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ピッチ・パーフェクト: ヴォーカル・グループの系譜
およそ楽器というものが造り出される遥か昔、美しい音楽を作るために使われたのは人間の声だった。詩人のヘンリー・ワーズワース・ロングフェローが、歌うことの素晴らしさを「人間の声とは何と美しいものだろう/これぞまさしく魂の器官である……決して尽きることのない泉のように、後から後から溢れだすのだ」と手放しで称えたのも頷ける。
仲間と一緒に歌いたいという思いの起源は、実に人類が洞窟で生活していた時代に遡る。この喜びに満ちたプロセスは、中世からルネッサンス期を通り、ヘンリー・ロングフェローの生きた19世紀を経るまでに着々と変化と進化を遂げる。この時代、卓越した音楽を聴く主な手段は教会だった。確かに、アカペラ・ミュージックの始まりはグレゴリアン・チャントであり、“アカペラ(a cappella)”という言葉自体、イタリア語の“教会式のスタイルで(in the style of chapel)”という意味なのだ。
アフリカから北米の植民地へ、労働力として強制的に連れて来られた奴隷たちは、彼ら自身の音楽的伝統を携えていた。アフリカン・アメリカン・ミュージックの初期のスタイルには、スピリチュアル(ヴォーカル・ハーモニーを使った宗教歌)やフィールド・ソング(農作業中に口ずさむ耕作歌)も含まれている。これらのワーク・ソングはキツい重労働の際、身体の動きに合わせて歌われていたものだった。奴隷たちの中には、先導役となる歌い手のフレーズを追いかけて他の歌い手たちが呼応する“コール・アンド・レスポンス”式で歌う者たちもいた。このスタイルが非常に効果的に活かされたのが、レイ・チャールズが一躍その名を知られるきっかけとなった1959年の「What’d I Say」 である。
[layerslider id=”0“]アフリカン・ミュージックはヨーロッパ大陸から北米にやって来た白人たちの民俗音楽(ルビ:フォーク・ミュージック)と融合し、やがてブルース――特にヴォーカル入りのカントリー・ブルース――を始めとする新たなスタイルの音楽を生み出した。中でも代表的な19世紀のヴォーカル・グループが、フィスク・ジュビリー・シンガーズである。彼らは1871年、テネシー州ナッシュビルのフィスク大学で、進歩的な考え方の持ち主だった大学の会計係、ジョージ・L.ホワイトによって結成された。
彼らは最も古く、最もよく知られたブラック・ヴォーカル・グループのひとつであり、当時教会の外では殆ど聴く機会のなかった奴隷たちによるスピリチュアルの先進的なパフォーマンスで大いに名を挙げた。彼らはアメリカとヨーロッパをツアーして回り、1873年にはヴィクトリア女王の前で歌う機会も得た。彼らがブリティッシュ・カルチャーに対して及ぼした影響は非常に息が長く、1909年にフィスク・シンガーズがレコーディングしたアフリカン・アメリカン・スピリチュアルの「Swing Low, Sweet Chariot」は、非公式ではあるが誰もが知るイングランド代表ラグビー・チームのアンセムとなっている。喜ばしいことに、このグループは現在も活動を続けており、2008年にはブッシュ大統領(当時)からNational Medal Of The Arts[訳注:日本の芸術勲章に当たる、アメリカ最高峰の芸術賞] を授与された。
フィスク・ジュビリー・シンガーズが台頭してきた当時(彼らはユリシーズ・S.グラント大統領[訳注:米国第18代大統領。南北戦争時の北軍の将軍として名高い]のために歌ったこともある)、アメリカではゴスペル・ムーヴメントが巻き起こっていた。“ゴスペル・ソング”という呼び名が初めて公式に登場したのは 、1874年のフィリップ・ブリスの著作である。この福音伝道師は伝統的な賛美歌唱法から派生した新しいスピリチュアル・ソングのジャンルを言い表すために“ゴスペル”という単語を使ったのだった。20世紀初頭、何百というゴスペル・ミュージックの音楽出版社が設立され、1920年代のラジオの普及と共に、この音楽のオーディエンスは急速に膨れ上がった。第二次世界大戦後には、世界的スターとなったマヘリア・ジャクソンに代表される、際立って表現力豊かなシンガーたちの登場で、ゴスペル・ミュージックはいよいよメジャーな音楽ジャンルへと発展していった。
もうひとつの長い伝統を持つヴォーカル・スタイルは、バーバーショップ・カルテット・ミュージック(無伴奏の男性四重唱)である。そのルーツは単にノーマン・ロックウェル(*1)の描くお決まりのアメリカ中産階級に留まらず、様々な影響のるつぼだった――新世界(=アメリカ大陸)にやって来た移民たちが、賛美歌や詩篇歌[訳注:ギリシャ正教における賛美歌]、そしてミンストレル・ショウ(*2)のレパートリーを持ち寄り、それが思い思いに街角に集い、グループで声を合わせて歌う(ゆえにcurbstone[縁石の、街頭の=転じて「アマチュアの」という意味になった] harmoniesと呼ばれることもあった)行為に発展したのである。“コードを鳴らす”密集和声[訳注:全員の立ち位置が極めて近い]カルテットと“バーバーショップ”・スタイルは、初めジ・アメリカン・フォーやザ・ハムタウン・ステューデンツといった1870年代の南部黒人カルテットを連想させるものだった。20世紀に入ると、殆どの床屋が自前のカルテットを抱えるほどになっていたようだ。「Play That Barbershop Chord」という曲が出版された1910年以降、この呼び名は一気に広まった。
バーバーショップ・ミュージックの人気には浮き沈みがあったものの、そのスタイルは時代を超えてひとつの音楽の形として脈々と受け継がれ、後世に影響を与えるほどのヴォーカル・グループ結成の一因となることもあった。かの有名なミルス・ブラザーズ(彼らについては更に後述する)が最初に和声を学んだのは、彼らの父親が経営するオハイオ州ピカの床屋だった。
ジャズが台頭してきた1920年代、ヴォーカル・グループの人気には一時翳りが見えたが、そこへ満を持して登場してきたのがザ・ボズウェル・シスターズだった。ニューオーリンズのヴォードヴィル(軽喜劇)小屋回りから頭角を現した彼女たちは、30年代におけるモダン・ミュージックの景色を一変させた。彼女たちこそ真の革新者であり、すべての時代を通じて最も偉大なジャズ・ヴォーカル・グループのひとつと言っても少しも過言ではないのだ。
ザ・ボズウェル・シスターズは才能豊かなミュージシャン揃いだった。マーサはピアノを弾き、ヴェットはヴァイオリンとバンジョーとギター、そしてコーニー(子供の頃の事故で下半身不随となり、ステージではいつも座ってプレイしていた)はチェロにサキソフォン、ギターまでこなした。ラジオ局から毎日歌を披露する番組の枠を与えられたのが、彼女たちのキャリアのターニングポイントとなった。
彼女たちは20年代から数々の曲をレコーディングしていたが、一般層に認知されるようになったのは1930年、オーケー・レーベルで録音した4曲が世に出てからのことである。スキャットを入れたり、巧みなテンポやキーの変化を織り交ぜた姉妹のハーモニー・ヴォーカルは、すぐにニューオーリンズ以外でも人気を集めるようになった。その完璧なハーモニーを惜しみなく披露した「Shuffle Off To Buffalo」のような曲では、彼女たちはレコーディングの際にメロディを自在に反転させたり、革新的なシンコペーションを採り入れている。また、実は“ロックン・ロール(rock and roll)”というフレーズを最初に使ったグループは彼女たちで、1934年にまさにそのものズバリのタイトルの曲を出しているのだ。
彼女たちはまた数々の映画にも出演しており(代表作は『The Big Broadcast』(1932)、『Moulin Rouge』(1934)等)、ビング・クロスビーのラジオ番組のレギュラーも務めていた。彼女たちのヒット曲の多くはザ・ドーシー・ブラザーズ・オーケストラとの共演でレコーディングされていた。グループのアレンジメントを担当していたのはコーニーで、 「Heebie Jeebies」、 「Old Yazoo」、 「Shout, Sister, Shout」、 「Crazy People」 そして 「The Object of My Affection」といった名曲が次々に生まれた。
ヴェットとマーサは1936年にショウ・ビジネスから引退したが、コーニーはその後もソロとして大いに成功を収めた。黄金期の彼女たちは、ジャズやスウィングでも天性のホットなセンスを発揮し、多くのトップ・ジャズ・ミュージシャンたちから大いに尊敬された。ハーレム・オペラ・ハウスでのタレント・コンテストに出場するよう説得された16歳のエラ・フィッツジェラルドは、コーニーの書いた 「The Object Of My Affection」でエントリーした。エラ・フィッツジェラルドは後に語っている:「私が影響を受けたシンガーは後にも先にもたったひとりだけ。私はずっと彼女みたいに歌おうと努力してきたの、何故って彼女のやっていたことはひとつ残らず、音楽的に筋が通っていたからね……そのシンガーっていうのは、コーニー・ボズウェルよ」。
第二次世界大戦に差し掛かる頃、ボズウェル・シスターズに対抗するように人気が出始めたのがアンドリュース・シスターズだったが、彼女たちは常にボズウェル・シスターズへの敬意を忘れなかった。パティ・アンドリューズいわく、「ボズウェル・シスターズがいなきゃ、アンドリュース・シスターズだってなかったもの」。
アンドリュース・シスターズがブレイクする大きなきっかけとなったのは、1937年に出したイディッシュ語の曲 「Bei Mir Bist Du Schon (邦題:素敵なあなた)」(あなたは偉大だという意味)で、このレコードは僅かひと月で35万枚を売り上げた。 彼女たちはデッカ・レコードで「Beer Barrel Polka」、 「Boogie Woogie Bugle Boy」、 「Don’t Fence Me In」 それに 「I Can Dream, Can’t I?」等々、ヒットを量産した。実のところマキシーン、ラヴァーン、パティ・アンドリュースの3人は一時、全米チャートのトップ10ヒットの数ではエルヴィス・プレスリーとザ・ビートルズに負けず劣らずだったほどで、レコード売上総数は約1億枚を数え、すべての時代を通じて最もセールスを挙げた女性ヴォーカル・グループとなったのだった。
彼女たちはまた、ハリウッド方面でも屈指の人気グループとなり、アボット&コステロやビング・クロスビー、ボブ・ホープらと共に、計17作の映画に出演している。
彼女たちの成功は、巧みに時代の空気をとらえ、第二次世界大戦のさなかには各地の軍隊の慰問団に欠かせない存在となったことが要因のひとつであった。アンドリュース・シスターズは士気高揚のためにアメリカ中を回り、更にイタリアからアフリカまで行脚を重ね、彼女たちが映画『Buck Privates』のためにレコーディングした 「Boogie Woogie Bugle Boy」は、故国のために奮闘する者たちのテーマ・ソングとなった。
アンドリュース・シスターズは賢明だった。彼女たちは多様性が求められることを理解しており、自らの能力を最大限に利用して様々なタイプの音楽をこなし、とりわけその時代においてはいち早く、エスニック・ミュージックの影響を採り入れた曲をアメリカの最先端のヒット・パレードに送り込んだミュージシャンのひと組として、大いに存在感を示した。その影響は世界中に広がった――フィンランドのザ・ハーモニー・シスターズも、彼女たちのスタイルを真似た数多くのバンドのひとつだ。
長年一緒にコンスタントなツアーを重ねてきたストレスのツケが回り、50年代に2年間ほど袂を分かった時期があったものの、アンドリュース・シスターズは1956年に再結成し、1967年にラヴァーンが癌で亡くなるまで活動を続けていた。ベット・ミドラーが70年代に「Boogie Woogie Bugle Boy」 のカヴァーをリリースすると、シーンではこの曲のオリジナル・パフォーマーに対するノスタルジックな興味がにわかに湧き起こり、また新たなファンを獲得するに至った。残念ながら20世紀末は姉妹のプライヴェートにおける暮らしぶりや問題が頻繁にタブロイドにネタにされ、穏やかな晩年とは言い難い状況となったが、今でも彼女たちが女性ばかりのシンギング・グループの歴史においてひとつのベンチマークとなっているのは揺るぐことのない事実である。
言うまでもないことだが、彼女たちの成功に促されて、ライバルのレコード会社たちはそれぞれ同じようなバンドを自前で雇うようになった。その代表格がレノン・シスターズで、50年代に『The Lawrence Welk Show』に出演し始めた子供ばかりのグループは、その後実に60年にわたってショウ・ビジネスの世界でキャリアを築き、歴代大統領7人の前で歌うに至った。
中でもとりわけ抜きん出た存在だったのは、1943年にキャピトル・レコードが、同レーベルのアンドリュース・シスターズに対する回答とすべく契約を交わしたザ・ディニング・シスターズだろう。ザ・ディニングスはアンドリュース・シスターズによく似ていた――特に「Pig Foot Pete」のような、ブギウギの影響を感じさせる速いペースの曲や、軽快な「Down In The Diving Bell」といったレコードでは。
ザ・ディニング・シスターズは音楽一家に生まれた9人兄弟姉妹から成り、全員が教会で合唱をするところから歌に親しんだ。双子のジーンとジンジャーにルーを加えた3人の姉妹は、10歳になる前からアマチュアの歌唱コンテストで次々と優勝し、やがて上の兄のエースのオーケストラと共演するようになった。シカゴのNBCラジオのオーディションに受かって採用が決まったのがターニングポイントとなり、彼女たちはそれから7年にわたり専属タレントとして活躍、最終的には同局きっての高給取りにまで昇りつめた。
18週連続でチャートの1位に輝いたデビュー・アルバム『Songs By The Dinning Sisters』以降、頻繁なメンバーチェンジを重ねながらも、彼女たちのキャピトルでのアルバムはコンスタントによく売れた。またジーン・ディニングは優れたソングライターで、彼女が夫のレッド・サリーと共作し、兄弟であるマーク・ディニングがレコーディングした「Teen Angel」は、どこか荒んだ50年代の空気を見事に捉えたナンバーだ。一部のラジオ局にとっては感傷的過ぎるとみなされたものの、この曲はその後1973年に大ヒット映画『アメリカン・グラフィティ』の中で、まさにこの時代を象徴する一曲として使用されたのだった。
それなりの成功を収めたディニング・シスターズだったが、人気の上では結局アンドリュース・シスターズを凌駕することは一度もなく、ルー・ディニングは悲しげにこう認めている。「ありていに言えば、アンドリュース・シスターズは私たちなんかより遥かに先を行ってたのよ。私たちは彼女たちと同じくらいコマーシャルになろうと精一杯頑張ってみたけど、華が足りなかったのね。私たちはみんなどこか臆してたのよ。何しろ生まれも育ちもオクラホマの農場だもの。ダンスのレッスンなんか受けたこともありゃしなかったわ」
アメリカを席巻したのは何も女性ヴォーカル・グループばかりではなかった。20年代後期にインディアナポリスで結成されたジ・インク・スポッツは、元々はキング、ジャック&ザ・ジェスターズと言う名前で活動していた――バンドリーダーのポール・ホワイトハウスがその名義に対する権利を主張したために、改名を余儀なくされたのである。
インク・スポッツは即興のヴォーカル・ハーモニーに、管楽器の音を声で再現するという技を頻繁に織り交ぜた。最初はなかなか芽が出なかった彼ら――リード・シンガーにビル・ケニーを据えて――だったが、1939年、ソングライターのジャック・ローレンスから「If I Didn’t Care」というバラード曲をレコーディングするように説得されたところから大きな転機が訪れる。このレコードはミリオンセラーとなり、その後も「Maybe」、 「My Prayer」、 「Whispering Grass」、 「To Each His Own」、そして 「I Don’t Want To Set The World On Fire」と立て続けにヒットを連発した。
インク・スポッツは世界中をツアーして回り、グレン・ミラーとも共演を果たした。第二次大戦後から50年代にかけて、彼らは黒人にも白人にも高い人気を維持し続け、かつては白人専用だった南部の会場でも歌って、人種の壁を突き崩したグループとして、アメリカ社会史上に特別な足跡を残す存在となった。彼らはザ・ドリフターズやザ・ドミノズなど、約ひと世代分のバンドに絶大な影響を及ぼした。ジ・インプレッションズの創立メンバーだったジェリー・バトラーは、「インク・スポッツはカルテット唱法におけるヘヴィ級チャンピオンだよ!」と言って憚らない。
アウトプットという意味では、ザ・ミルス・ブラザーズに肩を並べられるグループはまずいないだろう。1981年――60年間活動を共にした彼らのパフォーミング・アクトとして現役最後の年――の時点で実に2246曲をレコーディングしていたミルス・ブラザーズは、オールタイムで見ても屈指の録音作品の多さを誇るバンドであり、累計セールスは全作品を通じて5000万枚を超え、36枚のゴールド・ディスクを獲得している。彼らの曲と、そのスムースでタイトなハーモニーは、21世紀のバーバーショップ・カルテットたちの間でもお気に入りのレパートリーとなっている。
インク・スポッツ同様、ミルス・ブラザーズも、歌い手たちが声で楽器を真似るギミックを聴衆が好むことを心得ていた。ミルス・ブラザーズは1932年の「Tiger Rag」でトロンボーンとトランペットの音を再現して見せ、この曲は彼らにとって最初のビッグ・ヒットとなった。その卓越した技術のために、彼らのアルバムの多くには但し書きが一文つくほどだった:「本作のレコーディングにはギター1本を除いて、本物の楽器は一切使用していません」。
澄み切ったハーモニーに加え、ミルス・ブラザーズを他のグループと一線を画す存在にしたのは、曲の中に織り込まれた遊び心――「Glow Worm」 や 「Up A Lazy River」 にみられる――と、ビング・クロスビーやメル・トーメ、ディーン・マーティンといった強い影響力を持つ人々に愛され引き立てられるような、天性の愛嬌を備えていたことだった(ちなみに、上記の中でヴォーカル・グループの一員として下積み時代を経験しているのはメル・トーメひとりである。彼がコンテンポラリー・ジャズ・ヴォーカルの先駆的存在、ザ・メル・トーンズを結成したのはまだティーンエイジャーの時で、グループは第二次大戦中に人気を博し、彼ら単体でもアーティ・ショウ・バンドとの共演でも数々のヒットを飛ばした)。
ミルス・ブラザーズのヒット曲の数々――‘Goodbye Blues’、 ‘You’re Nobody’s Sweetheart Now’、‘Sweet Sue’、 ‘Bye, Bye Blackbird’、 ‘You Always Hurt the One You Love’、そして ‘Yellow Bird’、更には ‘Paper Doll’――はロックン・ロール登場前の時代において絶大なる影響力を持ち、またそれに伴って、彼らはアメリカ全土で忠実な白人オーディエンスを獲得した最初のアフリカ系アメリカ人グループの仲間入りをするに至った。
1950年になると、ミルス・ブラザーズは自分たちのパフォーマンスがマンネリ化することを恐れ、オーケストラとのレコーディングを開始した。トミー・ドーシー楽団のアレンジャー、サイ・オリヴァーと組んだ彼らは、 「Nevertheless (I’m In Love With You)」や 「Be My Life’s Companion」といったヒットに恵まれた。
ドナルド・ミルスは彼らの成功の理由について、控えめにこう振り返る:「シンプルなメロディといい歌詞、それだけだよ。聴く人たちがみんな何を歌ってるのか分かって、俺たちの歌に合わせて足でリズムを取れる、それだけで俺たちには十分事足りたんだ」
もうひとつのサクセス・ストーリーの主役は、甘いハーモニーと揃いの衣装に髪型、身体の動きもジェスチュアも見事に全員シンクロしていたことで知られたザ・マグワイア・シスターズだ。彼女たちは1954年の「Sincerely」や57年の 「Sugartime」等のヒットで計6枚のゴールド・ディスクを獲得し、ミルトン・バールやアンディ・ウィリアムズ、ペリー・コモらが司会を務めるTVのヴァラエティ番組で次々にメインのレギュラーを務めた。2004年に行なわれたPBSの特番『Magic Moments: The Best Of 50s Pop』でも、彼女たちは現役バリバリのパフォーマンスを披露している。
50年代に活躍したトリオ、ランバート、ヘンドリックス&ロスもまた、ヴォーカル・グループの歴史においては重要な位置を占めている。ジャズ・シンガーが人の声で楽器の音を再現する“ヴォーカリーズ”のテクニックを更に発展させたデイヴ・ランバート、ジョン・ヘンドリックス、アニー・ロスの3人は、通常の少人数コンボのコンパクトさを超越し、フルスケールのビッグ・バンドのアレンジメント・スタイルを採用した。彼らのウィットに富んだヴォーカル、エネルギッシュな歌いぶり、キレのあるハーモニーはジャズ界を大いに席巻し、3人のパフォーマーたちはたちまちスターとなると共に、ザ・キング・シスターズやマンハッタン・トランスファーといった同様のグループが続々と輩出されるきっかけを作った。
そして1950年代半ば、急速に広まったドゥー・ワップの波が、ヴォーカル・ハーモニー・グループのパフォーマンス・スタイルを一変させた。音楽は文字通り、どんな場所でも――高価な機材など必要なしに――プレイできるようになり、真の意味でアメリカ文化のメインストリームの一部となったのである。
ドゥー・ワップ・スタイルによる音楽史上最初のレコーディングは、1948年にジ・オリオールズが出した 「It’s Too Soon To Know」との記録があり、次いで1951年にザ・ラークスが 「My Reverie」を録音している。ドゥー・ワップ全盛期のトップ・スターと言えば、ディオン&ザ・ベルモンツ、ザ・シャンテルズ、ザ・コースターズ、ザ・ドリフターズ、ザ・デュプリーズ、ザ・フラミンゴス、ザ・プラターズ、ザ・シュレルズ、そしてピッツバーグからは、ザ・デル・ヴァイキングスにザ・マーセルズ、ザ・スカイライナーズが 登場した。
概算によれば、50年代にレコーディング活動をしていたシンギング・アクトは10万組を超えており、一時はそのヴォーカル・グループに車の名前をつけるのが流行ったせいで、ザ・キャディラックス、ザ・ランブラーズ、ザ・コルヴェッツ、ザ・ヴァリアンツといったグループが生まれたのである。
その後ドゥー・ワップ革命は、モータウンという巨大企業マシーンが繰り出すザ・シュープリームス、テンプテーションズ、そしてマーヴェレッツらに引き継がれ、更にファンク色の強いアンサンブル、アース・ウィンド&ファイアーやアイズレー・ブラザーズが続いた。Vocal Group Hall Of Fame(ヴォーカル・グループ名誉の殿堂)入りを果たした顔ぶれを見れば、この時期にどれだけ沢山のグループが輩出されたかが分かるというものだ。
50年代でもうひと組、時代を超えた影響力を誇るハーモナイジング・グループと言えば、インディアナポリスのバトラー大学附属アーサー・ジョーダン音楽学校の学生だったバーバー兄弟とハル・クラッチによって結成されたフォー・フレッシュメンである。「It’s A Blue World」、 「Mood Indigo」、 「Day By Day」、そして 「How Can I Tell Her?」といったヒットを飛ばし、グラミー賞も獲得したフォー・フレッシュメンも、それぞれの声を楽器のように使っていたが、彼らの売りはスタン・ケントン・オーケストラのトロンボーン・セクションを再現して聴かせることだった。
1956年の彼らの 「Graduation Day」は、後にビーチ・ボーイズによってカヴァーされたが、リーダーだったブライアン・ウィルソンはフォー・フレッシュメンについて、彼に「ハーモニーを基礎から仕込んでくれた」と言及している。ブライアン・ウィルソンの従兄、マイク・ラヴの証言によれば、ブライアン・ウィルソンが十代の頃、ピアノでフレッシュメンの曲を解析し、彼の兄弟と従兄弟たちとでハーモニーを再現しようと頑張っていたそうだ。年若い少年たちが正しく音を取れない時には、ブライアン・ウィルソンの母親で才能豊かなピアニストでありオルガニストでもあったオードリー・ネヴァが、主旋律のトップ・パートを歌ったりすることもあったと言う。
ビーチ・ボーイズはゴージャスなザ・ハイ・ローズ(The Hi-Lo’s)からも影響を受けていたものの、その革新的なヴォーカル・ハーモニー使いで、音楽の世界に決して消えることのない独自の足跡を遺した。「Surfin’ Safari」 や 「Wouldn’t It Be Nice(邦題:素敵じゃないか)」に代表される、“カリフォルニア・サウンド”をフィーチュアした彼らの一連のヒット曲は現在でも、緻密な構成によって作り出される魅惑的なポップ・ミュージックのひとつの基本形となっている。始まりこそヴォーカル・ハーモニー・グループではあったが、ブライアン・ウィルソンが積み重ねたスタジオ・テクノロジーやサウンド・テクスチュアにおける数々の実験のおかげで、ビーチ・ボーイズは明らかにその範疇を超越した存在になったのである。
ビーチ・ボーイズの全盛期後も、ヴォーカル・グループが死に絶えることはなかった――ザ・ウィーヴァーズのように、ヴォーカル・ハーモニーを強みのひとつとしてアピールするフォーク・バンドや、クイーンのようにフレディ・マーキュリーの声をマルチ・トラックにして重ね、ヴォーカル・グループ的な効果を得るバンドも出てきた――が、こと過去30年間において、紛れもなく最も興味深いヴォーカル・グループの発展形(いわゆるごく一般的なボーイ/ガール・バンドのヴォーカル・グループは含まないものとする)は、ヒップホップのビートに甘くソウルフルなヴォーカル・ソロ、あるいはハーモニー・ヴォーカルを合わせるというスタイル、ニュー・ジャック・スウィング(時にスウィングビートとも呼ばれる)である。
このジャンルのキーパーソンは、ニューヨーク生まれのシンガー・ソングライター兼キーボーディストのテディ・ライリーで、彼は300万枚売れたキース・スウェットのデビュー・アルバム、『Make It Last Forever 』(1987)のプロデューサーを務め、現在はK-Pop界から生まれたとびきりフレッシュなサウンドの仕掛け人として活躍している。テディ・ライリーいわく、「俺たちはR&Bに新しい命綱を与えたんだ。ニュー・ジャック・スウィングはシンガーがラップ・トラックに合わせて歌うって手法を打ち出した最初のジャンルだった。その影響はラップからR&Bまで、今でもあちこちで目や耳にすることがあるはずだぜ」 。
ニュー・ジャック・スウィングはその後様々な方向性へと拡散して行ったが、例えばテキサス州アーリントンが生んだ5人組アカペラ・グループ、ザ・ペンタトニックス(PTX)のような21世紀のバンドが、モダンなポップ・ソングをハーモニック・ヴァージョンに仕立てて大成功を収めていることでも分かる通り、世の中のヴォーカル・グループに対する渇望はいまも衰え知らずだ。また、TVコンテスト番組『The Sing-Off』や映画『ピッチ・パーフェクト(原題:Pitch Perfect)』の影響もあり、アカペラ・ブームは再び盛り上がりの気配を見せている。
これら21世紀のヴォーカル・グループの成功は、音楽における革命やスタイルがどれほど入れ替わり、浮き沈みを繰り返したとしても、仲間と一緒に歌いたいという人々の思いは時代を超えてずっと変わらないという証拠だ。そして、実のところ人の声以上に聴き手の心を動かすことができるものはないのである。
Written By Martin Chilton
♪プレイリスト『ピッチ・パーフェクト』:Spotify
*1:ノーマン・ロックウェル=20世紀に活躍したアメリカの大衆画家。当時のアメリカの人々の生活や風俗を写実的かつコミカルに描いて絶大な人気を博した。Saturday Evening Post紙の表紙を約50年にわたって手掛け、1936年に描かれた床屋で歌う白人4人の男性のイラストは“Barbershop Quartet”のタイトルで知られている。
*2:ミンストレル・ショウ=minstrelは本来、中世の吟遊詩人を意味する言葉だが、minstrel showとは19世紀にアメリカで広まった喜劇舞台で、通常白人が黒人に扮した司会者と芸人たちが演じる、滑稽な対話と歌・演奏・ダンスから成るミュージカル演芸を指す。