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なぜレゲエがUKで人気になったのか? 多くのミュージシャンと楽曲を紹介

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1948年、第二次世界大戦後の英国国家再建のため、西インド諸島系移民(※カリブ海に位置する英国の[旧]植民地諸国、ジャマイカやトリニダード・トバゴ、バルバドス等の出身者。諸国の多くは1960年代以降に独立)の最初の一団が、英国に到着。その後20年間に渡り、英国に移住する西インド諸島出身者の数は増加を続けていった。

ジャマイカから経済的に明るい未来が約束されている英国に居を定めた人々が直面したのは、寒々しい冬と、そしてほぼ間違いなく、気温よりも冷たい地元住民の対応だ。賃貸住宅の入居希望者の前に“アイルランド人と黒人はお断り”といった看板が立ちはだかるような状況の中では、住む場所を見つけることさえ困難であった。当然のことながら、彼らが国内最大級のコミュニティを築いたのは大都市中心部の低所得地域(インナーシティ)で、その多くが、例えばロンドンのブリクストンやホールズデン、そしてノッティング・ヒル、ブリストルのセント・ポールズ、ノッティンガムのセント・アンズ、リヴァプールのトックステス、バーミンガムのハンドワースといった、衰退傾向にあった中流階級向けの旧居住地区だった。

移民の大部分はジャマイカ出身で、彼らは“シャビーン”と呼ばれるもぐりの酒場で深夜に“ブルース”のダンスを踊るという、独自の文化を英国に持ち込んでいた。時には友人宅の居間がその場所として使われることもあり、仲間同士が集まってドミノで遊んだり、ラム酒を飲んだり、故郷のカリブ海に思いを馳せたり、そして何より重要なことに、最新のアメリカのR&Bに耳を傾けたりしたものだった。

一方故郷ジャマイカの首都キングストンでは、トム・ザ・グレート・セバスチャンや、デューク・リード、サー・コクソン・ザ・ダウンビート、プリンス・バスターといったサウンド・システム(野外パーティーを提供する移動式音響設備/集団)が、家具サイズの巨大スピーカーから、ファッツ・ドミノや、リトル・リチャード、ラヴァーン・ベイカーらの曲を爆音で鳴らしていた。これが契機、そして刺激となり、やがてジャマイカ独特の音楽業界が形成されていくことになる。

そこで台頭してきたのが、互いに競い合いながら独自の音楽を進化させていきたいと考えるアーティストやプロデューサー達だ。スカが誕生すると、それは英国に渡った西インド諸島系移民から成る大規模な海外コミュニティで飛ぶように売れ、熱心なリスナー層を獲得。ブリティッシュ・レゲエ・シーンの先駆者達が地場を固めた原点は、ここにあった。

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英国へと密航したミュージシャン

デューク・ヴィンとカウント・サックルは、1954年、バナナ輸送船に密航して英国に渡った。デューク・ヴィンが持ち込んだ荷物には貴重なレコードを詰め込んだ箱が幾つもあり、1955年にはロンドンのパディントン地区にあったビリヤードの一種のスヌーカー場「サックル・キュー・クラブ」で、 英国初のサウンド・システムを開始。かけていたのはアメリカのR&Bレコードが中心で、それに合わせて踊っていたのは、在英米軍兵士や急増中の西インド諸島系移民の人々だった。

「59」や「ウィスキー・ア・ゴー・ゴー(WAG)」「フラミンゴ」等、ロンドンのウェストエンド地区のクラブは、やがてジャマイカ人のDJ(レゲエでのDJ/DEEJAYはポップスでのラッパー/MCを意味する)、セレクター(ポップスやHIP HOPでのDJのこと)を採用し始め、増加する一方の客を楽しませていた。

 

在英ジャマイカ人による自分たちの音楽

ジャマイカ音楽への愛が育っていくにつれ、英国在住の西インド諸島系の人々の関心の対象はR&Bからスカに取って代わり、間もなく在英ジャマイカ人達は自分達の音楽をレコーディングするようになっていた。

ソニー・ロバーツがプレインストーン・レコードを立ち上げたのは、クリス・ブラックウェルが創設したばかりのアイランド・レコードの拠点と同じ、ラドブローク・グローヴ地区の住所だ。彼は、ダンディ・リヴィングストンを含む、在英ジャマイカ人ヴォーカリストの曲をレコーディング。今や伝説となっているトロンボーン奏者リコ・ロドリゲスは、ピアノにジャッキー・エドワーズ、サックスにマイク・エリオットとラヴェット・ブラウンを擁したコンボを結成した。

巨匠ギタリストでザ・スカタライツの創設メンバー、アーネスト・ラングリンは、新たに英国に渡って来たミュージシャン達の筆頭格で、1964年にアイランドからリリースされたジャマイカ出身のシンガー、ミリー・スモールのヒット曲「My Boy Lollipop」ではアレンジと演奏を担当している。同曲は全世界で700万枚以上を売り上げた。

My Boy Lollipop

ジャッキー・エドワーズは、クリス・ブラックウェルのアイランド設立を手伝っていたが、同レーベル初期のヒット曲のひとつとなったのが、ジャッキー・が作曲を手掛けたスペンサー・デイヴィス・グループの「Keep On Running」だ。また、キューバ生まれの歌手兼ピアニストのローレル・エイトキンは、やがて時代を代表するスターの1人となる運命にあった。

Keep on Running

 

様々なレーベルと多ジャンルからの邂逅

そのような音楽に対する需要の大きさから、英国では複数のレーベルが設立された。有名なエミル・シャリット主宰のブルー・ビートを始め、スターライト、パマ・レコード、リタ&ベニーのアイゾン夫妻が運営するR&Bレコード、またそこから数多くのレーベルが派生。英国が生んだ才能あるアーティスト達の作品だけでなく、多産なジャマイカ発の音源を、当時増加の一途をたどるレコード購買者層に向けてリリースするようになった。

都心部のクラブでは、西インド諸島系の若者達と同年輩の白人達が接触。特にモッズは、西インド諸島系の人々のシャープなスタイルや、生き生きとした音楽のセンスに惚れ込んだ。スカが速度を落としてロックステディとなり、その後レゲエに変化すると、英国の若者達のジャマイカ音楽に対する愛情は益々強まっていった。

1968年以降に登場した“スキンヘッズ”達は、新形態のジャマイカ音楽を喜んで受け入れた。ドクターマーティンの靴にサスペンダー、クロンビー・コートに身を包み、頭を剃り上げたこの一派は、マックス・ロメオの「Wet Dream」や、当然ながらシマリップの「Skinhead Moonstomp」といった曲を愛聴。

ブリクストンを拠点とするプロデューサーのジョー・マンサーノは、スキンヘッドのアンセム「Brixton Cat」と「Skinhead Revolt」を手掛けた。また、ブリクストン・ホット・ロッド・サウンド・システムのオーナーだったランバート・ブリスコーは、「Skinhead Speaks His Mind」と「Skinheads Don’t Fear」でローカル・ヒットを飛ばしている。

Skinhead Moonstomp

 

 

より大きな広がりと結集して抗議すべき苦難

ルーツ/ロック・ラスタ・レゲエは、70年代初頭からジャマイカ島で盛り上がりを見せており、1972年にはアイランド・レコードがボブ・マーリーと契約。レゲエを世界中のロック・オーディエンスに広めるという点で、計り知れないほどの成功を収めた。ザ・ローリング・ストーンズからエリック・クラプトン、ロバート・パーマー、そしてポリスに至るまで、彼らは皆レゲエを愛し、自身の作品でそれを真似ていた。

このジャマイカの偉大な音楽は驚異的な作品をリリースし続けていたが、ストライキや停電、そして高まる一方の失業率に不満を抱いていた英国の若者達は、やがてラスタファリ(*ジャマイカの労働者階級と農民を中心にして発生した宗教的思想運動)に耳を傾け始めていく。

1970年代になると、それはマリファナで朦朧としている学生達の部屋からも、そしてより意味深いことに、西インド諸島系移民2世の家庭からも、同じ位の大音量で聞こえてくるようになった。キングストン西部のゲットーとは大きく異なるものの、英国都市部の低所得地域もまた、自由への闘いという道徳哲学や、ジャマイカのラスタの闘志に真実味を感じる世代を抱えていた。英国は、結集して抗議すべき苦難と不寛容に溢れていたのである。

また、この頃起きていたのが、スタジオ・セッションのバンドが奏でるリズムに乗せて、歌手やDJ(DEEJAY)が歌を聴かせるという形式からの転換だ。英国ではミュージシャン達の一団が集まって、バンドとして一緒にギグを行うようになっており、彼らにとってはこれが前に進むための新たな一歩であった。

 

70年代UK発のレゲエ

ウィンストン・リーディーを擁したロンドンのザ・シマロンズは、厳密な意味で、英国初のレゲエ・バンドであった。彼らは60年代、ジャマイカから来英したアクトのバック・ミュージシャンとして出発したが、1970年代には独立したアクトとして精力的な活動を継続。彼らがリリースした『On The Rock』は間違いなく、70年代UKレゲエ・アルバムの最高傑作の1つである。

THE CIMARONS – ON THE ROCK – 1976

偉大なるデニス・ボーヴェルが率いていたマトゥンビもまた、輝かしい躍進を遂げたアクトのひとつだ。彼らは1976年にボブ・ディランの「Man In Me」の粋なカヴァーと、ラヴァーズ・ロック曲「After Tonight」により、全英チャートで成功。このバンドはセッション・ミュージシャンとしても精力的に活動しただけでなく、英国のダブ詩人リントン・クウェシ・ジョンソンの名作アルバムのプロモーション及び共同プロデュースも手掛けていた。彼の『Bass Culture』と『Forces Of Victory』は、両作共に必聴のアルバムとなっている。

Matumbi – Man in Me

ザ・ウェイラーズからの影響と、慣習化された偏見が相まって大都市中心部での生活が困窮を深めていたことから、1970年代半ば頃にはUKにてルーツ・バンドが増加。ハンズワース出身のスティール・パルスはその実力に相応しい国際的な成功を収め、デビュー・アルバム『Handsworth Revolution』の真情溢れる社会的・音楽的ヴィジョンにより、大物達と肩を並べるまでになった。

Handsworth Revolution

英国の各大都市には、それぞれ地元を代表するルーツロックレゲエ(ルーツ)の闘士達がいた。中西部ウォルヴァーハンプトンにはキャピトル・レターズが、南西部ブリストルにはブラック・ルーツがおり、ロンドン西部郊外サウソールには反人種差別主義運動家のミスティ・イン・ルーツがいた。ミスティ・イン・ルーツは、西インド諸島出身者と白人ロック・ファンの両方から大きな支持を獲得。ラジオDJのジョン・ピールやデヴィッド・ロディガンは彼らの売り込みに力を注いだ。

ミスティ・イン・ルーツは、70年代後半に開催された反人種差別運動にとって重要なフェス、ロック・アゲインスト・レイシズムに、複数のパンク・バンドと共に出演。 同フェスでは、ネオナチ極右団体ナショナル・フロントに立ち向かうため、ザ・クラッシュやザ・ラッツといったレゲエに影響を受けたパンク・バンドが、ブリティッシュ・レゲエ・バンド勢と手を組んだ。

西ロンドン出身のアスワドは、1975年の結成以来、UKシーンに欠かせない存在となっている。彼らが世に送り出してきた数々の傑作の中でも、アルバム『New Chapter』と、特にそのダブ姉妹盤『A New Chapter Of Dub』は、彼らのルーツの証明となっている。彼らには素晴らしいホーン・セクションがあり、1983年のライヴ・アルバム『Notting Hill Carnival Live And Direct』を聴けば、自分もその場にいられたら良かったのにと強く思わずにはいられない。

Not Guilty (Live)

ヴォーカル担当のブリンスリー・フォードが役者として、70年代後半〜80年代初頭のロンドンの厳しい現実を描いた映画『バビロン』で見せた演技力も、ぜひチェックしていただきたい。あらゆる形のレゲエをこなすことが出来たこの多才なグループは、英国で発展したジャンルである“ラヴァーズ・ロック”にうってつけであった。

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ラヴァーズ・ロック現象の原点は、マトゥンビがバックを務め、UKサウンド・システムの巨匠ロイド・コクソンがプロデュースを手掛けたルイーザ・マークのカヴァー曲「Caught You In A Lie」だったと言う人もいるだろう。フィラデルフィア・ソウルの名バラードをカヴァーした、太いレゲエ・ベースラインが唸る同曲は、当初、都市部低所得地域のティーンエイジャー向けであるように思われた。しかしその魅力は、広範囲に伝播。ラヴァーズ・ロックという英国発のレゲエ・ジャンルは次々と成功を収め、シュガー・マイノットなどのアーティストによってジャマイカに逆輸入された。

Caught You in a Lie

ジャネット・ケイや、キャロル・トンプソン、3人組のブラウン・シュガー(後にソウル・II・ソウルで名声を博す、キャロン・ウィーラーが在籍)を含む女性歌手達は皆、大ヒットを記録。元シマロンズのウィンストン・リーディーは、ラヴァーズ・ロックの曲で再び勢いを盛り返した。

そしてトレヴァー・ハートリーや、ヴィヴィアン・ジョーンズ、そしてもちろんマキシ・プリーストを含む、他の英国出身の熱心なラヴァーズ・ロック信奉者達もまた、英国で築いたキャリアを80年代に向けて拡大し続けていった。

 

80年代以降のUKレゲエ

80年代への変わり目、ブリティッシュ・レゲエはジャマイカン・レゲエ同様、再び変化の時を迎えた。今回は、よりDJ/ラッパー/MC中心の、ダンスホールやラガマフィン・スタイルへ。新たな音楽スタイルの出発点かつ中心地となったのは、かつても今も、(ダンス・ミュージックにとってのナイトクラブのように)サウンド・システムである。

特に80年代のUKシーンを支配していたのは、サクソン・サウンド・インターナショナルで、ここからいわゆる“ファスト・チャット/早口”なMCスタイルが、スマイリー・カルチャーや、パパ・リーヴァイ、ティッパ・アイリーらによって磨き上げられた。マキシ・プリーストの原点もサクソンにあり、彼らのキャリアがサウンド・システムを出発点に発展していったことは、誰の目にも明らかだろう。

ファッションや、マッド・プロフェッサーのアリワといった英国のレーベルは、そういった新たな才能の試演の場となった。 80年代が終わりを迎え、90年代に入る頃には、更に多くのMCが登場。特に注目に値するのが、ジェネラル・リーヴィとアパッチ・インディアンだ。

Apache Indian – Boom Shack-A-Lak (Stereo)

マッド・プロフェッサーやエイドリアン・シャーウッドら、UKダブの達人達は、優れたルーツ・ダブを生み出し続けると共に、レゲエに関する文化的なもの全てを復興・促進。マイティ・ジャー・シャカはずっと第一線にあり、チャンネル・ワンやアバ・シャンティー・アイのようなサウンド・システムは現在もダンスホールを埋め尽くしている。

21世紀に入っても、ダブステップであれ、ジャングルであれ、グライムであれ、ドラムンベースを土台にしたあらゆるものに対する関心が絶えることはなく、遠く離れた小さなカリブ海の島に起源を持つ音楽に対する英国の熱狂は続いている。偉大なロックステディ・バンド、ユニークスの元メンバーであるロイ・シャーリーは、1973年から英国に定住しており、かつてはストーク・ニューイントンでレコード店を開いていた。1970年のドキュメンタリー『Aquarius』に出演していた彼は、そこでこの音楽をこう総括している。

「レゲエとは、立ち上がって踊りたくなる音楽で、そこではリズムと、ブルースと、そしてスピリチュアルな太陽の光が混ざり合っているんだ」

Written By Pablo Gill


ボブ・マーリー&ザ・ウェイラーズ
『One Love: Original Motion Picture Soundtrack』
2024年2月9日配信
日本のみフィジカル(CD、LP)発売
CD&LP / iTunes Store / Apple Music / Spotify / Amazon Music / YouTube Music


映画情報

『ボブ・マーリー:ONE LOVE』

2024年5月17日日本劇場公開決定
公式サイト / X

■監督:レイナルド・マーカス・グリーン(『ドリームプラン』)
■出演:キングズリー・ベン=アディル(『あの夜、マイアミで』)、ラシャーナ・リンチ(『キャプテン・マーベル』)
■脚本:テレンス・ウィンター(『ウルフ・オブ・ウォール・ストリート』)、フランク・E ・フラワーズ、ザック・ベイリン(『グランツーリスモ』)、レイナルド・マーカス・グリーン
■全米公開:2024年2月14日
■日本公開:2024年
■原題:Bob Marley: One Love
■配給:東和ピクチャーズ
■コピーライト:© 2024 PARAMOUNT PICTURE



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