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アンダーグラウンドから誕生:ニューヨークのサマー・オブ・ラヴ

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ニューヨーク市では毎年音楽の様々な動きを目の当たりにすることができるが、”サマー・オブ・ラヴ”真っ最中に起こった世界的な変化は興味深い結果をもたらし、地元のジャズ、R&B、そして初期のロックン・ロール界から集まった様々なアーティストたちがその中心となった。

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ジャズ界では、ブルーノート・レコードがラストスパートを迎えていた。レーベルの創設者であるアルフレッド・ライオンがその年に定年退職し、それによりレーベルの第一章が幕を閉じようとしていたのだ。ジャズ界全体が新たな時代に突入し、マイルス・デイヴィス・クインテットは二番目のメンバー編成としてピアノにハービー・ハンコック、ベースにロン・カーター、ドラムにトニー・ウィリアムス、そしてテナー・サックスにウェイン・ショーターを迎えた。フュージョンが登場する前にブルーノートは、スタンリー・タレンタイン、ルー・ドナルドソン、そしてマッコイ・タイナーのグルーヴの効いたレコードを1967年に発売した。彼らはブーガルー・リズムが流行ると予想していたアーティストたちで、70年代初期にはブラックスプロイテーション映画(*訳注:アフリカ系アメリカ人をターゲットに制作された映画)のサントラによく使われるようになるとより緩い雰囲気のサウンドへと変わった。

アトランティック・レコードは40年代から変わらずニューヨーク市のR&B界にとって不可欠な存在であり続け、モータウンよりも先にソウル音楽を開拓し、レイ・チャールズ、ドリフターズ、そしてその他多くのアーティストたちのシングルを発売した。アトランティックは、66年の終わりにコロンビアとの契約が切れたアレサ・フランクリンと契約を結んだ。彼女を代表するオーティス・レディングのカヴァー曲「Respect」はニューヨークにあるアトランティックのスタジオでレコーディングされたが、その直後にアトランティックはアレサ・フランクリンをアラバマ州にあるマッスル・ショールズ・スタジオへ向かわせた。デトロイトを拠点としていたアレサ・フランクリンは、ニューヨークで仕事をして、アメリカ南部でレコーディングを行った。

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時々アトランティックはメンフィスにあるスタックス・スタジオを利用し、そこでのレコーディングは新たなソウル時代 に違う新鮮な風を吹き込んだ。「小さいインディーズ・レーベルは、サウンドを変えていく推進力となります」と、ニューヨークのDJでソウル・シングル・コレクター、そして研究者であるグレッグ・トルモは言う。「1966年の頃はまだ一小節4ビートのモータウンっぽいサウンドのものが多くありました。1967年になると、よりシンコペーションを用いたファンキーな音へと変わります」。125th ストリート・キャンディ・ストア は、ラテン系レーベルのファニアからニューヨーク生まれの最高に素晴らしいソウル・レコードを1967年に発売した。「Silent Hearts」は、数年経てばシャイ・ライツが作りそうなサウンドになっている。小さなクイーン・シティ・レーベルは1967年にデル・ラークスの「Job Opening (For An Experienced Heart Mender)」をリリースし、こちらもニューヨーク市から生まれた最高のソウル作品のひとつとして張り合える曲になっている。

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地元はラテン・ソウル色が濃く、その普段隠れたサイケデリックな陽気さは、1967年にヤンキー・スタジアムで最高潮を迎えた真夏のブーガルーの夜に凝縮された。ジョー・バターン、ウィリー・コロン、レイ・バレット、エディ・パルミエリ、そしてティト・プエンテは、後にサンフランシスコのヘイト・ストリートで活躍していたサンタナ・ブルース・バンドに大きな影響を与えた。ジョー・キューバのシングル「Psychedelic Baby」とレブロン・ブラザーズ・オーケストラのLP『Psychedelic Goes Latin』は全般的な音楽の動きを象徴した良い例であり 、60年代のジャズへの影響力を示している 。

ニューヨークのストリート音楽はソウルが主流だった。それは空気に充満していた。バート・バカラックとハル・デヴィッドがディオンヌ・ワーウィックに書いた1963年のヒット曲「Walk On By」は、ニューヨークから生まれたソウル・サウンドを象徴している。1967年中にディオンヌ・ワーウィックは、「I’ll Say A Little Prayer(邦題:あなたに祈りをこめて(小さな願い))」、「Alfie」、そして社会を意識した「The Windows Of The World(邦題:世界の窓に光を(世界の窓と窓))」など、彼女の最もヒットした曲をリリースした。バート・バカラックとハル・デヴィッドのトラック「What The World Needs Now (Is Love)(邦題:愛を求めて(世界は愛を求めている))」は1965年にヒットしたジャッキー・デシャノンのトラックだった。

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しかし実際のところ、数々の名曲が生まれたニューヨークのブリル・ビルディングは60年代に入ると衰え始めていた。最も期待されていた新アーティストのニール・ダイヤモンドは、カリフォルニアのモンキーズと同じように曲をリリースし、ソロ・アーチストとして独立していた彼が先導となってシンガー・ソングライターたちが活躍するようになった。

ニューヨークのロックン・ロール時代の最も才能ある作曲者であるキャロル・キングも郊外での結婚生活から抜け出そうとしていた。夫のジェリー・ゴフィンと共にシュレルズ、クッキーズ、そしてリトル・エヴァなどに曲を提供していたが、その仕事から離れキャロル・キングはカリフォルニアへ移り、1967年に新鮮なフォーク・ロックを新たに手掛けることとなった。彼女は、ビッグ3、マグワンプス、そしてジャーニーメンとしてグリニッジ・ヴィレッジでキャリアを積んできたキャス・エリオットやママス&パパスのメンバーたちの先例に従った。バッファロー・スプリングフィールドのメンバーたち(ニール・ヤング、リッチー・フューレイ、スティーヴン・スティルス)も60年代初期の衰えゆくグリニッジ・ヴィレッジのフォーク音楽シーンを経験し、ニール・ヤングはソロ・デモを作り、スティーヴン・スティルスとリッチー・フューレイはオウ・ゴー・ゴー・シンガーズとレコーディングを行い、1967年になるとニューヨークは大きな変化を迎えた。

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ザ・ビートルズが1964年にアメリカに進出する前、自立したロックン・ロール・バンドたちがニューヨークの新しいディスコ・シーンに出現するようになった。元ジョーイ・ディーのスターライターズにいたヤング・ラスカルズなどもそのひとつで、ブロードウェイ近くの45番街にあるペッパーミント・ラウンジで活躍していた。1967年発売の2枚のLPに収められている「Groovin’」、「Love Is A Beautiful Thing」、「You Better Run」、「How Can I Be Sure(邦題:高鳴る心」がヒットしたお陰でその年は彼らにとっては良い年となった。

その一方で、ラヴィン・スプーンフルはグリニッジ・ヴィレッジの変化から最も恩恵を受け、1965年にナイト・アウルでフォークからフォーク・ロックまでを演奏していた。彼らはジョン・セバスチャンが手掛けた素晴らしい『Everything Playing』を9月に発売した。ヴァニラ・ファッジも初のLPをリリースし、シュープリームスのカヴァー曲「You Keep Me Hangin’ On」でラジオを盛り上げた。ジミ・ヘンドリックスは1966年にグリニッジ・ヴィレッジのカフェ・ワ?(Cafe Wha?)に別れを告げ、新たな音楽的方向性を目指していることを暗示した。現在ではエド・サリヴァン・シアターという名前で知られるブロードウェイのチーターが1966年にオープンし、そのクールなクラブでは、1967年にシド・バレットをフィーチャーしたピンク・フロイドがライヴを行っている 。

ブルース・マグース(「We Ain’t Got Nothing Yet」)は、カフェ・オ・ゴーゴーと言う小さなグリニッジ・ヴィレッジのクラブから出現した。1967年に2枚目となるLP『Psychedelic Lollipop』を発売し、テレビ番組スマザーズ・ブラザース・ショーに出演した。その一方でシルヴァー・アップルズはサイケデリック・シンセサイザー・バンドとして突き進みながら1967年には地元のクラブで演奏し、キャップ・レコードから1968年にデビュー・アルバムをリリース。それらはすべてがピークに達した時期で、レフト・バンク(「Walk Away, Renee(邦題:いとしのルネ)」)、ヤングブラッズの代表曲「Let’s Get Together」もその一例である。

カフェ・オ・ゴーゴーでライヴ・アルバムをレコーディングしたブルース・プロジェクトは、65年にブレイクした時から、当時を代表する最高のサイケデリック・バンドへと成長した。6月にはサマー・オブ・ラヴの主要イベントであるモンタレー・ポップ・フェスティバルにも出演したが、年の終わりを迎える前に解散してしまった。キーボード担当のアル・クーパーは新たな方向を目指し、ブラッド・スウェット&ティアーズを結成した。

古びたグリニッジ・ヴィレッジのフォーク・シーンの残党となったティム・ハーディンはデビューLP を1966年に発売し、それには「Reason To Believe」が収録された。1967年の次作『Tim Hardin 2』には「If I Were A Carpenter」が含まれ、それはすでにボビー・ダーリンがヒットさせた曲で、1967年にはジョーン・バエズが、68年にはフォー・トップス、そして70年にはジョニー・キャッシュとジューン・カーターがカヴァーをしている。アーロ・ガスリーの「Alice’s Restaurant(邦題:アリスのレストラン)」も67年にリリースされ、リッチー・ヘヴンス、ホーリー・モーダル・ラウンダーズ、ジム・クウェスキン&ザ・ジャグ・バンド、そしてニュー・ロスト・シティ・ランブラーズも作品をリリースしながらヴィレッジでライヴを続けた。

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その他にもフォーク・ロック・シーンから登場した(そしてモンタレー・ポップにも出演した)アーティストとしてサイモン&ガーファンクルが本領を発揮し、初めてハリウッド映画(『卒業(現代:The Graduate)』)のサントラを手掛けることになった。それとは対象的にボブ・ディランザ・バンドは『The Basement Tapes』として知られる作品を州の北部で制作していた。その頃になるとヒッピー文化はピークに達し、彼らが選んだスポークスマンは既に姿を消し、音楽界に関わることを拒んでいた。

地元から生まれた音楽に関してイースト・ヴィレッジは全く違ったアプローチをとっていた。オフ・ブロードウェイ。元アスター図書館だったジョセフ・パップ・パブリック・シアターが1967年10月17日に初の“トライブ(部族:ヒッピー仲間のことをそう呼んだ)のラヴ・ロック・ ミュージカル”と呼ばれたミュージカル『ヘアー(原題:Hair)』の公演でデビューを果たした。オリジナル・キャストで作られた初のLPも1967年に発売され、翌年にはオリジナルのブロードウェイ・キャストのアルバムが発売され、全米ヒットとなった。ミュージカルでは「Easy To Be Hard」、「Aquarius/Let The Sunshine In」、「Good Morning Starshine」、そしてタイトル曲を含むロサンゼルスのスリー・ドッグ・ナイトとフィフス・ディメンションによるコンテンポラリー・ポップの再録音が使用された。ポップ劇場で公演された『ヘアー』は、時代精神を完璧にとらえており、規制を超えようという意識を広めた。

多くのバンドの自己規制は更に低かった。ザ・ファッグスは当時の雰囲気を象徴している。商業的な考えから拒絶されたはみ出し者で、詩人だったのにビート・ジェネレーション扱いされた。創設者であるエド・サンダースは1965年2月にピース・アイ書店を開店し、仲良く付き合っていたビート・ジェネレーションのトゥリ・カッファーバーグとケン・ウイーヴァーとバンドを結成した。

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ザ・ファッグスはまず65年にアスター・プレイス・プレイハウスのステージに立ち始め、1966年にはプレイヤーズ・シアターでライヴを行うようになった。1967年にはよりアコースティックな3枚目『Virgin Fungs』を発売し、エド・サンダースはライフ誌の表紙を飾ることになった。西海岸へ渡りメンバーたちはサンフランシスコのゴールデン・ゲート・パークにて演奏をした。ベトナム戦争を反対する曲を何年も歌い続け、1967年10月に行われた“ペンタゴンを追い払おう”のデモを引き起こすには相応しい存在となった。

「厄払いが終わると、入り口を守るようにしてライフルを持って立つ軍人たちのいるペンタゴン前の芝生を僕たちは歩いた」とエド・サンダースは思い出す。それは60年代の平和運動を象徴する写真となった。「僕たちは何十本もの黄色いデイジーの花を持っていた。若くて緊張した軍人たちの前で止まり、優しく茎を銃身の中に押し込んだ。」ファッグスはその他にもフロリダ出身のバンド、パールズ・ビフォー・スワインにも影響を与え、彼らはファッグスが契約していた小さなレーベル(ESPディスク・レコード)にデモテープを送り、1967年に『One Nation Underground』をリリースした。

街が一番騒がしくなったのは1966年で、ヴェルヴェット・アンダーグラウンドの音楽がアンディ・ウォーホルのステージ “Exploding Plastic Inevitable”で使用され、そこではゴーゴーダンサーが登場し、アンディ・ウォーホルの映画が投影され、サウンドに合わせた光のショーや装具で演出された。初めにカフェ・ビザール、それからザ・ドムを借りて行われ、アンディ・ウォーホルはロサンゼルス(ザ・トリップ)とサンフランシスコのフィルモア・オーディトリアムでパフォーマンスを行うために西海岸へ向かった。

MGM/ヴァーヴはヴェルヴェット・アンダーグラウンドと、そして同時にアンディ・ウォーホルから紹介されたドイツ人シンガーのニコと契約を結んだ。1967年3月には『The Velvet Underground & Nico Produced By Andy Warhol』(リリース時はその名前で発表)が店頭に並んだ。ルー・リード、ジョン・ケイル、スターリング・モリソン、そしてモー・タッカーはアンディ・ウォーホルと関わる前からバンドを組んでいたので、“Exploding Plastic Inevitable”がその年に終了することになった後も彼らは10年間活躍し続けた。

デビュー・アルバムはより知性に訴えるタイプの作品で、ニューヨークではヴィレッジ・ヴォイス誌とイースト・ヴィレッジ・アザー誌の両方がアンダーグラウンドのイベントを記事に取り上げていたが、他の場所ではあまり注目されなかった。サンフランシスコで行われたヴェルヴェット・アンダーグラウンドの“Exploding Plastic Inevitable”はクロニクル誌の音楽評論家ラルフ・グリーソンに酷評されたが、彼はザ・ファッグスやザ・マザーズ・オブ・インヴェンションを見下していたので驚くことではなかった。ヴェルヴェット・アンダーグラウンドのデビュー・アルバムを購入した人は全員バンドを結成するぐらい影響を受け、彼らは間違いなく最も過小評価されているロック・バンドのひとつと言えるだろう。ザ・ファッグスに関して述べると、ヒッピーの自由愛的な考えを拒否する東海岸の男性にとっても魅力のあるバンドだった。世の中にはもっとシニカルで暗いテーマがあることに気付き、目の前の現実について曲作りをしたバンドもいる。

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1966年後半にロサンゼルスのサンセット・ストリップで起こった暴動のせいで多くの流行りの会場が11月には閉店してしまい、ニューヨーク市はそれで逆に得をした。お陰でフランク・ザッパはギャリック・シアターでの出演契約が延長されたために拠点としていたカリフォルニアからニューヨークへ移り、ザ・マザーズ・オブ・インヴェンションを連れてグリニッジ/ヴィレッジのブリーカー・ストリートにあるカフェ・オ・ゴーゴーの上に引っ越した。

ザ・マザーズ・オブ・インヴェンションは1967年半ばにリリースされた素晴らしいアルバム『Absolutely Free』を1966年後半にロサンゼルスでレコーディングし、リリース前にはニューヨークにてライヴで披露した。幾つかのパフォーマンスが録画され、ザ・マザーズ・オブ・インヴェンションの映画『Uncle Meat』で使用されている。ザッパはサイケデリック・シーンをコンセプトにした最高のアルバムを作り、1968年に『We’re Only In It For The Money』としてリリースした。ザ・マザーズ・オブ・インヴェンションは、ヴェルヴェット・アンダーグラウンドと同じくMGM/ヴァーヴと契約を結び、同時期にハリウッドのサンセット・ストリップで活躍していたラヴやドアーズと契約を結んだニューヨークのフォーク・レーベル、エレクトラと似た考えを持ったジャズ・レーベルとして知られていた。ニューヨークのバブルガム・ミュージック系レーベルのブッダさえもロサンゼルス出身のキャプテン・ビーフハート&ヒズ・マジック・バンドと契約を結んだ。

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最終的にもしかするとロックン・ロールの未来へ最も直接繋がる真の要素は、ニューヨークのティン・パン・アレー という昔ながらの作曲工場を終了させることなのかも知れなかった。ヴェルヴェット・アンダーグラウンドとザ・ファッグスが1975年頃にクラブCBGBにてパンクとニューウェイヴ音楽の青写真を作り始めたことは間違いない。そして次に動機要因となったのは、ブッダ・レコードとプロデューサーのジェリー・カセネッツとジェフ・カッツが1967年に生み出したバブルガム・ミュージックの作曲工場へのより直接な繋がりだったと言えるだろう。

プロデューサー兼作曲家のアーティ・レスニックとジョーイ・レヴィンは、ザ・オハイオ・エクスプレス、ザ・レモン・パイパーズ、そして1910フルーツガム・カンパニー(それらの殆どはニューヨークにいるスタジオ・ミュージシャンたちが作ったアルバム用に結成された形だけのバンドで、歌はジョーイ・レヴィンが歌っていた)のために曲を書き、サイケデリックな時代が到来すると“基本的過ぎる”と言われてしまった50年代のロックン・ロールに最新のビートとペースを与えた「Chewy Chewy」や「Indian Giver」などの多くのヒット曲を生んだ。1968年の“基本へと戻る”動きはザ・ビートルズ、ボブ・ディラン、ザ・ローリング・ストーンズ、ザ・バンド、そしてビーチ・ボーイズの新しいLPに反映されており、ザ・マザーズ・オブ・インヴェンションの『Cruisin’ With Ruben & the Jets』で幾らか例示されている。

そしてニューヨークは次の年代に登場するニューヨーク・ドールズ、ラモーンズ、そしてブロンディなどの余分なものを取り除いたロックン・ロールに方向性を示した。それは生々しく爆発するロックで、現在に至っても若きカルチャーに影響を与え続けている。


♪プレイリスト『サマー・オブ・ラヴ』を聴く:Spotify

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