗学者のジョン・ロマックスと息子のアランは、米国議会図書館のために“ロック”という言葉を使った楽曲をいくつか見つけた。例えば「Run Old Jeremiah」だ。「俺にはロックがある」という言葉がコーラスに入っている。「Run Old Jeremiah」はアメリカ南部の農村で発達していた‘ロッキング・アンド・リーリング’のスピリチュアル(黒人霊歌)を基盤としている。この‘ロッキング・アンド・リーリング’は、大衆音楽の大半と同様、教会で発生した音楽だ。この伝統が後にロックン・ロールという表現形態となり、レイ・チャールズの「What’d I Say」やアイズレー・ブラザーズの「Shout」となった。
[layerslider id=”0“]1930年代にはレコード業界が台頭したことで、さまざまなスタイルの音楽が広がり、融合された。そしてこの頃、後にロック・レコードとなるサウンドの基盤が作られていた。その例が、ビッグ・ビル・ブルーンジーがシカゴで作っていた楽曲だ。彼は当初、アコースティックで歌っていたが、ホーン、ピアノ、ベース、ドラムを従えて歌うようになった。ビッグ・ビル・ブルーンジーの場合、混雑したクラブの中で酒を飲みながら、大音量のリズミックな音楽に合わせて踊りたいという都会の観客の要望に応えるためのものだった。しかし、ニューオーリンズのボズウェル・シスターズの密集したハーモニーなど、多種多様な影響を受けていた。
ロックはまた、40年代のジャズ・ジャンプ・ミュージックやR&Bをも起源としている。ザ・ローリング・ストーンズのキース・リチャーズは、「ロックン・ロールは、ハードなバックビートの入ったジャズに過ぎない」とまで言っている。
ロックの誕生に向けて基盤を作っていたのは、黒人ミュージシャンだけではなかった。ディープ・サウスでは、ボブ・ウィリス&ヒズ・テキサス・プレイボーイズといった大所帯の白人ウェスタン・バンドがブルース、ビッグバンド・ジャズ、カントリー・ミュージックを融合し、カール・パーキンスの「Blue Suede Shoes」の前兆となるようなサウンドを作っていた。
ロック誕生の日がきちんと特定できるようになるのは、50年代前半だ。1951年にジャッキー・ブレストン&ヒズ・デルタ・キャッツ(ギターはアイク・ターナーが担当)がシングル「Rocket 88」をリリースした。そして50年代半ばまでには、T-ボーン・ウォーカーが既にエレキ・ギターのパイオニアとなっており、チャック・ベリー、エリック・クラプトンといったギタリストにも影響を与えたシャッフルを駆使していた。ブギウギのリズムも、ジェリー・リー・ルイスといったミュージシャンが消化し、模倣したスタイルだった。
こうした要素がエルヴィス・プレスリーのサン・セッションズで結集した。今思い返してみても、1954年7月のデビューには感銘を受けざるをえない。「エルヴィスほど僕に影響を与えたものはない」とジョン・レノンが語っているほどだ。
サン・スタジオでのセッションでレコーディングされた「Blue Moon Of Kentucky」とB面の「That’s All Right」は、アメリカの音楽の転機となった。ライヴやテレビで一度目にしたら、決して忘れられないのがエルヴィス・プレスリーだった。その若々しさとエネルギー、パワフルな歌唱、ジェームズ・ディーン的なスタイルに、セクシーな腰つき。幼い頃、『エド・サリヴァン・ショウ』に出演したロックの帝王を畏敬の念を抱きながら見ていたブルース・スプリングスティーンも認めているように、エルヴィス・プレスリーは新たな時代の到来を告げたのだった。
それから2年以内に、ロックは全く止めることのできないミステリー・トレインとなった。エルヴィス・プレスリー、チャック・ベリー、ファッツ・ドミノ、さらには新人のリトル・リチャードが印象的な楽曲をリリースし、セールスも上昇し、影響力のある人物もロックを称賛しはじめた。中でも特に重要な人物がアラン・フリードだ。彼は‘ロックン・ロール’という言葉を世に広めた人物だが、実際にこの言葉を作ったかについては、決定的証拠はない。
アラン・フリードはDJとしてキャリアをスタートし、クリーヴランドのWJWでレコードをかけていた。この時、彼は曲のビートと合わせながら、手でテーブルを叩いていた。彼のラジオ番組では、ザ・ムーンドッグ・ロックン・ロール・パーティと呼ばれるライヴ・コンサートが放送されてたが、これは社会的な新境地を開いていた。人種隔離時代に、ポール・‘ハックルバック’・ウィリアムズといったアーティストが、人種が融合した観客の前でパフォーマンスを行っていたのだ。
アラン・フリードのラジオ番組はヨーロッパでも放送されており、50年代の終盤にはロックを模倣するアーティストも登場しはじめていたが、大衆の人気を集めたのは英国版エルヴィス・プレスリーと称されたビリー・フューリーだけだった。そして1960年4月、デッカは20歳の青年をスタジオに送り込み、彼はアルバムをレコーディングする。曲の大半は、彼が自らペンを執ったものだった。ロックは影響を与える音楽となりはじめていた。アルバムをレコーディングした若きギタリスト、ジョー・ブラウンは、プロデューサーのジャック・グッドから「スコッティ・ムーアをやれ」と言われ、エルヴィス・プレスリーの名ギタリストを真似るよう指示を出されたという。
ビリー・フューリーもジョー・ブラウンもアメリカ人を模倣し、アメリカ人に敬意を表していたが、ビリー・フューリーと彼のバンドは英国で18曲ものチャート・ヒットを生み出し、自分たちなりのスタイルを作り出した。ビリー・フューリーの成功は、ジュークボックスに恩恵を受けていた。彼がデビューする2年前、ジュークボックスを設置したイタリアン・スタイルのコーヒー・バーが2000軒も英国でオープンしていたのだ。
ロックン・ロールを世界に紹介したアメリカのスーパースターは、エルヴィス・プレスリーだけではない。「ロックン・ロールに別の名前をつけるとしたら、チャック・ベリーと呼ぶかもしれないな」とジョン・レノンは語っていた。オルタネート・コードで独自のスタイルを有したベリーは、ジョージ・ハリスンやキース・リチャーズのギター・スタイルに多大な影響を与えた。
セントルイス生まれのチャック・ベリーは、美容師として働きながら、空き時間に歌っていたが、マディ・ウォーターズの推薦でチェス・レコードに送り込まれた。チャック・ベリーが「Ida Red」というカントリー・ブルース楽曲をロック・クラシック「Maybellene」へと変換する手助けをしたのが、やり手のレナード・チェスだった。そしてアラン・フリードは、3人目の作者として楽曲のライティング・クレジットを手に入れる代わりに、ラジオで同曲をヘヴィー・ローテーションした。
チャック・ベリーはソングライターとして天賦の才に恵まれていただけでなく、ティーンエイジのリスナー(レコード市場で核となる購入層)に向けた楽曲を作れば、ヒットを出せることに気づく聡明さにも恵まれていた。そのため、「School Days」、「Sweet Little Sixteen(ファンについてのストーリー)、「Johnny B Goode」等の楽曲は、全てティーンをテーマとしたのだった。
当時は、リトル・リチャードが「Tutti Frutti」(「A-wop-bop-a-loo-bop-a-lop-bam-boom」)をパワー全開に歌うと、50年代の真面目さに慣れていた観客にセクシュアルな興奮を語り、話題になっていた頃でもある。リトル・リチャードは、ゴールドのラメが入った派手なスーツや、映画『Mister Rock And Roll』でマスカラもつけていたことで注目を集めたが、短期間のうちに「Long Tall Sally」や「Good Golly Miss Molly」等、同時代でも特に重要となった楽曲をリリースした。
ジェリー・リー・ルイスも、ロックン・ロールの黄金時代に君臨した大物だ。彼のパフォーマンス・スタイルには、自信と自暴自棄が混在していた――彼は、ライター用オイルでピアノに火を点け、足を使ってコードを弾くことでも知られていた。ジェリー・リー・ルイスは50年代、「Great Balls Of Fire」、「Whole Lotta Shakin’ Going On」を含む3曲の特大ヒットを生み出した。リトル・リチャード(人気絶頂時に、アラバマ州で神学を修めるため引退)と同様に、ジェリー・リー・ルイスも14歳の従姉妹との結婚によるスキャンダルを受けて、人気絶頂だった頃にシーンから突如姿を消した。しかし、‘The Killer’として知られる彼は後に復活し、80代になった今でもパフォーマンスをしている。
ファッツ・ドミノは、ロックの巨人になるには、若きセックス・シンボルである必要も、ステージで突飛な行動を取る必要もないことを証明した。7000万枚以上のレコードを売り上げたファッツ・ドミノは、ヴァイオリン奏者だった父親から受け継いだニューオーリンズの音楽的伝統、ブルース、アンサンブル・ジャズ・グループ、そしてマルディグラのパレード・バンドのセカンドライン・シンコペーションを活用した。これらを独自のスタイリッシュなピアノ演奏と甘いヴォーカルで料理すると、「The Fat Man」や「Blueberry Hill」といった素晴らしいヒット曲を生み出した。
ロック史におけるもう1人の重要人物は、バディ・ホリーだ。彼は1959年、飛行機事故により22歳の若さでこの世を去った(この飛行機事故でリッチー・ヴァレンスも命を落とした)。バディ・ホリーが音楽を演奏する姿は映像に残っておらず、残っているのは素晴らしい音楽(彼は「Peggy Sue」でロック初のヒロインを描いた)と、印象的なモノクロ写真だけだ。バディ・ホリーは、ボビー・ヴィーをはじめ、多くのティーン・アイドルをインスパイアした。「俺はバディ・ホリーの音楽を聴いて育った」と2016年にノーベル賞を受賞したボブ・ディランは言った。「彼の音楽はノスタルジアを超越するんだ」。
カール・パーキンスは、サム・フィリップスのアイコニックなユニオン・スタジオでレコーディングを行ったアーティストの1人(ジェリー・リー・ルイス、エルヴィス・プレスリー、ジョニー・キャッシュも同スタジオでレコーディングした)で、ロカビリー流行の貢献者でもある。ロカビリー・シーンにはエディ・コクランなどの有名アーティストがいたほか、わずかの間だけスポットを浴びながら、その後は巡回セールスマンとなったソニー・バージェスのようなアーティストもおり、多くがビル・ヘイリーに影響を受けていた。ビル・ヘイリーは、シングルB面の「Rock Around The Clock」でセンセーションを巻き起こした人物だ。
ロックとヒルビリーの融合は楽しく(カール・パーキンスは「カントリー・ビートの入ったブルース……キャット・ミュージック」と称している)、ジーン・ヴィンセントの「Be-Bop-A-Lula」やロイ・オービソンの「Ooby Dooby」といった名曲を生み出した。ロカビリーはエルヴィス・プレスリーに対し、直接的な敬意を表した音楽だ。そのため、ジーン・ヴィンセントの唱法とルックスが、若き日のエルヴィス・プレスリーに似ていたのも、偶然ではない。
ザ・エヴァリー・ブラザーズが白人のカントリー・ハーモニーをロックに取り込んだことからも分かるように、ロックはさまざまな音楽を取り入れた万華鏡のようだった。他のアーティスト(ジェリー・リー・ルイスの「Down The Line」等)にロック・ソングを書いてキャリアをスタートしたロイ・オービソンだが、最終的にはエレキ・ギター、ラテンのリズムとクラシック音楽のニュアンスを混合した魅惑的なサウンドで、自らアーティストとしても成功を収めた。このサウンドが、「Only The Lonely」や「Pretty Woman」という名曲の中で、彼の豊かなファルセット・ヴォイスを引き立てたのだ。
60年代初頭には、ロックン・ロールから派生したドゥワップ・グループ(プラターズやコースターズ)等、興味深いバンドが多数登場した。また、べンチャーズやデュアン・エディ(そして彼の「トゥワンギー」なギター・スタイル)等、インストゥルメンタル・ロック・バンドやソロイストも活躍した。このフォーミュラで、フェニックス生まれのデュアン・エディは大きな成功をおさめ、遠くは英国にまで影響を与えると、新品のフェンダー・ストラトキャスターを演奏するハンク・マーヴィンをフィーチャーしたシャドウズをインスパイアした。
60年代前半、インストゥルメンタル時代はピークに達するが、ザ・ビートルズ、ザ・フー、キンクス、ザ・ローリング・ストーンズによるブリティッシュ・インヴェイジョンの後は、ヴォーカルが再びロック・ミュージックの中で優位に立った。
ザ・ビートルズはアメリカン・ロックで育った。ポール・マッカートニーは、ドキッとするほどにリアリスティックなリトル・リチャードの物真似をすると、ジョン・レノンのバンド、クオリーメンを口説き落としたという。ザ・ビートルズは、初期のロッカーがブルースに没頭したように、ロックに没頭した。1964年、ザ・ビートルズは『エド・サリヴァン・ショウ』に劇的な登場を果たし、これはロック史の画期的出来事となった。リヴァプール出身のザ・ビートルズは、アメリカを魅了したのだ。
ザ・ビートルズと同じく、ザ・ローリング・ストーンズも最初から自分たちで曲を書いていた。ザ・ビートルズとザ・ローリング・ストーンズは、同じロック・ミュージシャンからも影響を受けていたが(ザ・ローリング・ストーンズは初期のレコーディングで、バディ・ホリーのカヴァーを入れていたほどだ)、ザ・ローリング・ストーンズはボ・ディドリーといったブルースのパイオニアからもインスピレーションを得ていた。リード・シンガーのミック・ジャガーは、ブルースの歌唱をロックのスタイルにカスタマイズすることに長けていた。ザ・ローリング・ストーンズは、「Brown Sugar」や「(I Can’t Get No) Satisfaction」といった楽曲で、ロックン・ロールの純粋な興奮を表現し、危険な要素も持ち合わせていた。1963年、メロディ・メーカー誌は記事の中で、「自分の女きょうだいが、ザ・ローリング・ストーンズのメンバーと付き合うのを許すか?」と問いかけたほどである。
インパクトのあるイメージと広告は、常にロックにとって不可欠な存在だった。モンキーズの巧妙なマーケティング手法は、それから数十年後にニュー・キッズ・オン・ザ・ブロックで取られたマーケティング手法と通じるだろう。そして、ビーチ・ボーイズは楽観主義、楽しさ、独立という理想を包含したバンドとして売り出された。彼らは、60年代半ばのティーン市場にうってつけのバンドだった。ブライアン・ウィルソンが歌う曲の中で、サーフ・ボードは、チャック・ベリーの車と同じくらいアイコニックな意味を持っていた。
60年代のブリティッシュ・インヴェイジョンとスウィンギング・ロンドンに対するアメリカ側の回答は、ラヴィン・スプーンフルやバーズ(ロサンゼルスのフォーク・ロック・バンド)だ。さらにこの頃、ボブ・ディランもロックへと転向した。フォーク・ミュージックのリヴァイヴァルの中心人物だった彼は、エレクトリックへ転換し、センセーションを巻き起こしたのだった。
それから間もなくして、サイケデリックなロック時代が始まり、ジェファーソン・エアプレインのようなバンドがサンフランシスコのラヴ・ジェネレーションを代表する声となった。そしてこの時期は、ドアーズのジム・モリソンや、ジャニス・ジョプリンが危険な生き方をして、若くして亡くなるなど、過激な行動の時代でもあった。さらにこの頃は、ザ・ビートルズの『Sgt Pepper’s Lonely Hearts Club Band』やザ・フーとピート・タウンゼントが1969年にリリースしたスピリチュアルで寓話的なロック・オペラ、『Tommy』など、野心的な音楽が制作された。
1960年代が終わると、ロックのオーディエンスは細分化しはじめる(ハードロック・ファンは 後に、ヘヴィ・メタルへと傾倒するようになる)。しかし、そんな中でもメインストリームで活躍し続けたバンドのひとつは、クリーデンス・クリアウォーター・リヴァイヴァル(以下CCR)だ。1969年から1971年の間、彼らはアメリカでも最も人気の高いバンドだった。
CCRはヒット・シングルを量産した。しかし音楽業界は、大金を稼げるのはアルバム・セールスからだということに気づき、レッド・ツェッペリンのようなバンドがコンセプト・ロック・アルバムをリリースする時代に突入する。レッド・ツェッペリンの初期6枚のアルバムは、1500万枚以上を売り上げ、ギタリストのジミー・ペイジは、泣きのギター・ソロでバンド独自のサウンドを確立した。彼らの「Stairway To Heaven(邦題:天国への階段)」は、ロック史に残る重要曲である。
70年代は、シンガー・ソングライターの概念が根づき、ロックも(カントリー、フォーク、ブルースの影響を取り入れると)よりクリエイティヴでリリカルな方向へと進んだ時代だ。ジャクソン・ブラウン、ニール・ヤング、レナード・コーエン、ヴァン・モリソン、トム・ウェイツ、ジョニ・ミッチェルといったアーティストが、後世に残る名盤を次々に発表した。
この時代の重要人物の1人が、ブルース・スプリングスティーンだ。1974年、ローリング・ストーン誌で、ライターのジョン・ランドウは「私はロックン・ロールの未来を見た。その名は、ブルース・スプリングスティーンだ」と高らかに宣言し、この期待に応えなければならなかった。2016年に67歳になったブルース・スプリングスティーンは、現在でも重要人物であり続けている。興味深いことに、コンサート中に即興でメドレーをやる時、彼はいまだにリトル・リチャードやエルヴィス・プレスリー、チャック・ベリーのカヴァーをしている。
‘ボス’の愛称で知られるブルース・スプリングスティーンが名声を確立したのは、ロックから派生した音楽がさまざまな興味深いフォーマットで現れていた時期だ。素晴らしいプログレッシヴ・ロックが続々とリリースされ、プロコル・ハルム、ディープ・パープル、エマーソン・レイク&パーマー、イエス、リック・ウェイクマンといったアーティストは、ディープなファン・ベースを確立していた。デカダンスが再び流行し、デヴィッド・ボウイ、ロキシー・ミュージック、ルー・リードといったアーティストの前衛的な音楽が頭角を現した。
その他に人気だったのは、南部のブギ(レーナード・スキナード、オールマン・ブラザーズ・バンド)、カントリー・ロック(グラム・パーソンズ、イーグルス)LAポップ・ロック(フリートウッド・マック)で、70年代後半のパンク・ロックとニュー・ウェイヴの大流行へと繋がっていく。才能あるバンドが次々と現れ、キャンド・ヒート、スティーリー・ダン、フリーが作った音楽は、人気を博し続けた。
多様な音楽が人気を博した70年代だが、トラディショナルなロックも忘れられてはいなかった。1973年10月、トリビュート・アルバムの名盤がリリースされる。ザ・バンドの『Moondog Matinee』がそれだ。リヴォン・ヘルムとロビー・ロバートソンは、60年代に演奏していた楽曲をカヴァーし、ジュニア・パーカーやサム・フィリップス(「Mystery Train」の作者)をはじめとするロックの始祖たちに敬意を表した。彼らは、あまり知られていないチャック・ウィリスの「What Am I Living For?」までレコーディング。同曲は2001年に再発されたアウトテイク・エディションに収録された。
初代ロッカーを動かしたような緊迫感のあるパワーを欠いてはいたものの、シャ・ナ・ナといったバンドは「Maybellene」から20年後にロックン・ロールのリヴァイヴァルを起こした。創立メンバーのフレデリック・‘デニス’・グリーン率いるシャ・ナ・ナは60年代、コロンビア大学のアカペラ・グループとしてスタートすると、50年代のドゥワップの名曲を歌っていた。1969年、ウッドストックでジミ・ヘンドリックスが伝説的なセットを行う前にステージに上がっていたシャ・ナ・ナの人気は、70年代後半(特に、ロック懐古の風潮から、テレビ番組『ハッピーデイズ(原題:Happy Days)』と映画『グリース(原題:Grease)』が生まれた頃)に復活した。
英国では、ショワディワディというレスター出身のバンド(40年経った現在でも、彼らはいまだにツアーを続けている)が古いロック・ソングをカヴァーし、チャート上の成功を勝ち取った。中でも「Three Steps To Heaven」のカヴァーは、年配の音楽ファンにとって思い出深い1曲だ。これは1960年、エディ・コクランが自動車事故で負った頭部外傷により、21歳の若さで亡くなった後にリリースされた楽曲だった。
80年代に話題を呼んだもう1人の英国人アーティストは、ウェールズの炭坑作業員の息子だったマイケル・バラットだ。彼はシェイキン・スティーヴンスというステージ・ネームを名乗るようになると、「This Ol’ House」、「Green Door」といったロカビリー・ヒットを量産し、80年代に最大のヒットを記録した英国人アーティストとなった。シェイキン・スティーヴンスは2016年9月に、12枚目のスタジオ・アルバム『Echoes Of Our Old Times』をリリースしている。また、シェイキン・スティーヴンスは、MTVは音楽の視覚的プレゼンテーションの重要性を高めたこの頃、ヴィデオの価値を理解するだけの明敏さも持っていた。
過去20年で、多くのバンドがロック・ミュージックの旗を掲げ続けた。アメリカのロカビリー・バンド、ストレイ・キャッツもそういったバンドのひとつだ。彼らの影響は、21世紀にクラシック・ロックを守り続けるミュージシャンの中に見てとれる。例えばイメルダ・メイ。2010年にリリースしたアルバム『Mayhem』では、50年代のトゥワングをリヴァイヴァルしていた彼女、翌年2011年にはジェフ・ベックの『Rock’n’Roll Party』(50年代のロッカー、レス・ポールのトリビュート・アルバム)にゲスト参加した。イメルダ・メイは当初、ストレイ・キャッツのドラマー、スリム・ジム・ファントムが結成したキャット・メンというバンドに在籍していた。
1990年、トーキング・ヘッズのフロントマン、デヴィッド・バーンはこう宣言した。「僕にしてみれば、ロックン・ロールは死んだ。アティテュードは死んでいないが、音楽は生きていない。同じ意味を持たなくなったんだ。それでもアティテュードはいまだ健在だ――そして今でも他の種類の音楽に影響を与えている」。
ロックは確かに生き残っている。YouTubeで見られる白黒の映像や、世界中にある殿堂の記念品以上の存在として生き延びている。ロックはインスピレーションだ。変化に対応しながら生き続ける音楽形態で、プロのバンドから子供たちにまで世界中で演奏されている。
使い捨ての流行りものの音楽スタイルと考えられてきたロックン・ロールだが、計り知れないほどに永続的な文化的影響を与えてきた。デビューから60年が過ぎてもいまだ現役のザ・ローリング・ストーンズもこう言うだろう。「たかがロックン・ロールだが、それでも好きなんだ」。
Martin Chilton