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ハンク・ウィリアムズから始まるカントリー・ミュージックの反逆者たち

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「人が死ぬのを見るためだけに、俺はリノで男を撃ち殺した」。

これはほぼ間違いなく、カントリー音楽史で最も有名な歌詞だ。ジョニー・キャッシュ は後年、「Folsom Prison Blues」を書いている時に受けたインスピレーションについてこう回想している。「ペンを手に取って座りながら、人が誰かを殺す最悪の理由を考えていたんだ。その時、これが頭に浮かんできた」。

カントリー・ミュージックは常にふたつの側面を抱えてきた。ひとつの側面は、クリーンで健全なサウンドだ。これは、ナッシュヴィルで洗練され、大衆向けの娯楽となった。もうひとつは、タフガイ的な側面だ。悲嘆にくれ、打ちのめされ、打ちひしがれ、虐げられた男女が岐路に立ち、誤った道を選択するのだ。しかし、ハリウッドのウェスタン映画と同様に、無法者が最も大きな魅力を備えていることは多い。

騒ぎを起こし、世間の評判も気にせず、権力者に唾を吐きかけ、大騒ぎを起こす者たち。ジョニー・キャッシュ、アーネスト・タブ、ウェイロン・ジェニングス、ジョニー・ペイチェック、ウィリー・ネルソン 、さらにはアウトロー系カントリーの元祖、ハンク・ウィリアムズなどが、カントリー・ミュージックの真のヒーローだ。

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生まれた時から、ハンク・ウィリアムズには不運が続いた。まず、ハイラムという出生名は、出生証明書で誤記されていた。そして彼は、脊椎骨に先天的欠陥があったが、17歳で落馬したことで、さらにその欠陥が悪化した。彼は7歳でギターを始めた。年長の黒人ミュージシャン、ルーファス・‘ティー・トット’・ペインにコードや楽曲を習ったため、ハンク・ウィリアムズの曲にはブルースの要素が入っている。賢明なハンク・ウィリアムズは、音楽的な才能以外の点も考慮してバンドを雇った。例えば、ベース・プレイヤーのキャノンボール・ニコルズは、ミュージシャンになる前はレスラーをしていた。ハンク・ウィリアムズの故郷であるアラバマの武骨なクラブで演奏するにも、心強い人物だったのだ。

第二次世界大戦によってハンク・ウィリアムズのバンドは崩壊し、ハンク・ウィリアムズもひどいアルコール依存症となった。彼は1930年代後半からラジオ局WSFAでレギュラー・スポットを持っていたが、酩酊状態が多かったため、1942年に解雇された。

大戦後、ハンク・ウィリアムズと妻のオードリーはナッシュヴィルへと居を移し、音楽出版事業経営者のフレッド・ローズの目に留まった。フレッド・ローズをマネージャーに擁したハンク・ウィリアムズは、MGMレコードと契約を結び、すぐさまヒットを連発する。彼が同レーベルからリリースした最初の楽曲「Move It On Over」は、数千枚のセールスを記録した。ハンク・ウィリアムズはルイジアナ州シュリープポートに引っ越すと、ルイジアナ・ヘイライド(ラジオ番組/コンサート巡業団)に加わった。「Lovesick Blues」も大ヒットとなり、カントリー・チャートで16週連続ナンバー・ワンを記録すると、グランド・オール・オープリー出演を果たす。彼の飲酒癖が、カントリー・ミュージックのキュレーターというグランド・オール・オープリーの評判を傷つけるのではと危惧されたが、彼は観客を魅了し、過去最多となる6回ものアンコールを受けた。

Hank Williams

スターとなったハンク・ウィリアムズは、高額のキャラを請求できるようになり、「Wedding Bells」、「I’m So Lonesome I Could Cry」、「Moanin’ The Blues」、「Cold, Cold Heart」、そして不朽の名曲「Hey, Good Lookin’」等、ヒット曲も量産した。スパンコールや音符で飾ったスーツを身に着け、表向きには成功を勝ち取ったハンク・ウィリアムズだったが、心の中は苦悩に満ちていた。彼は背中の痛みを和らげようとモルヒネやアルコールを使用していたほか、酩酊状態でホテルの部屋を荒らしたり、銃で遊んだりするようになった。背中の痛みとアルコール依存症の治療を受けたものの、どちらも治らず、50年代前半には、そのキャリアも私生活もどん底を迎えていた。ハンク・ウィリアムズの結婚生活も破綻し、彼は家と息子(ハンク・ウィリアムズ・ジュニア)の親権も失った。また、グランド・オール・オープリーからも解雇され、自身のバンドすら失ってしまった。

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ハンク・ウィリアムズの楽曲はトニー・ベネット等のアーティストにゴールド・ディスクをもたらしたが、ハンク・ウィリアムズ自身のパフォーマーとしての評判は急降下した。コンサート・プロモーターも、泥酔状態でパフォーマンスしてステージから落ちたり、公演自体をすっぽかしたりするハンク・ウィリアムズに愛想を尽かした。

1953年の元旦、オハイオで大きな公演が予定されていたが、猛吹雪で飛行機が飛ばず、ハンク・ウィリアムズは会場まで自分のキャデラックを運転してほしいと、タクシー運転手のチャールズ・カーを雇った。彼は体が温まるようウィスキーのボトルを持ちこむと、後部座席に座った。チャールズ・カーは給油のため、ウェスト・ヴァージニア州オーク・ヒルで車を停めると、ハンク・ウィリアムズが死んでいることに気づいた。警察は、ビールの缶と書きかけの歌詞を後部座席で見つけた。この時、チャートを急上昇していたハンク・ウィリアムズの最新シングルのタイトルは「I’ll Never Get Out Of This World Alive」だ。そのため、ハンク・ウィリアムは自分の寿命が長くないことを知っていたのではないかと推測する者もいる。

およそ2万人が安置公開されたハンク・ウィリアムズの遺体に別れを告げ、死後にリリースされた「Your Cheatin’ Heart」はカントリー・チャートで6週連続首位の座を守った。今日、ハンク・ウィリアムズの生涯と音楽はカントリー界において伝説となっているが、生前のハンク・ウィリアムズは決してみんなから受け入れられていなかったとして、彼の息子はこれに反発している。「俺の父親のことが大好きだったなんて話をされるのにはもうウンザリだ。ナッシュヴィルの人々は、父を嫌っていたくせに」。

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ナッシュヴィルに溶け込まないというのは、アウトロー系カントリーの偉人たちには共通したテーマだ。テキサス州出身のシンガーソングライター、ウィリー・ネルソンはナッシュヴィルに移り住む以前、自身の曲をいくつかレコーディングしながら、ソングライターとしても(クレジットなしで)いくつかヒットを出していた。独特の歌唱スタイルを持ち、ラインストーンの飾りを嫌う彼は、既に一般のカントリー・ミュージシャンとは毛色が違った。しかし彼の楽曲は、胸が張り裂けるようなわびしさを帯びながらも人気を博し、彼はソングライターとして数々のヒットを記録した。中でも有名なのは「Crazy」で、同曲は悲劇的カントリー・スターのパッツィー・クラインによってレコーディングされた。

ウィリー・ネルソンは、レイ・プライスのバンドのベーシストとしてツアーに出ると、離婚を経験した後、パフォーマーとしても「Willingly」等のヒットを放つようになった。なお、同曲でデュエットしたシャーリー・コリーは、後にネルソンの2番目の妻となった。60年代、ウィリー・ネルソンのキャリアは好調で、複数のレーベルから多数の楽曲をリリースしただけでなく、ロイ・オービソンの「Pretty Paper」等、他のアーティストに提供した楽曲もヒットした。しかし、ウィリー・ネルソンはカントリーの体制派とは意見を異にしつづけ、自身の楽曲に上品で洗練されたアレンジが入るのを嫌い、カントリー界が払拭しようとしていたカウボーイのルーツに近づいていった。「ヴォーカルやストリングス、いろんなものを入れたサウンドは美しかったが、俺じゃなかった」と彼は後に語っている。

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保守的なカントリー界の権力層に幻滅したウィリー・ネルソンは、テキサス州オースティンに退くと、ここでヒッピー・ムーヴメントに出合い、伝説的なコンサート会場、アルマジロ・ワールド・ヘッドクオーターズで新たなファン層に出会った。新たな環境の中、ウィリー・ネルソンはロック、フォーク、ジャズの要素を交えたより自由な音楽を作るようになる。アウトロー・カントリー・アーティストの同胞、スティーヴ・アールは「俺たちはみな、彼を応援していたよ。俺たちにも希望があるってことだからね」と後に回想している。

ウィリー・ネルソンは、アトランティック・レコードのジェリー・ウェクスラーが出席していたパーティで演奏すると、レイ・チャールズやアレサ・フランクリンもかつて在籍した同レーベルと契約を結んだ。カントリー・アーティストとしては初の快挙である。アーティストとしてより大きな自由を与えられたウィリー・ネルソンは、初めて真の名盤といえるアルバムをリリースした。『Shotgun Willie』は、ナッシュヴィル的な純粋さを避け、多種多様な影響を取り込むと、カントリー・ミュージックの新スタイルを象徴する1枚となった。このスタイルは‘アウトロー・カントリー’と称され、当然のごとくウィリー・ネルソンはこのムーヴメントの先導者となった。彼はボサボサの顎髭とお下げ髪で、メインストリームから最もかけ離れた風貌をしていた。『Shotgun Willie』はリリース当初から大ヒットしたわけではないが、批評家からの評価は高く(ローリング・ストーン誌は「完璧」と形容した)、‘アウトロー’・シーンが十分に発展していたオースティンでは飛ぶように売れた。そして、ルーツ的サウンドへの回帰が、アスリープ・アット・ザ・ホイールといったグループや、ビリー・ジョー・シェイヴァー、ジョー・エリーといったシンガーソングライターを魅了した。

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しかし、カントリー・ミュージックの何が、虐げられた弱き者たちを惹きつけるのだろうか? パッツィー・クラインの「I Fall To Pieces」(ハンク・コクランとの共作)、レイ・チャールズとジョニー・キャッシュがそれぞれ歌ってヒットした「Busted」の作者として知られるカントリー・ソングライターのハーラン・ハワードによる有名な言葉だが、カントリーの名曲は‘3つのコードと真実’で構成されている。そして、アウトロー・カントリー・アーティストにとって、この真実こそが不可欠な要素だ。カントリー・ミュージックの魅力のひとつは、そのストーリーテリングにある。ストーリーを語る者を信じられなければ、その楽曲は失敗に終わる。当然のことながら、ナッシュヴィルを去ったウィリー・ネルソンと同様、アウトロー・カントリー・アーティストは自分に正直でなければならないのだ。

もちろん、アーティスト気質に、自分流に事を行おうという意欲が組み合わさると、物事はワイルドな方向に進みがちなのは理解できるところである。現在も、アルコールはカントリー・ミュージックと切っても入れない仲である。トビー・キースの楽曲は、「Get Drunk」、「Be Somebody」、「I Like Girls That Drink Beer」等、アルコールについて歌っているものが多い。クリス・ステープルトンは、デビュー・アルバム『Traveller』でCMAアワードの最優秀新人賞、最優秀男性ヴォーカリスト、最優秀アルバム賞を獲得した初のアーティストとなり、歴史を作ったが、「Tennessee Whiskey」を賛美し、「Whiskey And You」について歌い、「Outlaw State Of Mind」の持ち主であることを告白している。グレッチェン・ウィルソンの「All Jacked Up」は、ついもう1杯飲んでしまう病を歌っている。驚くことでもないが、カントリー界のアウトロー・カルチャーにおいては、強い酒が頻繁に登場する。

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テキサス・トラバドー (テキサスの吟遊詩人)と呼ばれたアーネスト・タブは、「Walking The Floor With You」のヒットで戦時中に名声を得た。しかし、アルコールが彼の弱点で、彼は泥酔すると、自分のリムジンの窓を蹴り飛ばすなど、あらゆるものを破壊した。1957年、酔ったアーネスト・タブは357マグナムを手に、ナッシュヴィルにあったナショナル・ライフ社のロビーに足を踏み入れる。どうやらプロデューサーのジム・デニー(グランド・オール・オープリーでハンク・ウィリアムズを解雇した人物だ)を撃つつもりだったらしい。ジム・デニーはその場にいなかったが、タブはそこにいた人物をジム・デニーだと思い込み、発砲した。幸運にも、彼は泥酔していたためにきちんと銃を撃つことができず、標的にも当たらなかったため、その罪状は公衆での酩酊のみですんだ。

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ジョニー・ペイチェックは、デイヴィッド・アラン・コーの「Take This Job And Shove It」を武骨にカヴァーして大ヒットを記録したシンガーだ。ジョニー・ペイチェックも公衆の面前で発砲したが、彼はアーネスト・タブほどの幸運に見舞われなかった。1985年12月19日、ジョニー・ペイチェックは一杯ひっかけようと、オハイオ州ヒッルズボロにあるノース・ハイ・ラウンジに立ち寄った。ラリー・ワイズという名の客がジョニー・ペイチェックに気づいて話しかけた。ジョニー・ペイチェックが放っておいてほしいと応えると、ラリー・ワイズは亀のスープをごちそうするから家に来いとジョニー・ペイチェックに言った。ジョニー・ペイチェックは田舎者扱いされていると感じ、この誘いを侮辱だと考えて発砲。弾丸はラリー・ワイズの頭をかすめた。「彼は私の帽子を吹き飛ばしました。個人的な侮辱だと思ったのでしょう」とラリー・ワイズは法廷で証言している。

海軍にいた頃に高官を殴り、軍事刑務所で数年を過ごした経験のあるジョニー・ペイチェックは、正当防衛を主張した。彼は9年の実刑判決を受けたが、州知事は2年も経たないうちに彼を赦免した。ジョニー・ペイチェックは後年、自分の立場についてこう語っている。「俺にとってアウトローとは、人に好かれようと嫌われようと、自分のやり方を貫く男のことだ。俺は自分のやり方を通した」

Steve-Earle-compressorかつてオースティン・シーンのシンガーだったスティーヴ・アールも、自分のやり方を通すアーティストだ。アルバム『Exit 0』の細部まで全て自分の思い通りにしたいと主張したスティーヴ・アールは、当時MCAナッシュヴィルのヴァイス・プレジデントだったトニー・ブラウンとカヴァー・アートを巡って衝突した。2人は昼食の席で解決策を見出そうとした。「俺が権力側に対して問題を抱えているんじゃなくて、権力側が俺に問題を抱えてるんだ」と後に彼は語っている。「誰も俺にやり方を指図しようなどとは思わない」。これはトニー・ブラウンの過ちだった。「彼は皿を手に取ると、ステーキを俺に向けて突き出した。そして、ここでは言えないような言葉で俺を罵倒したんだ」とトニー・ブラウンは回想している。後年スティーヴ・アールは、この喧嘩がどのような結果をもたらしたかについて尋ねられると、「『Exit 0』は今もまだ売られている。カヴァー・アートを見てみれば結果が分かるだろう」と単純明快に答えている。

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カントリー界最大のアウトローのひとりは、ジョージ・ジョーンズだ。同世代のアーティストから敬愛されていたため、ウェイロン・ジェニングスは「It’s Alright」の中で「誰もが自分の好きな声を持てるとしたら、全員がジョージ・ジョーンズみたいな声になるだろう」と書いたほどだ。ジョージ・ジョーンズには押しも押されもせぬ才能があったが、アルコールとコカインに溺れたため、その評判は芳しくなかった。タミー・ワイネットとの波乱万丈な結婚生活は離婚に終わった。彼は酒に酔うと妻を殴り、友人に銃を向けた。そして、自分のコンサートを何度もすっぽかしたため、「ノー・ショウ・ジョーンズ(ドタキャン・ジョーンズ)」という悪評も立った。

タミー・ワイネットはこう語っている。「飲んでいる時、彼は正真正銘の狂人になるの。銃で遊んで、真夜中に発砲したりしてね。バスルームの壁のタイルも吹っ飛ばしたわよ」。彼は音楽に救いを求め、1974年の名盤『The Grand Tour』では、自宅の中を巡りながら妻との別れを歌う構成になっている。クライマックスは子供部屋で、ここでタミー・ワイネットはジョージ・ジョーンズに別れを告げ、「俺たちの赤ん坊と、俺の心だけを持って」出ていく。

しかし、カントリーは呪われし者の話ばかりではない。このコインの裏には救済があるのだ。カントリー・ミュージックのアウトローの多くは、その音楽や仲間に癒しの力があると証言するだろう。

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カントリー・ミュージックで特に有名な話といえば、強盗で刑務所に入っていたマール・ハガードが、1958年にサン・クエンティン刑務所でジョニー・キャッシュのパフォーマンスを見たことがきっかけで、刑務所内のバンドに入ったというエピソードだろう。ダスト・ボウルで生まれ、カリフォルニアで育ったマール・ハガードは、妻から軽蔑の目を向けられたため、音楽のキャリアを断念していた。(幸せな結婚生活ではなかったようで、「有名な戦いのリストの中に、俺とリオナ・ホブスの結婚も含めるべきだ」と後に語っている。)しかし、ジョニー・キャッシュの感動的なパフォーマンスを見た後、ソングライター/パフォーマーになりたいという自分の心に従おうと決意した。

出所後、マール・ハガードはじっくりとファンを増やし、「I’m A Lonesome Fugitive」で初めてカントリー・シングル・チャートで首位を獲得する。彼のレーベルは、前科のあるカントリー・シンガーのロマンスを題材とした曲を彼に歌わせたのだった。しかし、彼の曲の中でおそらく最も有名な「Okie From Muskogee」は、アウトローの歌とは思えないもので、ヴェトナム戦争に抗議し、ヒッピー・ムーヴメントを歌っている。この曲のどこまでが皮肉でどこまでが本音なのかについては、さまざまな解釈が可能である――リチャード・ニクソンはマール・ハガードのファンだったが、カウンターカルチャーの伝説的人物、フィル・オクスも彼のファンだった。

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ジョニー・キャッシュ自身も長年の間、自分の中に棲む悪魔と闘っていた。アルコール、ドラッグ、女性の問題で、彼は破滅の一歩手前まで堕ちた。1967年はどん底だった。「俺はアンフェタミンを大量に飲んでいた」と彼は自伝『Cash』に記している。「コンサートやレコーディングもキャンセルし、なんとかその場までたどり着いても、ピルのせいで喉が渇ききり、歌など歌えなかった……刑務所送り、病院行き、自動車事故を繰り返していた俺は自分について、『死』が歩いているかのように感じていた。どん底の暮らしをしていた」。彼はテネシー川にある洞窟に入ると、「神にこの世から消してもらおうと」横たわった。しかし彼はどこからか力を得て、その洞窟から這い出ると、自分を破滅寸前まで追い込んだドラッグとアルコールから自らを解放した。

1985年、ジョニー・キャッシュは長年の友人であるウィリー・ネルソンと手を組み、カントリー究極のスーパーグループを結成。このグループをハイウェイメンと命名すると、アウトローのイメージを打ち出した。ウィリー・ネルソンとジョニー・キャッシュに、クリス・クリストファーソン、ウェイロン・ジェニングスというカントリー界の大物2人も加わった。
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クリス・クリストファーソンは軍人家庭で育ち、自らも米国陸軍の大尉となった。しかし、彼が軍人の道を捨て、ソングライターの道を選ぶと、家族から縁を切られた。彼はカントリー界でコネを作ろうと、CBSナッシュヴィル・スタジオの清掃の仕事を始めたがコネは作れず、彼はとんでもない作戦に打って出る。ジョニー・キャッシュ宅の前庭にヘリコプターを停めて、彼の注意を引いたのだ。ジョニー・キャッシュは「Sunday Morning Comin’ Down」をレコーディングし、クリス・クリストファーソンのキャリアがスタートした。

一方、ジョニー・キャッシュとウィロン・ジェニングスの付き合いは、一緒に住んでいた60年代に遡る。ウィロン・ジェニングスの20年に渡るドラッグの常習癖が始まったのもこの頃だ。ウィロン・ジェニングスが最初に難を逃れたのは、バディ・ホリーとのツアー中だった。彼はホリー、JP・リチャードソン、リッチー・ヴァレンスが乗った飛行機に乗らなかった。そしてこの飛行機は墜落し、3人は帰らぬ人となった。ウィロン・ジェニングスはその自伝の中で、あの夜以降、彼を苦しめ続けている会話について綴っている。バディ・ホリーが「お前のバスなんて、凍結しちまえ!」と言ったのに対し、ウィロン・ジェニングスは「お前の飛行機こそ堕ちりゃいいんだよ!」とジョークで返したそうだ。

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彼が難を逃れたエピソードはもうひとつある。今回は警察絡みだ。コカインを大量に所持していた彼は、ドラッグ供給の罪で逮捕される寸前だったが、麻薬取締局がレコーディング・スタジオを捜索する直前に証拠を隠滅することができた。この時の様子は1978年のシングル「Don’t You Think This Outlaw Bit’s Done Got Outta Hand?」で語られている。「曲の真っ最中、ヤツらが裏口から乗り込んできた/何かの所持で俺をパクろうとしてたけど、その何かはとっくに消え去ってた」

ウィロン・ジェニングスは、カントリー界の外に新たなオーディエンスを探しはじめた。彼がニューヨーク随一のロック・クラブ、マクシズ・カンサス・シティで初公演を行った時、これからカントリー・ミュージックを演奏すると観客に言った。「気に入ってもられるといいけど、もし気に入らなくても黙ってろ。ぶん殴るからな」

カントリー・ミュージックのアウトローには、共通点がたくさんあるー―飲酒、ドラッグ、女性、法律関係のトラブル等――しかし、彼らを結びつける最も大切なことは、そのリアルさである。彼らは多くのことを経験してきた。彼らは精一杯生き、過ちから学んできた。その正直さがなければ、彼らの曲に意味はないだろう。「カントリー・ソングを歌うなら、実際に経験してなきゃダメだ」というジョージ・ジョーンズの言葉が、彼らについて最もよく言い表しているのだ。

By Richard Havers

♪ プレイリスト『Outlaw And Disorder: Country Rebels


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