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POP:世界でもっとも重要なアート・フォーム
トム・ストッパードの戯曲『The Real Thing』に、素晴らしく面白い一場面がある。博識な脚本家であるヘンリーという登場人物は、BBCラジオの番組『Desert Island Discs』(訳注:1942年から放送。ゲストが無人島に持っていく8枚の音楽を選ぶ番組)のためにお気に入りの音楽を選ぶよう依頼された。ヘンリーは、リスナーにリスペクトされるようなタイプの音楽を選ぶべきか、それとも正直に自分が大好きなポップ・ミュージックを選ぶべきか、ジレンマに陥る。「交響曲とジャネット・ベーカーの間にピンク・フロイドを差し込んでみようか」ヘンリーは悩む。「新鮮なテイストを披露することができる。少なくとも、気取ってるとは思われないだろう。でも、僕が好きなのはウェイン・フォンタナ&マインドベンダーズがウムウムやってるやつなんだ」
イメージが重要な業界において、ポップ・ミュージックは問題を抱えている。多くの批評家が見下し、ポップ・ミュージック系のファンでさえ、ある種のポップ・ミュージックには価値がないと考えている。無価値もしくは、音楽と考える価値はない、アートだなんてとんでもないと――。しかし、これは何も新しいことではない。ポップ・ミュージックが誕生したときからそうだ。過去を振り返れば、可哀そうなポップ・ミュージックがどれだけ、虐められ、軽くあしらわれ、冷笑されてきたかわかるだろう。“これはアートじゃない。ただのポップだ”と。
[layerslider id=”0“]ポップ・ミュージックは芸術なのか、判断するためには、まず、ポップ・ミュージックとは一体何なのか理解する必要がある。そして、この最も基本的なスタートが最も議論を呼ぶところだ。ある人たちは、ポップ・ミュージックは使い捨てだと考えている。彼らは、よくわかっていない(と彼らが考える)ティーンエイジャー(または若者)向けに大企業がこしらえた商業的な音楽だと思っている。彼らは、ポップには、“ロック”“フォーク”“ジャズ”“インディ”のように、ジャンル分けのラベルを貼る価値がないと考えている。 彼らにとって、ポップは、自尊心のない音楽ファンが聴く最も低俗なもので、しかし基本的には、ポップそのものを1つのジャンルとして捉えている。他の人たちにとっては、ポップは、 フランク・シナトラ からエルヴィス・プレスリー、ザ・ビートルズ、マドンナまで、お馴染み(ときにアンダーグラウンド)のスタイル全てを示すものかもしれない。他にも、クラシック以外の音楽は全てポップだと、より広い解釈を持つ人たちもいるかもしれない。さらには、“ポップ”を音楽と見なしていない人たちもいる。こうなると、グルグル回るだけなので、“ポップ・ミュージック”という懸念の歴史に目を向けたほうがよさそうだ。
人類は誕生したときから、音楽を作ってきた。いや、その前からだ。1995年にスロヴェニア北西部の洞窟で発見された笛は4万年も前のものだった。ネアンデルタール人によって作られたものなのか、クロマニヨン人によってなのか、議論は続いているが、我々――もしくは祖先がどれだけ長く音楽を楽しんできたかがわかる。時代が変わり、人々がより洗練されるにつれ、当然、音楽のスタイルは変わった。声の出し方、新しい楽器やその演奏法がいまでも発明され続けている。
人類の歴史のどの地点で、音楽は“ポップ”になったのだろうか? ポップはそもそも、 “ポップ・ミュージック(人気のある音楽、大衆の音楽)”を縮めたものだ。世代や社会を問わず好まれたサウンドだ。テューダー朝やスチュワート朝の時代、人気があった吟遊詩人が歌うブロードサイド・バラッドは、歴史家たちからしばし“初期のポップ・ミュージック”と表されている。この下品でコミカルでセンチメンタルな詩は五線紙に印刷され、街中で売られた。地主階級だけでなく農民の間でも人気となった。ヴィクトリア時代には、人々はドイツ生まれの作曲家ジュリアス・ベネディクトの公演を楽しむようになり、これはロンドン・ポピュラー・コンサートと呼ばれていた。“ポップ・ソング”という表現は少なくても100年前に使われていた。
しかしながら、大半の音楽史研究家は、我々も承知している通り、ポップ・ミュージックはレコーディング業界と共に始まったと考えている。カスタマーが選択しやすくするため、レコード会社は音楽をジャンルごとに色分けした。例えば、戦後すぐのRCAビクターは、クラシック音楽は赤、カントリーとポルカは緑、子供向けは黄色のアナログ盤にプレスしていた。黒は、一般のポップ――いろいろなものを含む:要するに“そのほか全て”――に当てられた。
もちろん、ポップ・ミュージックの定義は、時間や場所により変わり、多くの音楽スタイルが、その起源によりジャズ、ブルース、カントリーなどとジャンル分けされた。今日、 ルイ・アームストロング や エラ・フィッツジェラルド といった初期のジャズ・ミュージシャン、 ジョン・コルトレーン、 ソニー・ロリンズのようなビバップ・ミュージシャンは、第一級のアーティストだと認められている。 しかし当時、批評家たちはこれらの新人たちに眉を顰め、けたたましいホーンで動き回ることや、楽譜通りにではなく即興で演奏する彼らに懐疑的だった。
ハウリン・ウルフ、マディ・ウォーターズ、サニー・ボーイ・ウィリアムソンといったブルースのミュージシャンも同じで、音楽的に劣ると考えられただけでなく、人種により分断されていたアメリカでは平等に扱われることさえなかった。いまでは、彼らの作品はスミソニアン博物館や議会図書館で祭られている。
ポップ・ミュージックが、それ自体で何か意味を持つようになり始めたのは50年代半ばだった。ロックンロール・ミュージックの台頭で、ポップ・ビジネスは帝国を築き上げた。NYの伝説のブリル・ビルディングにいたソングライターたちは、彼らの芸術を創り出した。フィル・スペクターに代表されるプロデューサーたちの助けを借り、絶頂期のワグナーのように豊かにサウンドを重ねた3分間のポップ・シンフォニーを続々と世に送りだした(次の時代には、ブライアン・ウィルソンが、そのフィル・スペクターの様式を押し広げた。1966年の『Pet Sounds』はウィルソンと ビーチ・ボーイズ両方にとって創作面の頂点だった)。
しかし、ザ・ビートルズが登場するまで、ポップは知的レベルでは批評家たちから無視され続け、音楽誌は、すでに認められている音楽の情報を伝えるためだけに存在していた。ところが、1963年、著名な音楽評論家ウィリアム・マンが、The Times紙でザ・ビートルズについて、それまで芸術品にのみ使われていたマナーでこう記したのだ。「ハーモニーとメロディの調和が取れているとの印象を受けるだろう。「Not A Second Time」のエンディングは、長調の7度の和音と9度の和音がしっかり組み込まれ、半音下がる低中音域の転換もアイオリス風の旋律となっている(マーラーの「Song Of The Earth(邦題:大地の歌)」のコード進行と同じだ)」彼は“沈痛な音楽”“全音階を網羅する一団”と称し、ジョン・レノン とポール・マッカートニー を“シューベルト以来の偉大なソングライター”とまで言い切った。それまでポップ・ミュージックのファンではなかった人たちは姿勢を正し、それを真摯に受け止めた。多分、まだ芸術と呼ぶには早すぎるが、少なくとも、よりトラディショナルな芸術品と同じ批評・分析が適用されたのだ。
しかし、ザ・ビートルズは確かにポップ・ミュージックの中で何か新しいものを創り上げようとしていたが、ポップ・ミュージック自体が芸術の域に達したわけではなかった。ただ、もう無視はできないほどの騒ぎになっていた。ポップは広く浸透したように見えた。知らぬふりはできないほどに…。
それからの2~3年、ポップはこれまでになく芸術と一体化した。ザ・ビートルズからザ・ローリング・ストーンズ、ザ・フー、デヴィッド・ボウイ、クイーン、 R.E.M.、ブラ―、パルプ、 レディー・ガガ ら多くの偉大なポップ・アーティストが、アート・カレッジの出身だったり、そういったバックグラウンドを持つことを思い出して欲しい。戦線が張られたのだ。60年代半ばのポップのエリートにとって、オーディエンスは味方か敵だ。ボブ・ディランのファン、彼の政治的なプロテスト・ソングを愛していた知的な学生たちは、ディランがアコースティックからエレクトリック・ギターに転向するという“裏切り”を目にし、衝撃を受けた。不満を持つファンの1人、キース・バトラーが、1966年5月にマンチェスター・フリー・トレード・ホールで開かれた公演の最中、彼に向かい“ユダ”と叫んだのは有名だ。ディランは「お前のことは信じない」と、軽蔑したように返した。公演の後、取材を受けたバトラーは「こんな馬鹿げたことをやっていいのは、いまいましいポップ・グループだけだ!」と話したという。この言葉には、ファンは芸術的価値のあるものを観に来たのであって、ポップ・ミュージックではないという意味が含まれていた。しかし、彼らは変わるときだった。
ポップ・アルバムそれ自体が、アート・フォームだと考えられるようになりつつあった。アーティスト達は彼らの作品のどの側面にも目を配り、アルバム・カヴァーは単なるきれいなパッケージではなく、それ自体がポップ・アートの域に達した。バンドやシンガーはトップクラスのフォトグラファーやグラフィック・デザイナーを雇い、レコード・スリーヴを創り、芸術的なプロモーション・ビデオを制作するためフィルムメーカーを雇った。アートの世界と手を組んだ、多分最も明白な例が『Sgt. Pepper’s Lonely Hearts Club Band』だ。ザ・ビートルズはこのカヴァーのために、尊敬されるポップ・アーティスト、ピーター・ブレイクを雇った。さらに興味深いのが『The Beatles』こと通称‘ホワイト・アルバム’だ。このカバーのアイディアは、マッカートニーがもう1人の著名なポップ・アーティスト、リチャード・ハミルトンと話していて思いついた。ハミルトンはアルバムに付随したポスターをデザインすることになった。
ようやく、ポップは、自分たちは似た考えを持っているとアートの世界を納得させた。しかし、それは受けいれられつつも、奇妙なことが起きた。1967年にRolling Stone誌が創刊され、ポップに対するシリアスな批評がなされ始めた。そうは呼ばれず、ロック批評と呼ばれてはいたが――。“ポピュラー”の略ポップ・ミュージックは、あらゆるものを詰め込むことができ、スタイルがあいまいなものを包括するのに使われたことを思い出して欲しい。フランキー・ライモン&ザ・ティーンエイジャーズのドゥー・ワップも、エルヴィス・プレスリーやリトル・リチャードのロックン・ロール、ビリー・J・クレイマー&ザ・ダコタスもしくはザ・サーチャーズのマージービート、リッチー・ヴァレンスやディオンといったアイドルまでもが、その中にいた。しかしいま、ロック(ンロールではない)は突然離脱し、ポップと距離を置き、自分たちはもっと上のレベルだという態度を取り始めた。1968年になると、ロック派(ザ・ローリング・ストーンズ、ザ・ドアーズ、ピンク・フロイド、ジミ・ヘンドリックス)か、ポップ派(クリフ・リチャード、ルル、デイヴ・ディー・グループ)に分かれた。ロックは、その専門誌、レビュー、文化人を持った一方、ポップは子供や退屈な人向けと考えらえた。ポップがようやくアートだと認められてから、内部でクーデターが起き、子供向けの売り場に追放されるまで、あっという間だった。
どの芸術にも俗物は存在する。その点はポップも同じで、批評家(多くのファンやアーティスト自身は言うまでもなく)は、芸術的(ロック)と商業的(ポップ)の間に線を引こうとした。一方、分類されるのを嫌がるアーティストもいた。実際、どのアートでもそうだが、いいポップ・ミュージックと悪いポップ・ミュージックがある。60年代後半は――いまもそうだが――どうしてそれが良くて、それ以外は悪いのかを説明するのは難しかった。ロックとポップの境界線を交差したアーティストのいい例が、マーク・ボランだ。彼のティラノザウルス・レックスは興味深いバンドで、明らかに商業的なポップよりロックの境界に近く、批評家だけでなく、ヒッピーや美術学生をも魅了した。しかし、ボランがディランの道を歩み、エレキのためにアコースティック・ギターを捨て、バンドの名前をT・レックスと縮めたとき、スティーヴ・トゥックとの関係は終わった。その結果、ポップ・シングルづくしとなり、ボランはビートルマニア時代以来の人気を誇るブリティッシュ・アーティストとなった。その新しいマニアを呼ぶT・Rextacyというの言葉までできた。ポップではあるが、間違いなくアートで、極めて、非常に良かった。
スウェーデンのユーロヴィジョン・コンテストの優勝者アバ は、もう1つの興味深いケース・スタディだ。ポップの世界において、毎年ヨーロッパで開催されているこのソングライティング・コンテスト以上に芸術からかけ離れているものがあるだろうか?アバのレコードはとんでもなく売れた。普段はポップ・チャートに注意を払わない人たちが、彼らの上質なポップに恋に落ちた。スウェーデンのファブ・フォーとユーロヴィジョンは切り離されてもいいはずだった。いま、彼らはポップ・ミュージックを新しいレベルに押し上げたと称賛されている。
70年代は、若いポップ・ファンから俗物非難の声が上がった――特に、プログレッシヴ・ロックの世界から出てきた知性をひけらかす人々へ向けて――。1976年、これらの声は唸り声となり、パンク・ロックが爆発的な勢いでシーンに登場した。パンクは、ポップ・ミュージックが知的で高度な技術の台頭により消え失せようとしているのを拒み、大衆のためにそれを取り戻そうと固く決意していた。ポップはみんなのものだった。才能あるなしにかかわらず。1950年代終わり国中で誕生したスキッフル・グループは、ザ・ビートルズやストーンズからアニマルズ、キンクスなどのバンドの波を促したが、パンクはギターが弾けるようになることより、外見や言動、表現が要だった。どちらのシーンも英国の美術学校で注目された。
ポップの成功の秘訣はいつだってイメージだった。青い目のハンサムなシナトラから、エルヴィスの危険なセックス・アピール、デヴィッド・ボウイの中性的な魅力、アーティストがどのように自己アピールするかもプロダクトの一部だ。当然、重要なのは音楽だが、ポップではヴィジュアルも大きな影響力を持っている。繰り返される “ポップはアートなのか?”議論には“はい”に丸をつけるべきだろう。しかし、アートの世界がポップ・アート・ムーヴメントに共感しようとも、どんなにいい作品であれ、アーティストが、ポップのパッケージをギャラリーに展示することはなかった。なぜならば――ザ・フーのピート・タウンゼントは1965年、Melody Maker誌にこう話している。「俺は、視覚効果を狙って、ギターをスピーカーに叩きつける。すごく芸術的だ。素晴らしいサウンドが出て、素晴らしい効果だ」
パンク後のポップの世界は、80年代初め、これと同じアイディアを受け入れた。アーティストはそれぞれ個性的なファッションでアピールし、ポップ・グループはこれまでになく輝いた。メイクとドレスという衝撃的な外見のボーイ・ジョージ、ミニ・ムービー風のポップ・ビデオとキャラクターを取り入れたアダム・アント、シェフィールドの失業者だったABCのマーティン・フライはゴールドのラメのスーツを着て現れた。ヒューマン・リーグやソフト・セル、デュラン・デュランといったニュー・ロマンティックとニュー・ウェイヴのアーティストも音楽を強化するため、イメージを有効的に使った。その後数十年に渡り支持されることになる豊かでバラエティに富んだポップ・シーンが創られた。
その一方で、アメリカのスター達は、自らがそのアート性をコントロールするのを確実にするために、自らの見せ方をあらゆる視点からもコントロールしていた。マイケル・ジャクソンのビデオはハリウッドと貼るぐらいのとてつもない予算を使ったことで伝説になっているし、 マドンナは、性的な雰囲気が漂うパフォーマンスで自らのステージを歌劇場で見るようなパフォーマンスに進化させた。
この青写真に続いたのが、2008年にリリースしたデビュー・アルバム『The Fame』で世界的なスーパースターになったレディー・ガガだった。ニューヨークのティッシュ・スクール・オブ・ジ・アーツの元学生、ガガは、ポップの感覚を持つアヴァンギャルドなエレクトロニックとボウイ/ボランのグラムの要素を加えた音楽に、きらびやかで刺激的なヴィジュアルという完全パッケージで自身をアピールした。彼女はこう説明している。「私はいつだって、歩く芸術作品よ。私の野望と夢は、ファンがそういう風に自由に人生を送れるよう、インスピレーションになること」
この何十年かで、ポップの定義は、挙げれば切りがないほど変わってきた。勢いがあるときは、みんなが付き合いたがった。そうじゃないときは、アーティストは距離を置こうと努力してきた。ご存知のとおり、ポップは“ポピュラー”を意味するが、ポピュラー音楽のスタイルをも意味する。この言葉はしばし、膨大な予算のもと作られ、商業的に成功することを狙った、大衆受けする音楽を指すときに使われる。この商業的成功が、自身の音楽をアートだと考えている純粋主義者から敬遠された。80年代、ロック・ファンは使い捨てだと見ていたポップから距離を置いた。彼らが愛するバンドも、イメージや派手さなど、敵とみなしていたものと同じ手法を多用していたにも関わらず――。
ポップとは実際何なのか、その答えはその人によって違ってくるだろう。多くの人がモータウンはソウルだと思っているが、ソウルの純粋主義者にとって、モータウンはソウルではなくポップだ。モータウンは下に見られることがある。ビジネスマンのようなボス、ベリー・ゴーディがヒットを大量生産していたからだ。しかし、70年代初めスティーヴィー・ワンダー や マーヴィン・ゲイといったモータウン・アーティストは、自分の作品をしっかり管理していた。ゲイの『What’s Going On』、ワンダーの『Music Of My Mind』は、メンフィスもしくはマッスル・ショールズから出てきたものと同等にソウルフルだった。同時に、彼らは史上最高のポップ・レコードも残した。
アイザック・ヘイズ、ステイプル・シンガーズ、故オーティス・レディングのホーム、偉大なソウル・レーベル、スタックス・レコードは、“ブラック・ウッドストック”ことワッツタックス・フェスティヴァルの開幕に、ジェシー・ジャクソン牧師を招待した。彼は一体感を持つ観客にこう話した。「美しい日だ。新しい日だ。我々は一緒だ。我々はひとつだ。全ての面で一致している。なぜなら、我々はひとつでパワーを持つから」彼は、音楽をメタファーに使い、こう続けた。「今日のこのプログラムで、我々はゴスペル、リズム&ブルース、ジャズを聴く。これらはすべて単なるレッテルに過ぎない。我々は、音楽は音楽であることを知っている」
何と呼ぼうが、音楽は変わらない。それをどう解釈するかに過ぎない。そして、それは自分自身を反映する。ポップに価値はないとはねつける人々は、ストッパードの戯曲に出てくる脚本家と同じで、ポップ・ミュージックなんて子供っぽいものより自分は上だと思われたい気取り屋なのだろうか?
『The Real Thing』のヘンリーは、こう嘆く。「フランス人の実存主義者に彼らがどこで間違ったか指摘する一方で、クリスタルズが「Da Doo Ron Ron」を歌っているのを聴いているって明かしたら、僕は嫌な奴に見えるんだろう」